――それが、契機だった。

 以降、マリアローズは、ハロルド陛下を意識するようになってしまった。視界に入るだけで挙動不審になり、気づくとおろおろと瞳を揺らし、目が合おうものなら赤面してしまう。なにせ、人生で初めて告白されたのだ。

「鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」
『それは、ハロルド陛下でございます』
「まぁ、そ、そうよね。分かるわ」

 コクコクと頷いたマリアローズは、そんな己に動揺し、思わず両腕で体を抱いた。
 この日は、青色のマーメイドドレスを着ようと考えて、ハッと瞳の色の意味を思い出し、気づくと頬が熱くなっていたので、慌てて別の色のドレスにした。首からは相変わらず秋桜のような飾りのついた首飾りを提げているが、これには意味が無いと自分に言い聞かせる毎日だ。

 それから後宮を出て、回廊を進む。すっかり季節は冬にさしかかっていて、時折霜が降りるようになった。このパラセレネ王国は、アストラ大陸の北に位置しており、冬には多くの雪が降る。騎士団が総出で、毎年雪かきをする。

 今年はどの程度の降雪があるのだろうかと考えながら歩いていると、気づけばハロルド陛下の執務室の前に立っていた。マリアローズは大きく深呼吸をして、煩い動悸を鎮めようとしたが無理だった。諦めて、表情だけ平静を装い入室する。

「遅かったな。後宮の食事は随分と悠長らしい」

 ……しかしながら、あの告白が嘘だったのではないかと思うほどに、ハロルド陛下の態度は今まで通りだった。嫌味つらみの繰り返しだ。はっきり言って、マリアローズから見ると、意地悪だ。

「王宮のように下品な早食いではないの」

 唇を尖らせてからそう返し、マリアローズは己の席につく。
 本日の書類は、仕事環境の改善を約束したドワーフへの対応状況の確認だ。
 王宮へと戻ってから、マリアローズはハロルド陛下とあれやこれやと話し合った。

 そしてまず、『定時を設ける』という事や、『休憩を入れる』という点を、王国法で義務づける事に決めた。これは、ドワーフだけの決まりではない。国中にお触れを出したのである。宰相府も例外ではなく、仕事中毒の宰相閣下はすごく嫌そうな顔をしていたものである。本当に休憩を取っているかは、専門の魔法をこめた魔力球で管理しているので王宮に伝わる。守らないと警告音が鳴り、騎士が派遣される。

 本日は、その警告音が鳴り響いた回数を、マリアローズは確認していた。
 ハロルド陛下に教わった棒グラフで、毎日の数を記していくと、日に日に警告音が少なくなっているのが分かった。

「いい感じね。見て、ハロルド陛下」
「そろそろハロルドと呼んでくれ、マリアローズ」
「!」

 不意打ちでそのようなことを言われ、焦ってマリアローズはハロルド陛下を見た。すると珍しく柔和な笑みがそこにはあった。ドキリとした。唐突に微笑まれたものだから、胸がギュッと掴まれたようになる。唇を震わせながら、マリアローズは必死に笑顔を返したが、上手く笑えていなかった。

「宰相閣下の立案した教育制度だが、設立予定の専門の教育機関は、しばらくは王宮が直接管理することを考えている」

 そのままハロルド陛下は仕事の話をし始めた。その表情には、もう既に笑みは無い。だがマリアローズの心臓はドクンドクンと煩いままだ。

「徒弟制度の廃止は、段階的に行うべきだと考えている」
「そ、そうね。師匠に学びたい者もいるでしょうし」
「ああ」
「教育機関は、貴族も通うのかしら?」
「希望者は受け入れようと考えている。平民も同様に。教育を受ける際は、身分を気にしないという規則を設けることを考えている」

 理知的な声で語るハロルド陛下の表情が、以前はただ冷徹なだけだと感じていたのだが、今のマリアローズには怜悧に思える。

「いいと思うわ。名前はなんとするの?」
「……それが思いつかないんだ。なにかないか?」
「貴方が主導しているのですから、王立……そして学習する場所なのだから、学院! 王立学院はどうかしら?」
「他に思いつかないしな、それでいこう」
「投げやりね……」

 思わずマリアローズは苦笑した。

「まずは基礎的な教育を行う。その場の教師は、王宮の有識者と、聖ヴェリタ教の聖職者に協力を仰ごうと考えている。ヨシュア師に手紙で相談したところ、国内の関連施設に声をかけてくれると約束してくれた」

 優しい顔をした老人の姿を思い出し、マリアローズは頷いた。
 それを確認した様子で、ハロルド陛下が続ける。

「今後は職業選択が可能になるよう、改革を進めよう」
「ええ。出来る場所では、今から始めてしまいましょう」
「そうだな」

 同意したハロルド陛下は、ゆっくりと瞬きをすると、また微笑した。マリアローズに向けられている温かい眼差し。マリアローズは、思わず震えた。まだ事態を正確には受け入れられていないのかもしれない。急に特別視してしまって、いいや、以前から特別視しsていた事に気づかされてしまって、困っているというのがマリアローズの本音だ。

 意識のしすぎだというのは、マリアローズ本人にも自覚がある。

「頑張ろうな、マリアローズ」

 いつの間にか呼び捨てで呼ばれるようになったけれど、昔はそれが自然だったこともあり、しっくりくるから不思議でたまらない。ハロルド陛下に名前を呼ばれるだけで、心が躍る。だが、己はまだ彼を名前で呼ぶ勇気が無いことに、時々マリアローズは切なくなる。

 一線を引いておかないと、すぐにでもギュッと抱きついてしまいそうで怖いと感じる。
 なにせ、自分は皇太后だ。国王の継母だ。白雪王と名高い眉目秀麗な国王陛下の、これでも『母』なのである。いくらハロルド陛下の方が年上だとは言え、継母は継母だ。継母が子供と恋人になるなどおかしいではないか。マリアローズは、そう考えては胸のドキドキに蓋をしようと試みる。

「ええ、頑張りましょう! ハロルド陛下、私達ならば、やれるわ!」

 ただ、最近では、こうして二人で共同で行う仕事が増えつつある。
 そうなればなるほど、距離が近くなる。

 その時乱暴に扉が開いて、宰相閣下が入ってきた。

「おい、なんだこれは!? 教育機関の予算が、二千億ガルドだと!?」

 それを耳にした瞬間、反射的にマリアローズは唇を動かした。

「適正額よ」
「適正額だ」

 その時、答えたマリアローズとハロルド陛下の声が重なった。
 二人は顔を見合わせて頷き合う。
 すると宰相閣下が眉間に皺を寄せた。

「この予算は何処から出すと言うんだ!?」
「後宮を廃止する。後宮費を用いる」
「は?」

 ハロルド陛下の声に、宰相閣下がぽかんとした。

「では、マリアローズ皇太后陛下は一体何処でお暮らしに?」
「私は王宮に部屋をお借りします」
「……なるほど。確かに後宮費は同等の金額だ。ならば我輩はもう何も言わん。ご指示通り、教育機関の設置の手配を致します」
「王立学院と先程名前が決まったのよ」
「承知した。よい名だな」

 宰相閣下はそう言って微笑すると、早足で出て行った。

「激しいな」
「激しいわね」

 再び言葉が被ったものだから、二人は再度顔を見合わせる。息もぴったりというか、次第にこういう事が増えてきた。同じ事を考える頻度が増加している。

 ハロルド陛下の隣は、居心地がいい。マリアローズは、最近そう気がついた。
 真っ赤になってしまったり、動揺したりはするけれど、仕事がとてもやりやすい気がする。また、二人で行った仕事を達成した時は、お互いに笑顔になるようになったから、本当にぐっと距離が近づいた。

 似ている考え方のハロルド陛下に対し、マリアローズは次第に考えるようになった。どうして今までもそばにいたのに、気づかなかったのだろうか、と。真摯に仕事に取り組むハロルド陛下の瞳は、誰よりも綺麗だ。《魔法の鏡》の言うことは、まごうことなき真実だったのだと、マリアローズも今では確信している。

 だからずっと見ていたくなる。
 そう考えた時だった。

「マリアローズ、少し庭園に行かないか?」
「え? どうして?」
「――クラウドと、行っただろう? あいつとは行くことが出来て、俺とは行けないのか?」

 目を眇めたハロルド陛下の声に、胸がまたドキリとしつつ、マリアローズは頷いた。

「構わないわよ。行きましょう。休憩にも丁度いいわね」

 こうして二人で、王宮を出て、久しぶりに後宮の庭園へと向かった。
 そして四阿のベンチに座り、二人で顔を見合わせる。
 もうすぐ雪が降る季節だから、あまり花はない。もう少しすると、庭園は春まで封鎖される。

「おい、マリアローズ」
「なに?」
「目元に睫毛がついてるぞ」
「えっ」

 その言葉に、慌てて目元に触れる。するとハロルド陛下がマリアローズを覗き込んだ。

「取れていない。手をどけろ、取ってやる」

 ハロルド陛下の言葉に、大人しくマリアローズが従う。
 するとハロルド陛下は、片手でマリアローズの顎を持ち上げ、もう一方の手で頬に触れた。

「ちなみにこれは嘘だ」
「え!?」

 驚いたマリアローズの顔に、どんどんハロルド陛下の顔が近づいてくる。
 マリアローズは焦った。焦りすぎて、目を閉じることすら出来ない。
 だからサファイアのようなハロルド陛下の瞳をじっと見据える。混乱して潤んだ彼女の緑色の瞳は愛らしい。ハロルド陛下が僅かに首を傾げ、唇と唇が触れあいそうな距離まで近づけた。マリアローズは、何か言おうと、思わず薄らと唇を開く。すると――フっとハロルド陛下が意地悪に成功した子供のように笑い、手を離して顔を上げた。マリアローズは唖然とする。硬直したまま、真っ赤になる。

「キスされると思ったか?」
「思うでしょう!?」
「可愛かったぞ、今の顔」
「っ、あのねぇ!! どうしてこういう事をするの!? 貴方、本当に私を好きなの!?」
「好きな子はいじめたくなるんだよ」

 そう言って口角を持ち上げたハロルド陛下は、憎らしいほど美しくて、マリアローズは悔しくなり、スカートをギュッと握ってごちゃごちゃの胸中を誤魔化した。