「鏡よ、鏡。この国で一番美しいのは誰?」
『それは、ハロルド陛下でございます』
「そうよね? うん。なのにどうして彼は結婚できないのかしら? モテてはいるのよね? 何故?」

 今日も今日とて虚ろな眼差しを鏡に向けながら、マリアローズは呟いた。
 鉱山から帰って一週間。
 毎日、仕事環境の改善などについて話し合いを重ねつつ――日々の仕事も戻ってきた。本日は皇太后として、後宮の仕事をする予定だ。王宮の仕事を手伝っているからといって、後宮の仕事を蔑ろにするわけにはいかない。

『ハロルド陛下が美しいことには、理由があるからね』
「え? 顔でしょ?」
『僕は顔の美醜で美しさを判断したりしないけれど?』
「じゃあハロルド陛下の一体何が美しいって言うのかしら? 顔以外……服?」
『マリアローズは本当に残念だね』
「なによ、それ……私のなにが残念だというの?」

 不服そうに唇を尖らせてから、はぁと息を吐いて、マリアローズは改めて《魔法の鏡》を見た。そろそろ本格的に、この《魔法の鏡》を継承してくれるハロルド陛下の正妃を選定しなければならない。《魔法の鏡》は前皇太后陛下から受け継いだ大切なものだ。だからこそ、引き継ぐ次の正妃は、きちんとした女性がいいとマリアローズは考えている。

 王族の政略結婚は珍しくない。
 マリアローズ自身がそうだった。
 そうであるから、その相手の候補を、貴族女性に詳しい己が提案するのは責務だとマリアローズは考えている。

『僕はね、恋をしている人や、恋人同士が最も秀麗だと思うけれどね』
「これだけ似姿書があれば、きっと一人くらいは気に入るでしょう」
『マリアローズ? 聞いてた? 僕は今、とても大切なことを伝えたんだけど』
「え? なに? 私今忙しいの。後にして頂ける?」
『あ、はい』

 そのまま《魔法の鏡》は沈黙した。マリアローズが必死に似姿書の山を抱えて歩きはじめたからだ。

 こうしてマリアローズが向かった先は、勿論王宮のハロルド陛下の執務室である。本人に選んでもらう必要があるからだ。この日は特に早起きをして、マリアローズは貰っている合鍵で中へと入り、テーブルの上に似姿書の山を置いた。そしてその横のポットから紅茶を注ぐ。魔石で温度管理がなされているため適温だ。

 カップを傾け、琥珀色の紅茶を口に含みながら、一番上の似姿書を手に取る。
 それは帝国の姫君の似姿書だった。即ちクラウドの妹だ。
 二番目は国内の有力貴族であり、宰相閣下の娘。安心できる信頼していい相手だ。
 この二人が最大の候補である。腕を組み、マリアローズが唸った時、ドアが開いた。

「どうしたんだ? 今日は早いんだな」
「貴方を待っていたのよ」
「俺を?」

 首を傾げたハロルドには視線を向けず、マリアローズは三番目の似姿書を開いていた。これはエルバ王国の、マリアローズ自身の姪にあたる姫君だ。

「何を見ているんだ? 随分と熱心だな」

 つかつかと歩みよってきたハロルド陛下は、山の上の一冊を手に取り表紙を開いた。その瞬間に眉をつり上げて、表情を強ばらせた。それからマリアローズを睨めつけた。

「おい、なんだこれは!?」
「貴方のお見合い写真を選んでいるのだけれど」

 似姿書を真剣に見ているマリアローズは、睨まれている事に気づいていない。
 だから素直にそう告げた。

「ねぇ? 誰が良――……」

 そして漸く顔を上げた時、そこに非常に不機嫌そうな顔があることに気がついた。それもいつもとは異なり、本気の怒気が宿る瞳をしている。憤怒が全身から溢れ出しているような気迫で、サファイアのような瞳に怒りの焔を揺らめかせ、じっとマリアローズを見据えている。あまりにもの気迫に、マリアローズは仰け反った。本能的な行動だった。

「そんなものは不要だ」
「……」
「俺には、既に好きな相手がいる」

 強い語調でそう言われた時、マリアローズはズキリと胸が痛んだ。それは恐怖からではない。なんとなく、ずっと一緒にいたハロルド陛下が、自分の与り知らぬところで恋をしていたと聞いたら、寂しさに似た不思議な感情がこみ上げてきたのだ。そうか、他の人のものになってしまうのかと、漠然と考える。

 しかしそれは当然のことだ。
 いい事ではないか。
 すぐマリアローズは、そう考え直した。ならば、似姿書の山は確かに不要だと考えて、マリアローズもまた真剣な眼差しを返して、大きく頷いた。

「ならば、すぐにその方とご成婚なさって下さい!」
「……」

 力強くマリアローズが述べて拳を握る。
 まだ険しい顔のままのハロルド陛下は口を閉じている。形の良い唇が、怒りで震えているのが分かる。

 ――もしかして、結婚するのが困難な相手なのだろうか?

 必死にマリアローズは考える。お茶会の情報網や、数少ない外交に伴った時のこと、似姿書でしか見たことのない相手の中から、婚姻が困難な相手を探そうと試みる。非常に高貴な人物か、逆にとても身分が低い相手か……そのどちらかしか考えられない。

 だが誰であっても、ハロルド陛下の気持ちは優先するべきだ。するとまた胸がズキンと痛んだ。その理由が分からなくて、胸を押さえながらマリアローズは、笑顔を取り繕って続ける。

「私、皇太后として、全力で応援致します。すぐに後宮に迎え入れる用意をしなければ。それに伴い、側妃も各国から――」

 既に人質制度は形骸化しているが、しきたりはしきたりだ。
 すると、今度は何故なのか、ハロルド陛下が遠い目をした。完全に残念そうな瞳に変わった。悲しげでもあるし、呆れているようでもある。《魔法の鏡》にも残念だと言われた朝の記憶を思い出す。

「マリアローズ様。俺はその相手を愛している。だから好きな相手以外はいらない。よって後宮は持たない。不要だ」
「えっ」

 その言葉にマリアローズは驚愕して目を見開き、息を呑んだ。二つ、想定外な事が襲いかかってきたからだ。まずは後宮を持たない……ありえない事だとマリアローズの顔が引きつる。次に……この冷徹で嫌味まみれのハロルド陛下の口から、『愛』なんて言葉が出てきたことに驚かずにはいられなかった。耳を疑い、マリアローズはぽかんとした。

「そ、そこまで……?」
「ああ、そうだ」
「本気なのですね?」
「勿論だ」

 こくこくとマリアローズは頷き、真剣な表情に変わったハロルド陛下を見据える。

「それで? お相手は誰なのですか?」
「マリアローズ皇太后陛下」
「はい」
「だから、マリアローズ皇太后陛下だ」
「はい?」
「――お前を好きだと言っているんだ、マリアローズ」

 マリアローズはその言葉を脳裏で三十回くらい反芻した。好き、とは。好きが頭の中で廻りすぎて、意味が分からなくなった。好きとは一体なんだったか。ぐるぐるとマリアローズは考えて、そして言葉の意味に気づいて息を呑んだ。

「えっ!?」

 驚いて口を半開きにしてしまう。淑女としてはあり得ない表情だ。
 マリアローズはそのままの顔で、立っているハロルド陛下を見上げ、何度か瞬きをした。そこにはいつもと変わらない麗しい顔がある。マリアローズには、今自分達の間に横たわっている沈黙が異常に長く感じられた。だが実際には、続いてハロルド陛下が口を開いたのはすぐ後、一瞬先のことである。

「俺は、叡神都市フロノスの街中でその首飾りを買った際、それについている魔石の意味を知っているかと聞いたな?」
「え、ええ……」
「それは『永遠に愛する』という意味を持つ魔石だ」
「へ……?」
「本来は恋人の女性や妻に贈る品だ」
「え!?」

 全く知らなかったマリアローズは、王宮の人々には恋人がいるのかと考えて、現実逃避をした。可愛いから身につけているのではなかったのだと発見した。流行ではなかったらしい。

「そもそも、だ」
「な、なにかしら……?」
「俺は、エグネス侯爵家におけるクラウド殿下を歓迎するための夜会において、マリアローズ――お前にドレスを贈っただろう?」
「ええ。とても上質で綺麗な青いドレスをいただきましたわ。そ、それがなにか?」

 おろおろしながらマリアローズが先を促すと、左目だけを窄めて、ハロルド陛下が腕を組み、顎を持ち上げた。眼光が鋭く、マリアローズは射貫かれているような心地を味わった。

「幼くして後宮に入られて、ご存じないようだがな、マリアローズ皇太后陛下は」
「な、なにをかしら?」
「このアストラ大陸全土において、己の目の色のドレスを贈るというのは、相手を独占したい時の証、その場合に贈ると決まっている。だからクラウドも大胆だと言ったんだ。俺もまた、マリアローズの瞳の色、緑の装いをしていただろう。あの時点で、気づくと俺は思っていた。愚かだったな。まさかマリアローズ、お前がドレスの色の意味を知らないとはな。予想外すぎたぞ」

 早口で語られたその言葉を、マリアローズは理解するために、再び脳裏で何度も反芻した。そして意味に気づいた時――一瞬で赤面した。どんどん頬が熱くなっていく。自分が真っ赤になっていると確信し、思わず右手で唇を覆った。目をまん丸に見開いて、長い睫毛を動かし、現実なのかと考えながら、ハロルド陛下をまじまじと見てはぱちぱちと瞬きをし、またまじまじと見るという仕草を繰り返す。

「――そこまで朱くなられると、脈があると勘違いしそうになるぞ」
「……」
「いいや、あると思う事にする。悪いが、俺は諦めるつもりは無いからな。覚悟しておけ」

 きっぱりとそう断言すると、ハロルド陛下は自分の執務机に向かって歩いていった。
 そして椅子に座ると、なんでもないように、本日の書類仕事を始めたのだった。