弟の寿和は時折船に乗って海を渡ります。
向かう先は大英帝国というのだそうで、わたくしの住む日輪帝国よりもずっと進んだ国だそうです。わたくしは詳しいことを伝えられておらず、彼の旅の目的も存じ上げぬことが多いのですが、彼がほんの少し教えてくれたことによると、英国の進んだ法律や思想を日輪に取り入れるべく、複数の仲間と学びに行くのだそうで。
彼が優秀らしいと聞かされてはおりましたが、まさか日輪の代表に選ばれるほどの能力を持ち合わせていたとは思いもしませんでした。海の外に行くと教えられた時は仰天してしまったほどです。
わたくしに学と呼べるほどの学はありません。まだ学のある女はほとんどいませんから、学がなくても困りはしないのでしょうけれど、寿和が何を学びに行くのかを理解できないのはいくらか寂しくあります。わたくしに新しいこと楽しいことを教えてくれるのは彼しかいませんから。
寿和はひじょうに身体が弱く生まれました。難産だったようで、母は少しでも長く生きられるようにと、赤ん坊に「寿」の字を与えました。
赤子の頃から風邪や高熱を繰り返した彼は十歳になるまで生きられるか分からないと、わたくしの家が懇意にしている医師に言われました。
当然のように、両親はわたくしよりも寿和を大切に大切にしました。わたくしが転んで泣いていても、両親は助け起こすことはありませんでした。鼻かぜを拗らせた幼子がいつ命の危機に瀕するか分からなかったからです。
幼いわたくしは彼を憎く思いました。しかし彼のちいさな手に握られると、そんな気持ちはしぼんでしまって、柔らかい手のひらを愛らしく思ったのでした。
そうして家族の皆、使用人も含め彼のことを愛し、彼を何よりも優先するようになると、彼は己の主張を通すために自分の体調を使うことを覚えました。
『ぼくはいつまで生きられるか分からないから』
何を言うにも、この言葉がついて回りました。欲しいもののおねだり。食べたいものを母から譲ってもらおうとするとき。彼は必ずこの言葉を口にしました。彼は幼い頃からひどく整った容姿をしていて、細い線を描く身体や顎は、病弱な儚さを引き立てるものがありました。そのうえ、彼は我儘を言うときは目をわずかに潤ませて、色の薄い頬をほんの少し赤らめて、控えめに主張をするのです。
両親はその我儘が切実な願いであるとすっかり騙されて、彼の欲しがるものしたがるもの全てを叶えてしまうのでした。
わたくしは学校を休みがちになりました。彼が熱を出した時、必ずわたくしを側に置きたがったからです。まだ文字を習っている頃にそれは頻繁にあり、そのためわたくしは十七になるというのに十分に文字を読むことができません。それだけでは済まず、わたくしが友人と仲を深めようとする度、うつくしい男の人に心を寄せようとする度、彼はひどい熱を出しました。
彼は両親に「姉さんが構ってくれなくて寂しい」と告げ口し、わたくしの交友関係はすべて制限されました。弟のひとことでわたくしの年頃の乙女ながら皆が夢に見るであろう、うつくしい方と結ばれる願いはもみ消されてしまったのです。
『母さんと姉さんにはずっと傍にいて欲しいな』
熱を出した時、彼はそう母に告げたそうです。
母はわたくしを結婚させて他所の家に出す事が、彼の身体に触ると考えたようで、父が相談を進めていたわたくしの結婚を取り消してしまいました。わたくしが十三歳の時でした。まだ弟は十一歳、わたくしからすれば幼い年頃です。しかしわたくしが呆然としながら看病に向かうと、彼はごくごく普通に起き上がって、うっとりとわたくしの指に口づけたのです。
ほんとうは彼は体調なんか悪くないのだと、彼は熱を出そうと思えば熱を出せるのだと、その時気が付きました。この数年の体調の悪さはきっと、すべて家族を、特にわたくしを思う通りに操るための演技であったのに違いありませんでした。
その日以来、わたくしは寿和のものになりました。両親は嫁に出さないならば女学校に通わせる必要もないと、必要最低限の学校だけ通わせてわたくしを家に置きました。
花嫁修業らしきものも取り上げられ、わたくしは裁縫もできなければ料理を作ることもままなりません。どうやって何もない日々を過ごしていくかを考えると、やはり庭から先の景色を想像するか、家族が持ち帰る話を楽しみにする他ありませんでした。
わたくしを家に繋いだ人物であるのに、寿和の持ち帰る話がいちばん退屈を紛らわしてくれました。身体が丈夫になりつつあった彼は何年も前からたくさん勉強をしたようで、わたくしが当たり前に眺めていた星は実は動いていないこと、動いているのが地面であることを教えてくれたり、昔から多くの学者たちが人間は何で出来ているのかを考え続けていたことを教えてくれたりしました。
両親はどちらも華族の生まれではありますが、二人とも勉学には疎かったようで、二人とも寿和をひどく褒めました。わたくしもその輪に混ざって彼を讃えました。何もない暮らしに変化を与えてくれるのは、彼しかいないと思いました。
数年経つと彼はさらに丈夫になりました。そして同時に賢く、強かになりました。わたくしの前ではひとりの男のように振る舞うのに関わらず、両親の前では儚げな少年のままでいました。変わらず両親は寿和の言いなりです。彼に渡英の話が舞い込んできたのは、その頃でした。
「もうじき寿和が帰ってくるわ」
帰国したという知らせが届いたのは昨日でした。身体を休めに立ち寄っていたサイゴンから先んじて手紙が送られ、おおよその帰国の日取りは知らされていたのですが、彼の帰国に家中が舞い上がりました。もちろん、わたくしもです。
寿和はいくらか政府への用事があるそうで、帰国してすぐに我が家に帰って来られるわけではないようでした。家に着くのは今日の夜近くになるそうで、母はご馳走を作るために張り切って厨房に立っています。
「お前も何か手伝いなさい」
部屋にぼんやり座り込んでいたわたくしも母に突かれたのですが、母が切り盛りしている家の事にわたくしは入り込む間がありません。仕方なしに庭の花を花瓶に生けていると、母はその出来を見て顔をしかめるのでした。
わたくしは庭の向こうを見つめて待ちました。高楼の造りの我が家からは外の様子がよく見えます。いつもは寿和に言われて障子をきっちりと閉めているのですが、今日くらい許されて然るべきだろうと、わたくしは外を見続けました。
やがて暗い夜道にぽつりと光が差します。淡い提灯がゆらゆらと揺れ、ゆっくりとこちらに向かって来るのです。わたくしはたまらず庭に飛び出しました。すると提灯の火はもう扉をくぐったところで、彼の顔を照らしました。船旅で少しやつれたようでしたが、わたくしを甘い目で見つめるその姿は、彼そのものでした。
「一年と半年、長かったわ」
「僕もだよ」
「嘘を言うのはおやめ。英国は楽しかったのでしょう?」
「そうだね。翠子に話したいことがたくさんある」
彼のいない一年の間、どれほど退屈を紛らわすのに苦労したか、言葉を尽くしても彼に伝わることはないでしょう。わたくしを苦しめるために彼はわざと海を渡ったのだろうとすら思っていました。そうすれば与えられる甘露は劇薬のように、わたくしの身体を溶かすでしょうから。
それは退屈に苛まれたわたくしの妄想なのではなく、実際彼が企んだことなのでしょう。渡英を政府に言い渡されたことが、都合の良い出来事であっただけなのでしょう。しかしそんな恨みが弾けてしまうほど、「話したいことがたくさんある」という言葉がわたくしの胸を躍らせました。
夕食はそれはそれは賑やかでした。寿和の苦労を讃える父、帰国を泣いて喜ぶ母、彼の話をねだるわたくし。幼少からのか弱さと渡英で得た逞しさが交互に顔を出し、母を喜ばせ、わたくしの心を揺らします。
疲れを理由に、寿和は歓談をそこそこに部屋に引き上げました。机の下で着物の裾を引っ張られましたので、わたくしも一緒に来るようにという合図だと理解しました。
寿和がいなくなった食卓は母にとっても父にとっても意味のないものでしたので、わたくしもそっと部屋に引き上げます。わたくしが自分の部屋に入るとやはり寿和がそこで待っていて、わたくしを抱き寄せました。
ああ、いったい彼はどうやってこんな愛情表現を学んだのでしょう。驚ろく声は彼の唇によって塞がれて、深い口づけに変わりました。
彼との口づけは、初めてではありませんでした。彼が日輪国を発つ前夜、彼に乞われて拒むことが出来ませんでした。
わたくしは退屈が何よりも恐ろしいのです。身体を差し出して彼が日輪に留まってくれるのなら。そんな思いがよぎって、わたくしの着物の帯をほどく彼を止めませんでした。
あの日はぎこちなく手を伸ばすような、懸命な様子でわたくしに触れる様子にいくらかの可愛らしさを感じたものですが、英国できっと女遊びもしたのでしょう、慣れた手つきでわたくしに甘く触れ、丁寧にただし性急にわたくしを溶かしていくのでした。
弟を拒めないわたくしは罪びとと呼ばれるべきなのでしょうけれど、わたくしの人生を握ってしまった彼を突き放すことは出来ないのです。彼が可愛いのだと、同じように愛しているのだと思うことで、わたくしはわたくしを守っているのでした。
彼がわたくしの肩を噛み、胸元に吸い付きと、いくつもの印を残していきます。掴まれた手首や腰はきっと痣が残るでしょう。侍女はそんなわたくしの身体を怪しむでしょうけれど、皆彼に絆されているのです。誰も文句を言うはずがありませんでした。
疲れて二人で眠り、鳥が鳴くよりも早く起き上がりました。わたくしは彼に土産として与えられたオルゴールとやらを鳴らしながら、英国での話をねだります。彼はわたくしの髪に可愛らしい髪飾りを挿しながら、向こうの出来事を語り始めました。裸体に彼の視線が刺さりますが、もう今更でした。
どうやら日輪の国以外にも英国を訪れた者たちはいたようで。彼は勉学ももちろん楽しんだようでしたが、どちらかというと彼は異国の人々との交流を楽しんだようでした。また彼は商人とも交流を持ったようで、わたくしの髪をなんども結びなおしては付け替えている髪飾りたちは、英国のものだけではなく海を渡ってすぐの国のものも、独逸や埃及といった名前をかろうじて聞いたことがある国のものもあるようでした。
「踊り子と遊んでいたのね。ひどいわ」
「違うよ、パトロンになっただけだよ」
「でも結局遊んでいたってことでしょう」
「ごめんごめん」
僕がいちばんに愛しているのは翠子だよ。そんな言葉と共に、軽く唇が重ねられます。わたくしは不貞腐れたようにその口づけから逃げますが、あっという間に組み敷かれてしまうのでした。
「寂しかったんだ」
「もっと話してくれたら許してあげるわ」
「一度に話したら楽しみがなくなるだろう?」
「嫌よ。もっと話して」
彼は寝ころぶわたくしの隣に座り込んで、仕方ないなぁと笑います。
「じゃあ華国の話をしよう。恐ろしい話だけど良いかい?」
「いいわ、何でも」
寿和は商人伝いに聞いた話を語りました。どうやら海を渡ってすぐに国には「纏足」と呼ばれる習慣があるようです。幼い頃から女の足を折って縛り、小さく小さく作るものだそうで、ひとによっては歩けなくなるほどの苦痛を伴うそうです。歩けたとしてもよたよたと頼りなく歩くもので、それが男の欲を掻き立てるのだそうです。
わたくしのことだと、思いました。足こそ不自由してはいませんが、わたくしは己の自由をすべて奪われています。すべてをたったひとりの弟に支配されております。わたくしが支配の中で苦しむ様を彼は慈しみ、甘露を与え、愛を注ぐのです。わたくしは彼に纏足を施されたのに違いありませんでした。
怖い話だろう、そう言う彼に「そうね」と告げます。起き上がれば彼と視線がかち合い、彼の指がわたくしの顎に添えられます。まだ使用人が起き出すよりも早い頃です。陽が昇る前に彼がわたくしを再び手籠めにしようと考えていることは、その動作、その目から伝わってきます。
一度足を折られた女たちは、もう二度と自由に歩けることはないのでしょう。きっとそれはわたくしも同じで、彼に心を許してしまったから、わたくしはもう一生、彼に飼われた女にしかなれないのです。わたくしの足を撫でる彼もきっと同じことを考えているのでしょう、恍惚としたその瞳は、わたくしの心に諦めを植え付けるには十分でした。
再び口づけが始まって、彼の熱が伝わってきます。わたくしはこれからもずっと彼に囚われたままなのだと、そう確信しました。
向かう先は大英帝国というのだそうで、わたくしの住む日輪帝国よりもずっと進んだ国だそうです。わたくしは詳しいことを伝えられておらず、彼の旅の目的も存じ上げぬことが多いのですが、彼がほんの少し教えてくれたことによると、英国の進んだ法律や思想を日輪に取り入れるべく、複数の仲間と学びに行くのだそうで。
彼が優秀らしいと聞かされてはおりましたが、まさか日輪の代表に選ばれるほどの能力を持ち合わせていたとは思いもしませんでした。海の外に行くと教えられた時は仰天してしまったほどです。
わたくしに学と呼べるほどの学はありません。まだ学のある女はほとんどいませんから、学がなくても困りはしないのでしょうけれど、寿和が何を学びに行くのかを理解できないのはいくらか寂しくあります。わたくしに新しいこと楽しいことを教えてくれるのは彼しかいませんから。
寿和はひじょうに身体が弱く生まれました。難産だったようで、母は少しでも長く生きられるようにと、赤ん坊に「寿」の字を与えました。
赤子の頃から風邪や高熱を繰り返した彼は十歳になるまで生きられるか分からないと、わたくしの家が懇意にしている医師に言われました。
当然のように、両親はわたくしよりも寿和を大切に大切にしました。わたくしが転んで泣いていても、両親は助け起こすことはありませんでした。鼻かぜを拗らせた幼子がいつ命の危機に瀕するか分からなかったからです。
幼いわたくしは彼を憎く思いました。しかし彼のちいさな手に握られると、そんな気持ちはしぼんでしまって、柔らかい手のひらを愛らしく思ったのでした。
そうして家族の皆、使用人も含め彼のことを愛し、彼を何よりも優先するようになると、彼は己の主張を通すために自分の体調を使うことを覚えました。
『ぼくはいつまで生きられるか分からないから』
何を言うにも、この言葉がついて回りました。欲しいもののおねだり。食べたいものを母から譲ってもらおうとするとき。彼は必ずこの言葉を口にしました。彼は幼い頃からひどく整った容姿をしていて、細い線を描く身体や顎は、病弱な儚さを引き立てるものがありました。そのうえ、彼は我儘を言うときは目をわずかに潤ませて、色の薄い頬をほんの少し赤らめて、控えめに主張をするのです。
両親はその我儘が切実な願いであるとすっかり騙されて、彼の欲しがるものしたがるもの全てを叶えてしまうのでした。
わたくしは学校を休みがちになりました。彼が熱を出した時、必ずわたくしを側に置きたがったからです。まだ文字を習っている頃にそれは頻繁にあり、そのためわたくしは十七になるというのに十分に文字を読むことができません。それだけでは済まず、わたくしが友人と仲を深めようとする度、うつくしい男の人に心を寄せようとする度、彼はひどい熱を出しました。
彼は両親に「姉さんが構ってくれなくて寂しい」と告げ口し、わたくしの交友関係はすべて制限されました。弟のひとことでわたくしの年頃の乙女ながら皆が夢に見るであろう、うつくしい方と結ばれる願いはもみ消されてしまったのです。
『母さんと姉さんにはずっと傍にいて欲しいな』
熱を出した時、彼はそう母に告げたそうです。
母はわたくしを結婚させて他所の家に出す事が、彼の身体に触ると考えたようで、父が相談を進めていたわたくしの結婚を取り消してしまいました。わたくしが十三歳の時でした。まだ弟は十一歳、わたくしからすれば幼い年頃です。しかしわたくしが呆然としながら看病に向かうと、彼はごくごく普通に起き上がって、うっとりとわたくしの指に口づけたのです。
ほんとうは彼は体調なんか悪くないのだと、彼は熱を出そうと思えば熱を出せるのだと、その時気が付きました。この数年の体調の悪さはきっと、すべて家族を、特にわたくしを思う通りに操るための演技であったのに違いありませんでした。
その日以来、わたくしは寿和のものになりました。両親は嫁に出さないならば女学校に通わせる必要もないと、必要最低限の学校だけ通わせてわたくしを家に置きました。
花嫁修業らしきものも取り上げられ、わたくしは裁縫もできなければ料理を作ることもままなりません。どうやって何もない日々を過ごしていくかを考えると、やはり庭から先の景色を想像するか、家族が持ち帰る話を楽しみにする他ありませんでした。
わたくしを家に繋いだ人物であるのに、寿和の持ち帰る話がいちばん退屈を紛らわしてくれました。身体が丈夫になりつつあった彼は何年も前からたくさん勉強をしたようで、わたくしが当たり前に眺めていた星は実は動いていないこと、動いているのが地面であることを教えてくれたり、昔から多くの学者たちが人間は何で出来ているのかを考え続けていたことを教えてくれたりしました。
両親はどちらも華族の生まれではありますが、二人とも勉学には疎かったようで、二人とも寿和をひどく褒めました。わたくしもその輪に混ざって彼を讃えました。何もない暮らしに変化を与えてくれるのは、彼しかいないと思いました。
数年経つと彼はさらに丈夫になりました。そして同時に賢く、強かになりました。わたくしの前ではひとりの男のように振る舞うのに関わらず、両親の前では儚げな少年のままでいました。変わらず両親は寿和の言いなりです。彼に渡英の話が舞い込んできたのは、その頃でした。
「もうじき寿和が帰ってくるわ」
帰国したという知らせが届いたのは昨日でした。身体を休めに立ち寄っていたサイゴンから先んじて手紙が送られ、おおよその帰国の日取りは知らされていたのですが、彼の帰国に家中が舞い上がりました。もちろん、わたくしもです。
寿和はいくらか政府への用事があるそうで、帰国してすぐに我が家に帰って来られるわけではないようでした。家に着くのは今日の夜近くになるそうで、母はご馳走を作るために張り切って厨房に立っています。
「お前も何か手伝いなさい」
部屋にぼんやり座り込んでいたわたくしも母に突かれたのですが、母が切り盛りしている家の事にわたくしは入り込む間がありません。仕方なしに庭の花を花瓶に生けていると、母はその出来を見て顔をしかめるのでした。
わたくしは庭の向こうを見つめて待ちました。高楼の造りの我が家からは外の様子がよく見えます。いつもは寿和に言われて障子をきっちりと閉めているのですが、今日くらい許されて然るべきだろうと、わたくしは外を見続けました。
やがて暗い夜道にぽつりと光が差します。淡い提灯がゆらゆらと揺れ、ゆっくりとこちらに向かって来るのです。わたくしはたまらず庭に飛び出しました。すると提灯の火はもう扉をくぐったところで、彼の顔を照らしました。船旅で少しやつれたようでしたが、わたくしを甘い目で見つめるその姿は、彼そのものでした。
「一年と半年、長かったわ」
「僕もだよ」
「嘘を言うのはおやめ。英国は楽しかったのでしょう?」
「そうだね。翠子に話したいことがたくさんある」
彼のいない一年の間、どれほど退屈を紛らわすのに苦労したか、言葉を尽くしても彼に伝わることはないでしょう。わたくしを苦しめるために彼はわざと海を渡ったのだろうとすら思っていました。そうすれば与えられる甘露は劇薬のように、わたくしの身体を溶かすでしょうから。
それは退屈に苛まれたわたくしの妄想なのではなく、実際彼が企んだことなのでしょう。渡英を政府に言い渡されたことが、都合の良い出来事であっただけなのでしょう。しかしそんな恨みが弾けてしまうほど、「話したいことがたくさんある」という言葉がわたくしの胸を躍らせました。
夕食はそれはそれは賑やかでした。寿和の苦労を讃える父、帰国を泣いて喜ぶ母、彼の話をねだるわたくし。幼少からのか弱さと渡英で得た逞しさが交互に顔を出し、母を喜ばせ、わたくしの心を揺らします。
疲れを理由に、寿和は歓談をそこそこに部屋に引き上げました。机の下で着物の裾を引っ張られましたので、わたくしも一緒に来るようにという合図だと理解しました。
寿和がいなくなった食卓は母にとっても父にとっても意味のないものでしたので、わたくしもそっと部屋に引き上げます。わたくしが自分の部屋に入るとやはり寿和がそこで待っていて、わたくしを抱き寄せました。
ああ、いったい彼はどうやってこんな愛情表現を学んだのでしょう。驚ろく声は彼の唇によって塞がれて、深い口づけに変わりました。
彼との口づけは、初めてではありませんでした。彼が日輪国を発つ前夜、彼に乞われて拒むことが出来ませんでした。
わたくしは退屈が何よりも恐ろしいのです。身体を差し出して彼が日輪に留まってくれるのなら。そんな思いがよぎって、わたくしの着物の帯をほどく彼を止めませんでした。
あの日はぎこちなく手を伸ばすような、懸命な様子でわたくしに触れる様子にいくらかの可愛らしさを感じたものですが、英国できっと女遊びもしたのでしょう、慣れた手つきでわたくしに甘く触れ、丁寧にただし性急にわたくしを溶かしていくのでした。
弟を拒めないわたくしは罪びとと呼ばれるべきなのでしょうけれど、わたくしの人生を握ってしまった彼を突き放すことは出来ないのです。彼が可愛いのだと、同じように愛しているのだと思うことで、わたくしはわたくしを守っているのでした。
彼がわたくしの肩を噛み、胸元に吸い付きと、いくつもの印を残していきます。掴まれた手首や腰はきっと痣が残るでしょう。侍女はそんなわたくしの身体を怪しむでしょうけれど、皆彼に絆されているのです。誰も文句を言うはずがありませんでした。
疲れて二人で眠り、鳥が鳴くよりも早く起き上がりました。わたくしは彼に土産として与えられたオルゴールとやらを鳴らしながら、英国での話をねだります。彼はわたくしの髪に可愛らしい髪飾りを挿しながら、向こうの出来事を語り始めました。裸体に彼の視線が刺さりますが、もう今更でした。
どうやら日輪の国以外にも英国を訪れた者たちはいたようで。彼は勉学ももちろん楽しんだようでしたが、どちらかというと彼は異国の人々との交流を楽しんだようでした。また彼は商人とも交流を持ったようで、わたくしの髪をなんども結びなおしては付け替えている髪飾りたちは、英国のものだけではなく海を渡ってすぐの国のものも、独逸や埃及といった名前をかろうじて聞いたことがある国のものもあるようでした。
「踊り子と遊んでいたのね。ひどいわ」
「違うよ、パトロンになっただけだよ」
「でも結局遊んでいたってことでしょう」
「ごめんごめん」
僕がいちばんに愛しているのは翠子だよ。そんな言葉と共に、軽く唇が重ねられます。わたくしは不貞腐れたようにその口づけから逃げますが、あっという間に組み敷かれてしまうのでした。
「寂しかったんだ」
「もっと話してくれたら許してあげるわ」
「一度に話したら楽しみがなくなるだろう?」
「嫌よ。もっと話して」
彼は寝ころぶわたくしの隣に座り込んで、仕方ないなぁと笑います。
「じゃあ華国の話をしよう。恐ろしい話だけど良いかい?」
「いいわ、何でも」
寿和は商人伝いに聞いた話を語りました。どうやら海を渡ってすぐに国には「纏足」と呼ばれる習慣があるようです。幼い頃から女の足を折って縛り、小さく小さく作るものだそうで、ひとによっては歩けなくなるほどの苦痛を伴うそうです。歩けたとしてもよたよたと頼りなく歩くもので、それが男の欲を掻き立てるのだそうです。
わたくしのことだと、思いました。足こそ不自由してはいませんが、わたくしは己の自由をすべて奪われています。すべてをたったひとりの弟に支配されております。わたくしが支配の中で苦しむ様を彼は慈しみ、甘露を与え、愛を注ぐのです。わたくしは彼に纏足を施されたのに違いありませんでした。
怖い話だろう、そう言う彼に「そうね」と告げます。起き上がれば彼と視線がかち合い、彼の指がわたくしの顎に添えられます。まだ使用人が起き出すよりも早い頃です。陽が昇る前に彼がわたくしを再び手籠めにしようと考えていることは、その動作、その目から伝わってきます。
一度足を折られた女たちは、もう二度と自由に歩けることはないのでしょう。きっとそれはわたくしも同じで、彼に心を許してしまったから、わたくしはもう一生、彼に飼われた女にしかなれないのです。わたくしの足を撫でる彼もきっと同じことを考えているのでしょう、恍惚としたその瞳は、わたくしの心に諦めを植え付けるには十分でした。
再び口づけが始まって、彼の熱が伝わってきます。わたくしはこれからもずっと彼に囚われたままなのだと、そう確信しました。