二〇二六年一一月某日
東京西部の某アパート
カタカタとキーボードを叩いて文章を打ちこむ。少し考える。また打ちこむ。手が止まる。資料を取り読み直す。ふむ、なるほどこういうことか……、と納得したところで、遠くから17時の時報が鳴っていた。
札幌の大学を卒業して、就職のために上京した僕が驚いたことのひとつが、この17時の時報だった。てっきりこういった町内に流れる時報は、地方特有のものだと思い込んでいたので、都会で流れるのを聞くのは意外だった。
ともあれ、11月にもなるとこの時間はすでに暗くなってきている。文章は中途半端なままだったが、ある作家さんのアドバイス、「執筆は半端に残して明日に回す」を僕も実践しているので、今日の作業を終えることにした。
・・・
色々あって今の僕は主夫業をしている。家事をこなしながら小説の執筆をするのが日課となっていた。いつの日か小説賞を獲得し、小説家になるのが、今の目標だった。
デスクトップを閉じると、買い物の支度を始めた。彼女が帰ってくるのは大体19時くらいなので、それまでに晩ごはんの支度をしよう。今日はなににしようかな?
玄関を出ると風が少し冷たかった。スーパーまでは10分ほどの道のりだけれど、体が冷えるには十分だった。ちょっと外に出た僕がこうなのだから、都内の建設現場で指揮を執る彼女はもっと冷えているかもしれない。今夜は温かいものにしよう。
食材を買い込み帰宅した。買ってきた食材を一度冷蔵庫に放り込み、エプロンを着けた。個人的にはエプロンなんてあんまり意味がないかとも思っているが、着ることによる気分の切り替えの方を重視している。「これから料理をするのだ」と、ね。
台所は一人暮らしの頃より充実しているのがありがたかった。あの頃は精々、レトルトや袋ラーメンを作るのが関の山みたいな貧相なものだった。今のアパートなら、まな板をおいて食材を刻んだりできるスペースがあるし、フライパンをつかって炒め物を作るときにもレンジフードがちゃんと煙を吸ってくれる。引っ越しして本当によかった。
さて、今夜の支度をしよう。僕は冷蔵庫から食材を出して、使う分だけを包丁で切り出した。大根、人参、ゴボウ……。それらの皮を剥いて、大根や人参なら銀杏切りに、ゴボウならささがきにした。
切った食材はボールに入れておき、今度は汁を作る。鍋に水を張り、最初に出汁袋を入れる。煮立ったら袋を取り出し、適当な量の麺つゆを注いだ。そして、さきほどの食材を鍋に放り込んだ。
その他にも鶏肉や椎茸を追加した。順番はちょっと滅茶苦茶かもしれないけれど、最終的に食べられればOKなのだ。
具材に火が通ったのを確認し、弱火に調節した。
ここまでで18時半となっていた。後の支度は彼女が帰って来てからだ。空いた時間に、テーブルのランチョンマットを整えたり、ちょこちょこ掃除してみたり。そんなことをしながら〝今頃電車に揺られているかな、極端に疲れていないかな?〟などと考えたりした。
特に連絡は来ていないので、今夜も19時くらいには帰ってくるだろう。
ほぼ準備は整ったので、一度火を止め、後はテレビを観ながら彼女の帰りを待つことにした。
・・・
19時のニュースが始まった頃チャイムが鳴った。帰ってきた。玄関を開けると、一日頑張った彼女がいた。
「ただいま」
「おかえり」
彼女は疲れた様子を表に出さず、笑顔を湛えていた。いつも思うけれども、彼女は本当にタフだ。心も体も。
「今、ごはんの支度をするね」
僕は料理の続きを始めた。
冷蔵庫から生めんタイプのうどんを二玉出し、煮たてた汁に放り込んだ。5分も茹でれば完成だ。
その間に彼女は着替えをしていた。仕事ではキッチリ制服を着ていたり、現場に入る際には作業着を着ている。時には現場作業員に混じって硬式作業服(いわゆるパワードスーツって奴だ)を装着し、力仕事も厭わない性格だ。一度「そこまでする必要があるのかい?」と聞いたこともある。「現場の苦労を知らないと、工程管理もできないでしょ」というのが彼女の言い分だった。
現場に配属された当初は「女の子が来た」とかなんとかでお兄さんやおじさんから軽んじられることが多かったみたいだけど、彼女のひたむきな態度や行動がが彼らの心を動かし、今ではかなり信頼されているようだ。
そんな感じでハードに仕事をこなす彼女は、家では極力リラックスしたいらしい。それもそうなのだけれど、着ているのが彼シャツ一枚というのも中々極端だと思う。その割に僕と彼女ではあまり体格差がないので、胸元はパンパンに膨らんでいる。
それだとあまりリラックスにならないのでは? とも思ったのだが、彼女は「あなたの着ているものを着たい」と譲らない。まぁ、これは惚気もいいところなのだけど、悪い気はしない。
いつのまにか5分経った。茹で上がった麺をどんぶりに移し、汁を注ぎ、具材をよそう。そしてテーブルに運んだ。
「今夜は野菜たっぷりのけんちんうどんです」
「ありがと。寒い時期にはぴったりだね」
「そういってもらえると嬉しいよ」
ふたりでハフハフ言いながら食べた。彼女は「美味しいね」と言ってくれ、一日の疲れが洗い流されたような気分になった。
静かにテレビの音が流れているけれど、やっぱり一日が終わり、ゆっくりとふたりで過ごす時間はなににも代えがたい。
・・・
夕食後、さっさと洗い物を済ませシャワーを浴びて、ふたりで映画を観た。今夜は結構昔のアクション物だ。
ソファでふたり、くっついて映画を眺める。主人公の男性はモリモリマッチョでカッコいい。片手でロケット砲を構え、片手でマシンガンを乱射して敵をなぎ倒すのは、観ていてスカっとする。
ちょっと気になり彼女に尋ねた。
「ねぇ、こういうマッチョな男の方が、君には似合うんじゃない?」
「そうかな? わたしはあんまり気にしたことがないなぁ」
「そう。今更だけど、僕でよかったの?」
彼女は振り返り、僕にささやいた。
「気になる?」
「気になる」
「そうねぇ、肉体的には……あなたは普通だと思うけど、わたしが好きになったのは、あなたが『自分の小説で、読んだ人が明日も頑張れるような作品を作りたい』って言ったことよ」
「あぁ、そうなの?」
「人を思いやれる事って、中々今の世の中貴重なことよ。わたしはそこに惹かれたのよ」
思わぬ言葉に顔が赤くなってしまう。
「この主人公だってそうじゃない。大事な娘さんのために、命も経歴も投げだして相手の本拠地に乗り込むんでしょ。あなたの場合、腕っぷしはないけれど、筆の力でどこかの誰かを救うかもしれないわよ」
「……」
「だからさ、今の調子で執筆頑張って」
「うん」
思わぬ励ましに、なんだか色々こみ上げてくる。
「わかった」
「ほら」
うん?
「もう少しでクライマックスよ。やっぱり最後は肉弾戦ね。今度はどちらが勝つかしら?」
「ふっふ、そうだね。今回は敵が勝つかもしれないね。主人公を応援しなきゃ」
最後にくだらない話をして、その日が終わった。
・・・
翌朝。ふたりで近所を散歩するところから一日がスタートする。彼女はともかく、僕の運動不足を解消するために、何時の頃か彼女が提案した。本当に彼女はタフだ。
帰宅して簡単な朝ごはんを用意した。BSの朝ドラを観たら彼女の出勤だ。玄関でいってらっしゃいのキスをして互いの仕事にかかる。
今の僕は家事と執筆が仕事だ。洗い物と洗濯を済ませれば、僕の時間だ。デスクトップを立ち上げ、今日の執筆をスタートさせる。昨日半端に終えていたので、そのまま続きを書き始める。さぁ、どういうまとめ方をしようかな。
しばらくカタカタとキーボードを叩いていたが、ふと、打ちこむ手を止める。
……一日執筆をすれば、夕方には彼女が帰ってくる。一日頑張って帰ってくる彼女にどんな晩ごはんを用意しようかな。どんな晩ごはんをこしらえれば、彼女が喜んでくれるかな。
そうして彼女を想える今の自分も悪くはない。
そう考え、再び執筆を始めた。