翌日は、大聖堂への礼拝があるので、早起きをして外へと出た。
支配人に見送られて馬車に乗ってすぐに、マリアローズはチラリとハロルド陛下を見た。非常に眠そうな顔をしている。まるで徹夜で書類を片付けた翌日のような顔だ。
「眠れなかったのですか?」
「お前こそよく眠れたな。その図太さに、俺は感服している」
「きちんと寝ないとお肌に悪いですもの。皇太后たるもの常に美には気を遣わなければなりませんので」
そうは言いつつ、マリアローズも熟睡出来た自分を褒め称えていた。眠れたおかげで、気まずい夜は回避できた。
こうして向かった聖ヴェリタ大聖堂では、聖職者のヨシュア師が出迎えてくれた。老齢の男性で、白髪を後ろになでつけている。目元に優しい皺のあるヨシュア師は、穏やかな笑みを湛えて、二人を出迎えてくれた。
紺色の絨毯が、祭壇まで届くように敷かれていて、左右に木の椅子の列がある。
祭壇の脇には台があり、銀色の燭台がそれぞれに載っていて、火が灯っていた。
壁には左右にステンドグラスがあり、その正面には、聖ヴェリタの像と、五代前の国王陛下の像が置いてある。非常に広く、祭壇の前に歩いていくだけでも、宿の入り口から昨夜の部屋に行くよりも遠い。後ろから寄付する品を持った侍従達がついてくるのを首だけで振り返って確認しつつ、マリアローズは、ハロルド陛下の隣を進んだ。
前を歩くヨシュア師が祭壇の前で立ち止まり、一礼してから、奥にまわって、祭壇を挟んで向かい合う位置に立った。立ち止まった二人は、一段高い位置にいるヨシュア師を見る。聖職者に位はないので、王族よりも高い位置に立つことも許可されているので、教会や聖堂は皆、こういった造りだ。
「それでは、祝詞を」
ヨシュア師はそう言うと、厳かな声で祝詞を唱えはじめた。
二人は耳を傾ける。
八百万の神について説く聖典を、静かにヨシュア師が読み上げた。
「――ある時、悪の神が囁きました。その木の実を食べよと。疑うことを知らない無垢な神は赤い唇を開け、木の実を食べました。その木の実に宿る神が、苦い神だとは知らずに」
マリアローズは、家庭教師から聞いた聖典の解釈を想起する。
その木の実というのは、林檎の事らしい。そして苦いというのは、毒をさすのだったか。そう考えているとヨシュア師が続けた。
「目を伏せ、意識を闇に飲まれた無垢な神は、悪夢の神に苛まれる。だが無垢な神を慈しんできた光の神が口づけをすると、無垢な神の悪夢は終焉を迎え、二人は結ばれた。ただし、真実の愛がなければ、いくら口づけをしようとも、目覚めはしない。相思相愛の場合のみ、効力を発揮する――聖ヴェリタの福音書、第二章第三節」
祝詞を唱え終わると、ヨシュア師が微笑した。
「この祝詞は、前皇太后陛下がとても気に入ってくださった一節です」
それを聞き、マリアローズとハロルド陛下は顔を見合わせた。
「母上が?」
「ええ。年に一度は、この聖ヴェリタ大聖堂にお越し下さって、施しをなさって下さいました。お若くして亡くなられたのが、残念でなりません。今もこの大聖堂には、前皇太后陛下より賜ったこの銀の二つの燭台があるのです。一度も火を消すことは致しません。前皇太后陛下が安らかにお眠りになることを祈って」
それを耳にすると、マリアローズの胸が締め付けられた。親代わりのようだった己の前の正妃様――前皇太后陛下の事を思い出すと、いつだって心が苦しくなる。
「では今後は、私が参ります。私もまた、前皇太后陛下が安らかであるように祈り、前皇太后陛下のお心を継いで、出来るかぎりの施しをすると約束致しますわ」
「俺もまた、それに伴いましょう。母上のために……感謝致します」
偶発的に前皇太后陛下の軌跡に触れた二人は、その後は大聖堂の中を一時間ほど案内されてから、部屋を借りて、マリアローズ達は着替えた。そしてヨシュア師に見送られて外へと出た。寄付した品は、大層喜ばれた。