(あきら)紫雲(しうん)を連れて雑貨店に入った。扉を開けるとリーンと鈴が鳴り、中から店主が顔を出す。

「いらっしゃいませ。あら、東雲(しののめ)先生。今日は雪菜(ゆきな)さんと一緒ではありませんのね」

 店主は四十代くらいの女性だった。晁の隣にいる紫雲に気付き、目を大きく見開いた。

「こちらの女性は初めてですね。どうぞ、ゆっくりご覧ください」

 すっと頭を下げて店主は下がる。

「それじゃあ、早速……雪菜へのお土産を選ぼうか」
「うん。……いろいろなものがあるのね」

 お土産をどんなものにしようか、紫雲は真剣に吟味(ぎんみ)している。その様子を後ろから微笑ましそうに眺める晁。

「ねえ、晁、これはなに?」
「これは砂時計。砂が落ちると……これは三分のものかな?」
「そうですよー」

 店内には紫雲と晁、そして店主しかいなかったので、会話は筒抜けだったらしい。

「でも落ちているわ」
「これはね、こうやってひっくり返すんだよ」

 砂時計をひっくり返すと、砂がさらさらと流れ落ちる。わぁ、と歓喜の声を上げる紫雲を見て、これもひとつ買おうと心に決める晁。

「これは?」
「それは折り紙。折って遊ぶもの」
「あそぶ……?」
「これも買っていこうか。雪菜が得意なんだ」

 どんなふうに遊ぶものなのかわからないが、紫雲はこくりとうなずいた。

「あ、これは? 可愛いと思うの」

 紫雲が選んだのは、薄紅色の扇子だった。きれいな色だったので、きっと雪菜も気に入ってくれる――……そう考えて選んだ。

「じゃあそれをお土産にしようか。その扇子は紫雲が渡してあげるといい。きっと喜ぶよ」
「……? そうかなぁ……?」

 少し不安げに眉を下げる紫雲。晁は「そうだよ」と声をかけて、会計に向かう。

 扇子だけ包装してもらい、残りのふたつは袋に入れて自分が持った。

「ありがとうございました~」

 店主の声を背に、店を出たとたん――ふらり、と紫雲の身体がふらついた。

「紫雲!」
「あれ? なんだか……力が……入らないみたい……?」

 晁がふらつく彼女を抱き上げて、駐車場まで走った。車に乗せて東雲邸に戻ると、勢いよく扉を開けた晁に気付き、びくっと雪菜が肩を震わせる。

「し、紫雲さま! いかがなさいました!」
「わからないの、急にふらふらして……」

 眉を下げる紫雲に、おろおろとする雪菜。なぜこんなに急に――……と戸惑っていると、紫雲の腹の虫がぐぅ~っと鳴った。

 そこで、晁と雪菜は紫雲が空腹であることに気付いた。

 そうだ、目覚めてから紫雲は水しか口にしていない、と。

 雪菜は晁を見上げると、彼はこくりとうなずく。「すぐに用意いたします」と頭を下げて、雪菜はくるりと踵を返して早足で歩き出す。

 晁は紫雲を食堂に案内し、椅子に座らせた。

「お腹が空いていたんだね。気付けずにいてすまない」
「おなかがすく……?」

 紫雲が不思議そうな表情を浮かべて晁を見ると、雪菜が大きな土鍋を、雪樽が三人分の食器を持ってきた。

「これはなに?」
「雪だるまです」

 紫雲が興味を抱いたのは、ぽよんぽよんと跳ねながら移動している雪だるまだ。この東雲邸の女中は雪菜ひとり。

 だが、東雲邸は広い。三階建てのため、雪菜ひとりでは手が回らない。

 そのため、晁に許可を取り、自身が降らせた雪で雪だるまを作り、家事を手伝ってもらっている。

「紫雲さま、冬になったら一緒に作りましょう」
「かまくらを作るのもいいね」

 晁と雪菜の紫雲のことをじっと見つめながら、口を開いた。

 雪だるま? かまくら? と目を輝かせて(たず)ねる紫雲に、晁と雪菜は視線を(まじ)える。

「とりあえず、今はお腹を満たすほうを優先しよう」

 その言葉を聞いて、行長土鍋の蓋を開けると、ふわりと白い湯気が舞衣、食欲をそそる香りが紫雲の鼻腔をくすぐった。

 雪菜が紫雲の茶碗に盛りつける。とろみのある白と黄色のものを見て、紫雲は「これは?」と問いかける。

「卵粥です。紫雲さまは目覚めたばかりなので、お腹に優しいものを用意しました」

 晁の分も盛り、彼の目の前に置く。

「雪菜は紫雲のことを想って、卵粥を作ったんだね」
「はい。お口に合えばよいのですが……」

 少しだけ不安げに声を震わせる雪菜。

 晁はレンゲで卵粥を掬い、口に運んだ。

 それを見て、紫雲は真似をする。レンゲに少し卵粥を乗せ、口に運ぼうとすると――……晁が彼女の名を呼び、動きを制した。

「お粥は熱いから、息を吹きかけて冷ましてからのほうがいいよ」

 幼い子に言い聞かせるような口調だったが、紫雲は素直にこくりと首を縦に動かす。

 ふー、ふー、と息を吹きかけてから卵粥を口に入れる。熱さを最初に感じ、次いで塩味とほんのりとした甘さを感じた。

 もぐもぐと咀嚼して飲み込む。

 胃の中に落ち、ぽわりと身体が温まるのを感じ、紫雲は勢いよく卵粥を食べ始めた。

 その様子を見て、晁たちはほっと息を吐く。

 自分たちも卵粥を食べながら、紫雲の茶碗が空になった瞬間、雪菜が「もっと食べますか?」と問いかける。

 紫雲がうなずくと、晁は「おかわりって言うんだよ」と彼女に教えた。

「おかわり!」
「はい、紫雲さま。たくさんお召し上がりください」

 紫雲が食べてくれるのが嬉しくて、雪菜はたっぷりと彼女の茶碗に卵粥を盛った。

 ◆◆◆

 そして、紫雲が目覚めてから半年の月日が経過した。

 お土産にした扇子を気に入った雪菜は、いつでもその扇子を持ち歩き、たまに広げてうっとりと恍惚の表情を浮かべていた。その姿を見て、晁が「ほらね?」と笑っていたのは記憶に新しい。

「おはようございます、紫雲さま」

 朝、雪菜に揺り起こされて紫雲は目を覚ます。彼女に手伝ってもらいながら、身支度を整え、朝食を摂る。その後、晁が自ら紫雲に勉強を教えたり、体力作りのために東雲邸の周りを散歩したりと、忙しくも充実した半年間を過ごしていた。

「紫雲はとても覚えが早いから、俺としては鼻が高いよ」
「それだけではありません。わたしの仕事を手伝おうとしてくださるんですよ」

 断るとしょんぼりとしてしまうので、晁と相談して簡単な家事を手伝ってもらうことにした。そのことを話すと、紫雲の表情がぱぁっと明るくしたので、その判断は間違っていなかったと感じた。

 紫雲はぐんぐんと知識を吸収していった。その吸収力は晁もびっくりするくらい高く、雪菜はそんな紫雲を見てにこにこと微笑む――そんな日々。

 知識欲を満たしていく紫雲、見守る晁と雪菜は、平穏なひと時を楽しんでいた。

 そのおかげで、今では文字の読み書きもできるようになった紫雲は、読書に集中すると時間を忘れて読みふけってしまうようになった。ずっと本を読み続けてしまうので、たまに晁か雪菜が声をかけて、休憩を取らせている。

 そして今日も、紫雲は窓辺に座って読書を楽しんでいた。

 そんな彼女を、愛しそうに眺める晁と雪菜。

「紫雲さま、楽しそうですね」
「今の紫雲は知識欲の塊だね。知らないものを学び、吸収していく……素晴らしいと思わないか?」
「ええ、本当に。……そろそろ紫雲さまはお休みの時間ですね」

 うとうととし始めた紫雲に雪菜が気付き、晁が近付いていく。

「紫雲、今日はもう休もうか」
「……うん」

 読んでいた場所に栞を挟み、ぱたんと本を閉じてから、甘えるように紫雲が両手を伸ばした。

 晁はとろけそうな笑顔を浮かべ、彼女を抱き上げた。紫雲は彼に身を任せ、目を閉じる。

 この半年間で、紫雲は晁と雪菜のことを頼ることを覚えた。

 彼女にとって、この東雲邸はとても過ごしやすい場所だ。

 晁と雪菜は紫雲が不自由しないように先回りしていたし、彼らの話は新鮮で、ワクワクするのもが多かった。

 だから紫雲はすっかりとふたりのことも、東雲邸のことも大好きになった。

 晁は紫雲を寝台に横たわらせると、そっと彼女の額に唇を落とし、

「おやすみ、紫雲。愛しているよ」

 と、とろりとした甘い蜜のような言葉をつぶやき、部屋から出ていった。

「雪菜、俺の部屋までお茶を頼む」
「かしこまりました」

 晁は雪菜にお茶を用意してもらい、自室まで戻り自身の胸ポケットから小さなノートを取り出す。

「ええと……」

 ノートを開き、ペンで今日の紫雲の様子を書き込む。朝起きてから、眠るまでの彼女の様子を。

 半年間事細かに彼女のことを観察していた。

 紫雲の好きなもの、嫌いなもの、好みの本、好まない本。その他にもいろいろと。

「失礼いたします、晁さま。お茶を用意しました」
「ああ、ありがとう」

 ノートにペンを滑らせていると、お茶を用意した雪菜が部屋に入ってきた。

「紫雲さま、このまま元気でいてほしいですね」
「そうだね。今の紫雲なら、大丈夫なような気はする」

 晁と雪菜は、ずっと紫雲のことを見守っていた。

 食欲も体力も、普通の人間と変わらない。

 少々睡眠が多いが、生まれて半年なのだから、仕方ないだろうと晁は考える。

 ――晁と雪菜には、紫雲に秘密にしていることがあった。

 それは、彼女の正体だ。

 とある事情で、晁たちは紫雲を失った。

 今でも鮮明に覚えている。あの事故のことを――……。

 ◆◆◆

 (あきら)紫雲(しうん)の出会いは、突然だった。晁の婚約者として、紫雲が紹介されたのだ。もちろん最初は反発した。だが、紫雲の美しさに目を奪われたのも事実。

 濡羽色の髪は腰まで真っ直ぐに伸び、やや青みの濃い紫色――すみれ色の瞳で晁を直視する姿は凛とした。

『初めまして、晁さま。わたし、あなたの婚約者の紫雲と申します。どうぞお見知りおきを』

 緊張していたのか、わずかに上擦った声だった。思わず『はぁ……』と気の抜けた返事をしてしまったが、互いの両親は『それじゃ、あとはごゆっくり』と紫雲とふたりきりにされた晁は、改めて紫雲を見る。

『……まさか出会って数分もしない俺と、本当に結婚するつもり?』
『ええ、もちろん』

 きっぱりと言い切った紫雲に、晁は大きく目を見開いた。

『なぜ?』
『うちの親が、あなたのご両親に借金しているから』

 その言葉で、晁はなるほど、と腑に落ちた。

 晁の目からしても、紫雲はとても美しい。なのになぜ自分のところに……と考えていたが、おそらく両親はこの結婚で借金を相殺か、猶予を与えるのだろう。

(――金を稼いでいるのは、俺なんだけどな)

 この瑞穂(ずいほ)国で錬金術師として数多くの発明をしていた晁。ガラクタも多いが、役立つものも多く、それなりに稼いでいた。

 晁はほぼ自身の錬金術にしか興味がなかったので、両親がいろいろと手を回して東雲家は成り立っていた。だが、あまりにも研究に没頭する息子を見て、このままではひとりになるのではないか? と結婚を急かしていた。

 しかし、晁は結婚するつもりがなかった。研究に没頭したかったし、自分が誰かを愛する姿を想像できなかったからだ。

 その考えも、紫雲を見て吹き飛んでしまう。

『きみは、本当にそれでいいのかい?』
『ええ、だってわたし、あなたのことを好きになれそうだもの』

 鈴が転がるような笑い声を上げて、にっこりと紫雲は微笑んだ。

 ――きっと自分も、彼女のことを好きになる。そう、予感していた。

 紫雲はその日から東雲家で暮らすようになった。晁が研究に没頭しているあいだ、両親の相手をしたり、家事を手伝ったりしていた。その後、紫雲が十八歳になった日に籍を入れた。紫雲が十八歳になるまでに、晁は高台に屋敷を建設した。錬金術の実験室を離れに作り、三階建ての洋館を建てた。

 両親もついてくるつもりだったらしいが、新婚の邪魔をするなと断り、紫雲とふたりだけの生活を楽しんだ。途中、東雲邸の近くで行き倒れていた雪菜(ゆきな)を助け、三人で暮らすようになる。

『あなた、雪女なの? 初めて見たわ……どんなことができるの?』

 好奇心を隠さず、雪菜に(たず)ねる紫雲。

 雪菜は少し戸惑いながらも、室内に雪を降らせた。

 紫雲の手のひらに、白銀の結晶が落ちて水になる。

『すごい、きれいね……』

 うっとりと恍惚の表情を浮かべた紫雲に、雪菜は『ありがとうございます』と微笑んだ。

 その様子を見て、晁は微笑ましそうに目元を細める。

 雪菜には東雲邸で暮らす代わりに、家事を任せることにした。彼女は拳を握って『お任せください!』と意気込んだ。

 東雲邸は広いので、三人で協力しながら家事を始めた。だが、完璧に回復した雪菜が雪だるまを量産し、家事を手伝わせることで晁と紫雲が手伝うことがなくなってしまった。それはそうと、ぽよんぽよんと跳ねる雪だるまはとても愛らしく、しばらく紫雲は雪だるまの後ろ姿を追いかけていた。

 晁はそんな様子の紫雲を、愛しそうに目元を細めて眺める――そんな日常が続いた。

 錬金術の研究も順調で、その日も研究成果を試すために実験をしていた。

『本当に大丈夫なの?』
『ああ。今度こそ、成功させてみせる』

 晁は自身の研究に自信があった。人間の秘められた力を出す秘薬を作り出すことを目標にしていた。紫雲と雪菜は彼の手伝いとして、錬金術室に集まっていた。

 晁が材料を並べ、彼の指示で材料を渡していく紫雲と雪菜。

 慎重に調合していったが――……なにかが足りなかったのか、多かったのか、その実験は失敗に終わってしまう。

 離れで実験していたはずなのに、錬金術室を含めた東雲邸は半壊し、瓦礫の中に紫雲と雪菜が埋もれてしまった。

 紫雲は雪菜を庇うように覆いかぶさりながら倒れていた。雪菜がそのことに気付き、紫雲の名を呼ぶ。だが、彼女の息はすでに――……。

『どうして、どうして私なんかを庇って……!』

 ぽろぽろと涙を流す雪菜。晁はふたりを瓦礫から救い出すと、紫雲のことを抱きしめた。

 強く、強く抱きしめ――……その唇に、自身の唇を重ねた。

 おとぎ話のように紫雲が目覚めることはなく、晁は声を殺して涙を流す。

 自分がこんなにも彼女のことを愛していたのだと、その日……初めて知った。

 ◆◆◆

「あれから何年……いや、何十年なのか、何百年なのかわからないくらいの月日が流れたね。紫雲を作り続けて、どのくらい経ったのか……」

 晁は目を細めて肩をすくめ、雪菜の淹れたお茶を飲む。

 瑞穂国はあやかしと共存する国なので、晁が姿を変えなくなっても気にする人は少なかった。唯一、両親にだけは恐れられたが、それももう過去の話だ。

 人間の寿命は短い。気付けばあの頃の知り合いは鬼籍に入っていた。だが、寂しさは感じなかった。それよりも、紫雲をどう蘇らせるかの研究に没頭していた。あの笑顔を、もう一度見たい。生きている紫雲に逢いたい。

 その一心で研究を続けていた。

 何度も何度も失敗を繰り返した。何度、唐紅(からくれない)の涙を流したのかも、覚えていない。そのたびに、雪菜に『諦めないでください、晁さま』と励まされた。

 そして半年前――今の紫雲が目覚める。

「今回の紫雲さまは、今までとは違いますね」
「ああ。生前の紫雲にそっくりだ。試行錯誤を繰り返した甲斐があったよ」

 愛する人を再びこの手に抱くため、晁はずっと研究を続けていた。

 あの日以来、不老不死になった晁には、時間がたっぷりとある。雪女である雪菜も、長寿のため彼の研究に協力し続け、紫雲を何度も生み出していた。

「紫雲には、なにも教えてはいけないよ」
「はい。紫雲さまの心を乱したくありませんもの」

 生前、紫雲は晁と雪菜の手を何度も取っていた。だが、照れくささが勝ってしまい、握り返すことは少なかった。彼女を失ってから、そのことをとても後悔した。

 だからこそ、なにも知らない彼女に愛を注ぎながら、今度は自分たちが何度でも、その手を取ろうと心に決めている。

 晁と雪菜は、紫雲の手を離さない。そう、誓い合っていた。



―Fin―