この日も、とぼとぼとマリアローズは医療塔から、後宮へと戻った。冬の夜の冷たい風が吹き付けてくる。彼女の綺麗な髪に、粉のような雪が触れる。
後宮へと戻ると、憔悴しきったマリアローズを見て、侍女達が心配そうにミルクティーを淹れて、毛布を持ってきて、そして暖炉に火をいれてくれた。それらに小さな声で、礼を告げてから、マリアローズは一人にして欲しいと述べた。侍女達がさがっていった。
「鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」
『それは、マリアローズ皇太后陛下でございます』
「……こんなにボロボロなのに?」
『うん。僕は真実しか告げないからね』
「……ハロルドではないの? 死んでしまうから?」
『さぁ? 僕には与り知らぬことだよ』
「……」
マリアローズは、《魔法の鏡》に映る己を見てから俯いた。
『ねぇ、マリアローズ。君は、聖ヴェリタ教の聖典を読んだことはある?』
「葬儀の準備をしろというの? まだハロルドは生きているのよ」
『――僕の記憶によれば、聖ヴェリタの福音書、第二章第三節の木の実は、林檎を指すのではなかったかな?』
いつもと同じ調子で、《魔法の鏡》が笑うように言った。歌うようなその声音に、ハッとしてマリアローズは息を呑む。『聖ヴェリタの福音書、第二章第三節』は、すぐに思い出せた。聖ヴェリタ大聖堂で、ハロルドと共に聞いたからだ。
――ある時、悪の神が囁きました。その木の実を食べよと。疑うことを知らない無垢な神は赤い唇を開け、木の実を食べました。その木の実に宿る神が、苦い神だとは知らずに。
――目を伏せ、意識を闇に飲まれた無垢な神は、悪夢の神に苛まれる。だが無垢な神を慈しんできた光の神が口づけをすると、無垢な神の悪夢は終焉を迎え、二人は結ばれた。ただし、真実の愛がなければ、いくら口づけをしようとも、目覚めはしない。相思相愛の場合のみ、効力を発揮する――聖ヴェリタの福音書、第二章第三節
「そうだわ。相思相愛なら、林檎の毒を、口づけで……っ!」
いても立ってもいられなくなって、マリアローズは立ち上がる。
「《魔法の鏡》、ありがとう!」
『僕はいつだって君の味方だよ』
マリアローズは、外套も羽織らず、驚く侍女の制止の声も聞かずに、先程とぼとぼと歩いてきた道を逆に駆け抜ける。雪は先程よりも酷くなっていたけれど、気にならない。とにかく、早く。ハロルドの元へと行かなければと、マリアローズはひたすら走った。全力で走ったから、医療塔の特別室についた頃には、体中が熱かった。
――もしも、口づけをしても、目覚めなかったら。
――それは、相思相愛では無かったと言うことなのかもしれない。
――いいや、そうだとしても自分のがわの愛は本物なのだから。
マリアローズは、呼吸を落ち着けてから、麗しい顔で目を伏せているハロルドの顔をじっと見た。金色の流れるような髪、瞼で見えない青い瞳、白磁の肌。その肌は、本当に、今し方吹き付けてきた雪のように白い。
ベッドの脇に膝をつき、ハロルドの胸に両手を添えて、マリアローズは唇を近づける。そして目を伏せ、顔を傾けハロルドに、触れるだけのキスをした。
柔らかな感触を覚えながら、ゆっくりと顔を離し――そして目を見開いた。ハロルドが目を開けて、自分を見ていたからだ。先程まで見えなかったサファイアのような瞳が、確かにこちらを見ている。マリアローズは、息を吸う。それから何か言おうとしたのだけれど、嗚咽が漏れた。号泣していた。これまで声を上げて泣いたことは無かったのだが、感極まって、ハロルドに抱きついてわんわん泣いた。
「マリアローズ、無事だったんだな」
「無事じゃなかったのは、貴方よ!」
「お前が無事ならそれでいい」
「よくない!」
「――それに、俺を悪夢から救ってくれたじゃないか」
苦笑するように、ハロルドが述べ、涙でぐしゃぐしゃの顔をしているマリアローズの後頭部の髪を優しく撫でる。その微苦笑するようなハロルドの顔は優しくて、マリアローズの目から、さらに涙が溢れた。
「そう、ね。そうね。悪夢を見ると聞いたわ」
「ああ、酷い夢だった。最悪の夢だったな」
「どんな夢を見たの?」
「秘密だ」
そう言うとハロルドがギュッとマリアローズを抱きしめる。
その胸に縋り、マリアローズはしばらくの間泣いていたが、次第に呼吸が落ち着いてきた。そうなるまでの間、優しくハロルドが彼女の背を撫でていた。
扉が開いたのはその時だった。いつも執務終わりにひっそりと顔を出していた宰相閣下が、扉を開けたのだ。俯きがちに入ってきた宰相閣下は顔を上げると、驚愕した顔をしてから駆け寄ってきた。
「陛下!!」
叫ぶように声を上げた直後、顔を背けた宰相閣下は目元を右手の人差し指の側部で拭う。だがそれでは足りなかったようで、すぐに鼻水を啜る音が響き始めた。宰相閣下は慌てたように口と鼻を右手で覆う。だがこちらも涙が止まらない様子で、静かに泣き始めた。
逆にハロルドはその光景にぎょっとしていたほどだ。
「すぐに医官を呼んで参ります」
宰相閣下はそう言うと、部屋を走って出て行った。
このようにして、ハロルドの意識は戻ったのである。