翌朝、母親がクリスマスプレゼントの菓子と一緒にプリントを渡してきた。部屋に置いておいたはずなのに、また勝手に入ったのかとうんざりしながら食パンを口に詰め込む。
「これ明日までよ」
「わかってる。置いといて」
サンタさんは中学生になるといなくなったが、この歳になっても毎年菓子だけはくれるので恵まれた家庭に生まれたのだと思う。しかしいつまでも子ども扱いされるのも苦痛で、母親は竜胆が大学生になっても、勝手に部屋に入っては掃除をしたり洗濯物を回収したりする。一度、入学前に一人暮らしを願い出てみたものの、大学が徒歩圏内なので却下だった。それに、今の大学に進学するには実家暮らしが条件だと冬樹に言われていたのだ。息子が実母と同じ大学に通うのが気に食わないのだろう。たいして目も合わせないくせに、手放そうとしない冬樹が憎かった。
その日の授業終わり、教室棟から出ると歩志道と出くわした。
「お、リンちゃん。もう帰るの?」
「うん。今日は午前までだから」
歩志道は山吹屋の息子で、高一のころから竜胆はそこでバイトをしている。歩志道は一つ下の後輩だが「リンちゃん」「やまブー」と呼び合う仲だ。しかし「やまブー」と言いつつ顔は整ったゴリラで、昭和のソース顔である。
「そういやリンちゃん、ゼミどこにするか決まった?」
「いや、それがまだでさ」
二年は十二月になると、来年どこのゼミに世話になるかを選ばなければならない。卒業論文を出さないと卒業できないので、うちの大学では強制的にゼミに所属させられる。
「誰か頼れる先輩とか……あ、いないや」
「おい。決めつけんな」
言いながら、そうなんだよなと項垂れる。
歩志道の言う通り、竜胆に知り合いの先輩はいない。先輩と仲良くしておくと何かと楽なのは知っているが、人づきあいが面倒くさくて無理だった。
竜胆は用事があると言って別れ、出し忘れた授業の課題を提出するために研究室棟へ向かった。
エレベーターの前に立ち、案内板を見る。
——黒木、黒木、黒木……五階の端か。
降りてきた小さな箱に乗り込み、すぐに閉ボタンを押す。閉まりかけ、誰かが乗り込んできたので慌てて開ボタンを押した。
「何階ですか?」
見ると、なんとB定食だった。
「うわ。また? よく会いますね」
「五階」と食い気味に言い、B定食は背を向けた。
「あっそ」
別にこっちだって、あんたと話したいわけではない。必要最低限の返事を受け、同じくだと下を向いた。けれど見上げて、また地味な格好をしているのを不思議に思った。食堂で見たときと同様、黒キャップを目深に被り、黒ジャージのポケットに両手を突っ込んでいる。リュックまで黒なので、もはや不審者だった。前に電車で会ったときは——と考えているうちに、チンと箱が止まる。
「お先にどーぞ」
先を譲ると、B定食は少し驚いた顔を見せ、ぼそりと呟いた。
「……どーも」
礼はちゃんと言えるのか。足早に去っていく背中を眺めながら、竜胆は思わず笑った。
——変なヤツ。
ここ数日でB定食には三度も出くわしたうえに、その二つの顔を知ってしまい、竜胆は一体あいつが何者なのか興味を抱き始めていた。
遠回りをしたようで、ようやく研究室に辿り着き、扉をノックする。「はい」とだけ聞こえ、恐る恐る中へ入った。
「二年の当麻です。あの、二限の課題——」
顔を上げ、黒木の隣に居た先客に驚いた。
「どうした?」黒木がこちらを見る。
「あ、いや。これ授業で出し忘れた課題です。すみません」
そこには、さっき別れたばかりのB定食が立っていた。
とりあえず手に持っていた課題を黒木に渡す。
「ああ。次からは忘れないように」
「気をつけます」と言いながら、竜胆はもう一度B定食の顔を見て、研究室を出た。
廊下の壁際に立ち、耳を澄ませる。
「で、来週のゼミ大会だけど、うちの代表で出てくれるか」
「俺ですか?」
「当麻が一番、卒論の進みがいいだろう」
——えっ?
突然呼ばれてどきりとしたが、自分は会話の外側にいることを思い出し、ますます首を傾げた。「頼んだぞ」という黒木の声のあとに扉が開く気配を感じ、急いでその場を離れた。
一階に降りるエレベーターの中で、先ほどの会話を思い返す。
たしかに黒木はトウマと言っていた。でもまさか、そんなことがあるか。同じ苗字の人なんて一度も会ったことがないのに——そういえばゼミ大会がどうとか言われていた。ということは、B定食は黒木のゼミ生……年上か。竜胆はふと浮かんだ選択に、いやいや、と頭を振った。
帰宅後、二階の自室で寝入ってしまったようで、妹の「おにい! ごはーん」という甲高い声で目が覚めた。
外はもう暗くなっていて、カーテンを閉めようと立ち上がるとデスク上のプリントに目が止まった。ゼミの申込用紙だ。あとで書こうとして、放り出したままだった。
数分悩んだものの、再びのごはんコールにより早くも時間切れになる。結局ほかに思いつかなかった竜胆は、希望欄に【宇宙科学・黒木ゼミ】と書いた。
「これ明日までよ」
「わかってる。置いといて」
サンタさんは中学生になるといなくなったが、この歳になっても毎年菓子だけはくれるので恵まれた家庭に生まれたのだと思う。しかしいつまでも子ども扱いされるのも苦痛で、母親は竜胆が大学生になっても、勝手に部屋に入っては掃除をしたり洗濯物を回収したりする。一度、入学前に一人暮らしを願い出てみたものの、大学が徒歩圏内なので却下だった。それに、今の大学に進学するには実家暮らしが条件だと冬樹に言われていたのだ。息子が実母と同じ大学に通うのが気に食わないのだろう。たいして目も合わせないくせに、手放そうとしない冬樹が憎かった。
その日の授業終わり、教室棟から出ると歩志道と出くわした。
「お、リンちゃん。もう帰るの?」
「うん。今日は午前までだから」
歩志道は山吹屋の息子で、高一のころから竜胆はそこでバイトをしている。歩志道は一つ下の後輩だが「リンちゃん」「やまブー」と呼び合う仲だ。しかし「やまブー」と言いつつ顔は整ったゴリラで、昭和のソース顔である。
「そういやリンちゃん、ゼミどこにするか決まった?」
「いや、それがまだでさ」
二年は十二月になると、来年どこのゼミに世話になるかを選ばなければならない。卒業論文を出さないと卒業できないので、うちの大学では強制的にゼミに所属させられる。
「誰か頼れる先輩とか……あ、いないや」
「おい。決めつけんな」
言いながら、そうなんだよなと項垂れる。
歩志道の言う通り、竜胆に知り合いの先輩はいない。先輩と仲良くしておくと何かと楽なのは知っているが、人づきあいが面倒くさくて無理だった。
竜胆は用事があると言って別れ、出し忘れた授業の課題を提出するために研究室棟へ向かった。
エレベーターの前に立ち、案内板を見る。
——黒木、黒木、黒木……五階の端か。
降りてきた小さな箱に乗り込み、すぐに閉ボタンを押す。閉まりかけ、誰かが乗り込んできたので慌てて開ボタンを押した。
「何階ですか?」
見ると、なんとB定食だった。
「うわ。また? よく会いますね」
「五階」と食い気味に言い、B定食は背を向けた。
「あっそ」
別にこっちだって、あんたと話したいわけではない。必要最低限の返事を受け、同じくだと下を向いた。けれど見上げて、また地味な格好をしているのを不思議に思った。食堂で見たときと同様、黒キャップを目深に被り、黒ジャージのポケットに両手を突っ込んでいる。リュックまで黒なので、もはや不審者だった。前に電車で会ったときは——と考えているうちに、チンと箱が止まる。
「お先にどーぞ」
先を譲ると、B定食は少し驚いた顔を見せ、ぼそりと呟いた。
「……どーも」
礼はちゃんと言えるのか。足早に去っていく背中を眺めながら、竜胆は思わず笑った。
——変なヤツ。
ここ数日でB定食には三度も出くわしたうえに、その二つの顔を知ってしまい、竜胆は一体あいつが何者なのか興味を抱き始めていた。
遠回りをしたようで、ようやく研究室に辿り着き、扉をノックする。「はい」とだけ聞こえ、恐る恐る中へ入った。
「二年の当麻です。あの、二限の課題——」
顔を上げ、黒木の隣に居た先客に驚いた。
「どうした?」黒木がこちらを見る。
「あ、いや。これ授業で出し忘れた課題です。すみません」
そこには、さっき別れたばかりのB定食が立っていた。
とりあえず手に持っていた課題を黒木に渡す。
「ああ。次からは忘れないように」
「気をつけます」と言いながら、竜胆はもう一度B定食の顔を見て、研究室を出た。
廊下の壁際に立ち、耳を澄ませる。
「で、来週のゼミ大会だけど、うちの代表で出てくれるか」
「俺ですか?」
「当麻が一番、卒論の進みがいいだろう」
——えっ?
突然呼ばれてどきりとしたが、自分は会話の外側にいることを思い出し、ますます首を傾げた。「頼んだぞ」という黒木の声のあとに扉が開く気配を感じ、急いでその場を離れた。
一階に降りるエレベーターの中で、先ほどの会話を思い返す。
たしかに黒木はトウマと言っていた。でもまさか、そんなことがあるか。同じ苗字の人なんて一度も会ったことがないのに——そういえばゼミ大会がどうとか言われていた。ということは、B定食は黒木のゼミ生……年上か。竜胆はふと浮かんだ選択に、いやいや、と頭を振った。
帰宅後、二階の自室で寝入ってしまったようで、妹の「おにい! ごはーん」という甲高い声で目が覚めた。
外はもう暗くなっていて、カーテンを閉めようと立ち上がるとデスク上のプリントに目が止まった。ゼミの申込用紙だ。あとで書こうとして、放り出したままだった。
数分悩んだものの、再びのごはんコールにより早くも時間切れになる。結局ほかに思いつかなかった竜胆は、希望欄に【宇宙科学・黒木ゼミ】と書いた。