その後は街の視察をすると決まっていた。ただし、都市を治める伯爵の手を煩わせることがないように、また鉱山に行く際も騒ぎにならないよう、お忍びで行動すると決まっていた。マリアローズにとっては、初めての『お忍び』だ。大聖堂で平民風の服装に着替えてきた。ハロルド陛下は騎士の服を身に纏っていて、腰には剣がある。
「ねぇ? ハロルド陛下」
「呼び名で露見する。ハロルドで構わない」
「……ハロルド?」
そう呼ぶのは、随分と久しい気がした。なんだか擽ったい気持ちになりつつ、マリアローズは気を取り直して尋ねる。
「お忍びとは、どうすればいいのかしら?」
「街をブラブラ散策するだけだ」
「まぁ……私、王都以外の街は見たことがないのです。王都ですら、ほとんど見たことがないわ。前国王陛下は、私が幼かったから、公務に伴わなかったので」
なんだか楽しみだと考え、わくわくしながらマリアローズは周囲を見渡し、それから石畳の歩道の正面をしっかりと見て歩きはじめる。まるでいつか仔猫を見つけた時のような気分だった。あの時も確か、ハロルド陛下が一緒だったなと思い出す。
「あ」
少し歩くと、宝飾店があった。硝子の向こうに、いくつもの首飾りや指輪が飾られている。その中に、最近王宮の女性の間で流行している首飾りを見つけた。
「綺麗……」
「――王宮で、この五倍はする高級品をマリアローズは購入しているだろう」
「それは、そうだけれど……このように、お花のような首飾りはないわ」
「欲しいのか?」
「……いいえ。お金を持っていないもの」
マリアローズは俯いた。後宮では、全て周囲が手配してくれるため、金銭は持たない。仕事として維持費やドレス代の管理をする事はあっても、それは書類上のものだ。生まれてこの方、マリアローズはお金を持ったことがない。そもそも買い物をしたことも、後宮にくる商人が差し出す品から選ぶ以外ではしたことがない。支払いは侍女達がしてくれる。だがただ知識として、お金が必要だというのは分かっていた。この国の通貨であるガルド紙幣が必要である。
「入るぞ」
「え?」
「俺は当然持っている。財布の用意もなく外に出ることなどしない」
呆れたように言うと、ハロルド陛下が先に店内に入ってしまった。
慌ててマリアローズは追いかける。
「ハロルドも、実は首飾りが気になっていたの?」
「まぁな」
そう言うとハロルド陛下は、先程外から見えた硝子のところに立った。そこに飾られているのは、細い鎖の先に、ごく小さい秋桜のような花弁がついていて、中央に魔石が嵌まっている品だった。
「これか?」
「え、ええ……」
ハロルド陛下が指さした先を見て、小さくマリアローズは頷く。
「これに嵌まっている魔石の意味を、知っているか?」
「え? いいえ。どういう意味なの?」
「知らないならば、それでいい」
ハロルド陛下は振り返ると店主を呼んで、その首飾りを購入した。
「さっさと身につけたらどうだ?」
「え、あっ……宜しいの?」
「俺には不用な品だ。ありがたく思え」
いつもならばハロルド陛下の言葉は不遜に感じるのだが、今は心から嬉しくて笑顔でマリアローズは頷いた。すると焦ったような顔をしてから、ハロルド陛下が視線を揺らし、そのまま顔を背けた。
マリアローズが喜びながら花がモティーフの首飾りの鎖を首の後ろで留めた時、ハロルド陛下が言った。
「そろそろ行くぞ」
「ええ」
こうして二人は外へと戻った。
そして他の店の商品にあれやこれやと言い合ったり、道行く親子連れを眺めたりしながら、角を曲がって近くの森の方を見た。
「魔狼だー!」
すると叫び声が聞こえ、一人の青年が走って逃げてくるのが見えた。
瞬時にハロルド陛下の表情が真剣なものへと変わる。追いかけてくる魔狼は巨大で、マリアローズは凍り付いた。
「ここにいろ。絶対に動くな」
ハロルド陛下は正面を睨み付けたままそう言うと、腰の剣を引き抜きかけだした。唖然としてマリアローズが凝視する前で地を蹴り跳んだハロルド陛下は、迷いなく魔狼の首を剣で落とした。すると魔力の塊であるから、魔狼の頭部だったものも、胴体だったものも、黒い靄になって、空気に溶けて消えた。着地し、剣を一振りしたハロルド陛下は、今度はゆっくりと歩いて戻ってくる。
その姿に、マリアローズは肩から力が抜けた。怖かった。魔狼も怖かったが、ハロルド陛下にもしものことがあったらと、そちらの方が怖かった。だが悠然と歩いてきて己の前に立ったハロルド陛下に怯えは見えない。
――震えていない。
過去の記憶が甦り、マリアローズはぽつりと呟く。
「もう、震えないのね」
すると虚を突かれた顔をしてから、不意にハロルド陛下が柔らかな微笑を向けた。
「覚えていたのか」
「ええ」
「そうだな。もう俺は、震えることはない。強くなる努力をした」
ハロルド陛下に笑顔を向けられた瞬間、マリアローズの胸がドクンとした。
惹き付けられて、ハロルド陛下から目が離せなくなる。
「さて、そろそろ戻ろう。近衛達も心配していることだろうしな」