「さぁ、起きておくれ、俺の愛しい紫雲よ」
男性は愛しそうに寝台に横たわっている女性の頬を撫でた。彼女のまぶたが震え、ゆっくりと目が開く。やや青みの濃い紫色の瞳が最初に視界に入れたのは、紺青の瞳を持つ青年と、前髪で瞳は隠れているが、心配そうに彼女を覗き込んでいる白髪の少女だった。
「わ、たし――……?」
ぼんやりとしていた女性は、そっと起き上がる。彼女の腰まである濡羽色の髪がさらりと揺れた。辺りを見渡してから額に手を置き、眉間に皺を刻む。
ここがどこなのかも、自分のこともわからない。彼女は戸惑ったように彼らを見た。
「ここはどこ? あなたたちはだれ? わたしはだれ?」
矢継ぎ早に問われ、青年は少女に目配せして水を持ってきてもらい、彼女に渡す。だが、飲もうとはしない。
青年が彼女の湯呑みをとり、「これは水というんだ」と自分が口をつけて飲む。こうするんだよ、と教えるように。
彼女に湯呑みを戻すと、彼女はおそるおそる口をつけ、水を飲む。冷たい水が身体を巡ってくのを感じ、ゆっくりと息を吐いた。
「落ち着いたかい?」
青年に問われて、女性はうなずく。
「改めて――……俺は東雲晁。錬金術を生業にしている。そして、きみは紫雲。俺は、きみの夫だよ」
自分と紫雲の左手の薬指にはまっている、ダイヤモンドの指環を見せる。
「私は東雲邸の女中の雪菜です、紫雲さま」
雪菜は口角を少し上げながら、自身の胸元に手を置いて自己紹介した。
「あきらと、ゆきな……?」
ふたりの名前を口にする紫雲。
呼ばれてぱぁっと表情を明るくする彼らを見て、目を丸くした。
「紫雲に名前を呼ばれるのが嬉しいよ。ああ、そうだ。ここはあやかしと共存する瑞穂国。その中心都市の星彩という場所だよ」
国のことを教えてもらい、紫雲は「あやかし?」と首を傾げる。
「紫雲さま。私は雪女です」
証拠に、と雪菜は室内に雪を降らせた。
紫雲の手のひらに落ちた白銀の結晶は、彼女の体温で溶けて水になる。
その感触が楽しかったのか、彼女は目を輝かせて雪を手のひらに乗せ、水になるところをずっと眺めた。
「きれいね」
「ありがとうございます」
降らせていた雪を止め、紫雲の感想に雪菜ははにかむ。
「歩けそうかい? 今日は晴れているから、外の空気を吸いにいかない?」
晁に誘われて、紫雲はうなずいた。
雪菜は晁を部屋の外へ追いやり、箪笥から着替えを取り出した。
「紫雲さまは目覚めたばかりなので、動きやすいものにしました」
雪菜が選んだのはイブニングドレスだった。雪菜は着物を着ていたので、てっきり自分も同じものを着るのだと思っていたので、着替えてから意外そうにドレスの裾を摘まんでくるりと回転した。ふわっと広がるスカートに、紫雲は楽しそうにもう一回転する。
その様子を満足げに眺める雪菜。
「紫雲さま、こちらへ」
紫雲の手を取って、窓際まで近付く。
カーテンと窓を開け、入り込んできたそよ風がふたりの頬を撫でる。そのカンカンに目を細め、外へと視線を移した紫雲は、細めた目を大きく見開いた。
そこに広がった世界に、ほぅ、と息を吐いて見入ってしまう。
「雪菜、あの遠くにある青い場所はなに?」
「あれは海です。水がしょっぱいんですよ」
「水が?」
こくりとうなずく雪菜。
東雲邸は高台にあり、街を一望できる。だからこそ、広がる青空と海、街並みに心が奪われた。
トントントン、と部屋の扉が三回ノックされ、雪菜は扉を開けに向かう。
ガチャっと音を立て、扉が開いた。
外出着に身を包んだ晁がいて、窓際にいる紫雲に気付き、愛しそうに彼女を見つめた。
「とても似合っているよ、紫雲」
「あ、ありがとうございます」
「それじゃあ、いこうか」
「雪菜は?」
晁に手を差し出され、紫雲はキョトンとした表情を浮かべて雪菜を見る。三人でいくのかと思っていたが、違うのだろうか、と。
雪菜はふるりと首を横に振った。
「私は仕事が残っているので……。おふたりで楽しんできてください」
ぺこりと頭を下げると、雪菜は仕事をするために扉から出ていく。その背中を見送ってから、晁は紫雲の手を取って歩き出した。
雪菜を東雲邸に残して玄関まで向かった。玄関前に置かれていたものに、紫雲は晁を見上げる。
「これはなに?」
「自動車。こちらへどうぞ、紫雲」
晁は助手席の扉を開けて、彼女を座らせる。きちんと座ったのを確認してから、扉を閉めて自分は運転席に乗り込んだ。
「紫雲、シートベルトをつけるね」
すっと手を伸ばしてシートベルトを彼女につける。
不思議そうに晁の手を視線で追いかける紫雲に、晁はぽんっと彼女の頭を撫でた。
自身もシートベルトをつけ、キーを回してエンジンをかけ、出発した。
車の速度はゆっくりだった。
目覚めたばかりの紫雲を考えてのことだ。長い坂を下り、駐車場に車を停めて市場へ向かう。
駐車場から近い場所にあった。目に映るすべてのものが新鮮で、紫雲は思わず「わ、ぁ……!」と声を上げる。
「さぁ、デートを楽しもうか、紫雲」
足を止めて辺りを見渡していた紫雲の手を引いて、晁は歩き出した。
紫雲はあちこちに視線を飛ばしながら、
「これはなに? あれは? どうしてここには、たくさんの人がいるの?」
気になるものを指して晁に尋ねる。晁は紫雲の指先を追って、彼女がなにを聞きたいのかを理解してから口を開く。
「これはアクセサリー。どうやら店主の手作りらしい。あれは果物の飴。甘いものだよ。そして、ここは市場だから人が多いんだ」
すべての問いに答えると、アクセサリー店で足を止めて、ひとつ髪飾りを買った。
紫雲の髪につけると、「似合っているよ」ととろけそうな笑顔で伝える。
「あらあら、ラブラブですねぇ」
店主が口元を手で隠して微笑ましそうに彼らを見た。「ラブラブ?」と首を傾げる紫雲に、晁は「とっても仲が良いってことさ」と片目を閉じた。
晁が紫雲につけたのは、ヘアピンだった。紫色の花の飾りが彼女の黒髪に映えている。
透明感のある飾りなので、無垢な彼女にぴったりだと晁は口角を上げた。
「わたしと晁は仲良し?」
「そうだよ、紫雲。とっても仲良しさ」
仲良し、ともう一度口の中でつぶやく紫雲。その響きが気に入ったのか、にこにこと笑っている。
アクセサリー店から離れると、紫雲は再び気になったものを指して晁に尋ねた。
晁は嫌な顔をひとつもせず、紫雲の疑問に答えていった。なにを尋ねても答えがくるので、紫雲は興奮したように目を輝かせる。
市場にはいろいろなものが売られていて、記憶のない紫雲にとってはすべてが新鮮で知識欲をくすぐられた。
「欲しいものはあるかい?」
ふるふると首を横に振る。市場にはたくさんのものがあったが、説明を受けてもよくわからない。
「そっか。そのうち欲しいものができたら、遠慮なく言ってくれ。きみの欲しいものをあげたいからね」
少し残念そうな晁に、紫雲はこくりと首を縦に振った。
(わたしが欲しいものってなんだろう?)
目覚めてからすぐにはわからない。もしかしたら、これから出てくるのかもしれない。そう考えるとなんだか胸がドキドキと高鳴った。だが、自分がなにを好きなのかもわからない。
(これから増えていくのかな?)
きっとそうだろうと考えて、晁を見上げる。
「晁は欲しいもの、ないの?」
「一番ほしかったものは、もうこの手の中にあるからね」
そっと紫雲の手を持ち上げて、ちゅっと軽いリップ音を立てる晁に、彼女はぱちぱちと目を瞬かせた。
「わたし?」
「そうだよ、紫雲」
自分の考えが当たっていたことに、紫雲はなぜか安堵したように息を吐く。
「……一通り市場を見たけれど、星彩の街をもう少し見て回ろうか?」
市場を抜けると一気に人が少なくなった。
「うん。どんなところなのか、気になるわ」
「それじゃあ、もうちょっと見て回ろう」
きゅっと紫雲の手を握る晁。彼女も彼の手を握り返した。その感覚に晁は一瞬目を瞠り、それからすぐに切なそうに微笑む。
「こっち側は人が少ないのね」
「市場はいつも賑わっているからね。雪菜にお土産を買っていこうか」
「おみやげ?」
「ひとりだけ留守番だからね。市場は楽しかったかい?」
晁の問いに、紫雲は「うん!」と元気よく答えた。十代後半に見える彼女の笑顔は、無垢なものだ。晁はにこっと微笑んで、空いている手で彼女の頭を撫でた。
「雪菜はどんなものが好きなの?」
「可愛いもの、かな?」
可愛いもの、と紫雲が繰り返して、辺りをきょろきょろと見渡す。
「いろいろ雑貨を見てみよう」
「そうね、きっと雪菜が気に入るものがあるわよね」
ぐっと拳を握って、雪菜が気に入りそうなものを見つけようと意気込む。その様子を見て、晁はまぶしそうに彼女を見つめた。
「……そうだね。それに、きみが選んだものなら、きっと雪菜も気に入ると思うよ」
「……? わたしが選ぶの?」
「そうだよ、紫雲。雪菜はそっちのほうが嬉しいだろうからね」
雪菜が喜ぶ姿を想像して、紫雲の胸の中がほわっと温かくなった。それはとても不思議な感覚だった。晁のことも、雪菜のことも覚えていないのに、なぜか大切にしたいと考えたこと。
素直にそれを口にすると、晁は目を大きく見開いて、それからぎゅっと紫雲を抱きしめた。
突然抱きしめられて、紫雲の身体が硬直する。
「……紫雲」
晁から、まるで泣いているような震える声で名前を呼ばれ、胸がきゅっとなにかに締め付けられるような感覚があり、紫雲はそっと目を閉じた。
……どのくらい、そうしていたかはわからない。ただ、ほんの少しだったような気もするし、とても長い時間だったような気もする。
「晁? 大丈夫?」
慰めるように、ぽんぽんと晁の背中を優しく叩く紫雲。晁はすっと彼女から離れ、にこやかな表情を浮かべる彼の瞳は、涙で潤んでいた。
紫雲はそのことに気付いたが、なにも言わずにそっと晁の頬に手を添える。
彼女の手に自分の手を添えて、彼はゆっくりとうなずいた。
「心配させてごめんね、紫雲。雪菜が好きそうなものを売っている場所は覚えているから、そこにいこう」
「……うん」
紫雲の手を握り、晁は歩き出す。彼女はそっと彼を見上げてから、ただ黙って隣を歩いた。
男性は愛しそうに寝台に横たわっている女性の頬を撫でた。彼女のまぶたが震え、ゆっくりと目が開く。やや青みの濃い紫色の瞳が最初に視界に入れたのは、紺青の瞳を持つ青年と、前髪で瞳は隠れているが、心配そうに彼女を覗き込んでいる白髪の少女だった。
「わ、たし――……?」
ぼんやりとしていた女性は、そっと起き上がる。彼女の腰まである濡羽色の髪がさらりと揺れた。辺りを見渡してから額に手を置き、眉間に皺を刻む。
ここがどこなのかも、自分のこともわからない。彼女は戸惑ったように彼らを見た。
「ここはどこ? あなたたちはだれ? わたしはだれ?」
矢継ぎ早に問われ、青年は少女に目配せして水を持ってきてもらい、彼女に渡す。だが、飲もうとはしない。
青年が彼女の湯呑みをとり、「これは水というんだ」と自分が口をつけて飲む。こうするんだよ、と教えるように。
彼女に湯呑みを戻すと、彼女はおそるおそる口をつけ、水を飲む。冷たい水が身体を巡ってくのを感じ、ゆっくりと息を吐いた。
「落ち着いたかい?」
青年に問われて、女性はうなずく。
「改めて――……俺は東雲晁。錬金術を生業にしている。そして、きみは紫雲。俺は、きみの夫だよ」
自分と紫雲の左手の薬指にはまっている、ダイヤモンドの指環を見せる。
「私は東雲邸の女中の雪菜です、紫雲さま」
雪菜は口角を少し上げながら、自身の胸元に手を置いて自己紹介した。
「あきらと、ゆきな……?」
ふたりの名前を口にする紫雲。
呼ばれてぱぁっと表情を明るくする彼らを見て、目を丸くした。
「紫雲に名前を呼ばれるのが嬉しいよ。ああ、そうだ。ここはあやかしと共存する瑞穂国。その中心都市の星彩という場所だよ」
国のことを教えてもらい、紫雲は「あやかし?」と首を傾げる。
「紫雲さま。私は雪女です」
証拠に、と雪菜は室内に雪を降らせた。
紫雲の手のひらに落ちた白銀の結晶は、彼女の体温で溶けて水になる。
その感触が楽しかったのか、彼女は目を輝かせて雪を手のひらに乗せ、水になるところをずっと眺めた。
「きれいね」
「ありがとうございます」
降らせていた雪を止め、紫雲の感想に雪菜ははにかむ。
「歩けそうかい? 今日は晴れているから、外の空気を吸いにいかない?」
晁に誘われて、紫雲はうなずいた。
雪菜は晁を部屋の外へ追いやり、箪笥から着替えを取り出した。
「紫雲さまは目覚めたばかりなので、動きやすいものにしました」
雪菜が選んだのはイブニングドレスだった。雪菜は着物を着ていたので、てっきり自分も同じものを着るのだと思っていたので、着替えてから意外そうにドレスの裾を摘まんでくるりと回転した。ふわっと広がるスカートに、紫雲は楽しそうにもう一回転する。
その様子を満足げに眺める雪菜。
「紫雲さま、こちらへ」
紫雲の手を取って、窓際まで近付く。
カーテンと窓を開け、入り込んできたそよ風がふたりの頬を撫でる。そのカンカンに目を細め、外へと視線を移した紫雲は、細めた目を大きく見開いた。
そこに広がった世界に、ほぅ、と息を吐いて見入ってしまう。
「雪菜、あの遠くにある青い場所はなに?」
「あれは海です。水がしょっぱいんですよ」
「水が?」
こくりとうなずく雪菜。
東雲邸は高台にあり、街を一望できる。だからこそ、広がる青空と海、街並みに心が奪われた。
トントントン、と部屋の扉が三回ノックされ、雪菜は扉を開けに向かう。
ガチャっと音を立て、扉が開いた。
外出着に身を包んだ晁がいて、窓際にいる紫雲に気付き、愛しそうに彼女を見つめた。
「とても似合っているよ、紫雲」
「あ、ありがとうございます」
「それじゃあ、いこうか」
「雪菜は?」
晁に手を差し出され、紫雲はキョトンとした表情を浮かべて雪菜を見る。三人でいくのかと思っていたが、違うのだろうか、と。
雪菜はふるりと首を横に振った。
「私は仕事が残っているので……。おふたりで楽しんできてください」
ぺこりと頭を下げると、雪菜は仕事をするために扉から出ていく。その背中を見送ってから、晁は紫雲の手を取って歩き出した。
雪菜を東雲邸に残して玄関まで向かった。玄関前に置かれていたものに、紫雲は晁を見上げる。
「これはなに?」
「自動車。こちらへどうぞ、紫雲」
晁は助手席の扉を開けて、彼女を座らせる。きちんと座ったのを確認してから、扉を閉めて自分は運転席に乗り込んだ。
「紫雲、シートベルトをつけるね」
すっと手を伸ばしてシートベルトを彼女につける。
不思議そうに晁の手を視線で追いかける紫雲に、晁はぽんっと彼女の頭を撫でた。
自身もシートベルトをつけ、キーを回してエンジンをかけ、出発した。
車の速度はゆっくりだった。
目覚めたばかりの紫雲を考えてのことだ。長い坂を下り、駐車場に車を停めて市場へ向かう。
駐車場から近い場所にあった。目に映るすべてのものが新鮮で、紫雲は思わず「わ、ぁ……!」と声を上げる。
「さぁ、デートを楽しもうか、紫雲」
足を止めて辺りを見渡していた紫雲の手を引いて、晁は歩き出した。
紫雲はあちこちに視線を飛ばしながら、
「これはなに? あれは? どうしてここには、たくさんの人がいるの?」
気になるものを指して晁に尋ねる。晁は紫雲の指先を追って、彼女がなにを聞きたいのかを理解してから口を開く。
「これはアクセサリー。どうやら店主の手作りらしい。あれは果物の飴。甘いものだよ。そして、ここは市場だから人が多いんだ」
すべての問いに答えると、アクセサリー店で足を止めて、ひとつ髪飾りを買った。
紫雲の髪につけると、「似合っているよ」ととろけそうな笑顔で伝える。
「あらあら、ラブラブですねぇ」
店主が口元を手で隠して微笑ましそうに彼らを見た。「ラブラブ?」と首を傾げる紫雲に、晁は「とっても仲が良いってことさ」と片目を閉じた。
晁が紫雲につけたのは、ヘアピンだった。紫色の花の飾りが彼女の黒髪に映えている。
透明感のある飾りなので、無垢な彼女にぴったりだと晁は口角を上げた。
「わたしと晁は仲良し?」
「そうだよ、紫雲。とっても仲良しさ」
仲良し、ともう一度口の中でつぶやく紫雲。その響きが気に入ったのか、にこにこと笑っている。
アクセサリー店から離れると、紫雲は再び気になったものを指して晁に尋ねた。
晁は嫌な顔をひとつもせず、紫雲の疑問に答えていった。なにを尋ねても答えがくるので、紫雲は興奮したように目を輝かせる。
市場にはいろいろなものが売られていて、記憶のない紫雲にとってはすべてが新鮮で知識欲をくすぐられた。
「欲しいものはあるかい?」
ふるふると首を横に振る。市場にはたくさんのものがあったが、説明を受けてもよくわからない。
「そっか。そのうち欲しいものができたら、遠慮なく言ってくれ。きみの欲しいものをあげたいからね」
少し残念そうな晁に、紫雲はこくりと首を縦に振った。
(わたしが欲しいものってなんだろう?)
目覚めてからすぐにはわからない。もしかしたら、これから出てくるのかもしれない。そう考えるとなんだか胸がドキドキと高鳴った。だが、自分がなにを好きなのかもわからない。
(これから増えていくのかな?)
きっとそうだろうと考えて、晁を見上げる。
「晁は欲しいもの、ないの?」
「一番ほしかったものは、もうこの手の中にあるからね」
そっと紫雲の手を持ち上げて、ちゅっと軽いリップ音を立てる晁に、彼女はぱちぱちと目を瞬かせた。
「わたし?」
「そうだよ、紫雲」
自分の考えが当たっていたことに、紫雲はなぜか安堵したように息を吐く。
「……一通り市場を見たけれど、星彩の街をもう少し見て回ろうか?」
市場を抜けると一気に人が少なくなった。
「うん。どんなところなのか、気になるわ」
「それじゃあ、もうちょっと見て回ろう」
きゅっと紫雲の手を握る晁。彼女も彼の手を握り返した。その感覚に晁は一瞬目を瞠り、それからすぐに切なそうに微笑む。
「こっち側は人が少ないのね」
「市場はいつも賑わっているからね。雪菜にお土産を買っていこうか」
「おみやげ?」
「ひとりだけ留守番だからね。市場は楽しかったかい?」
晁の問いに、紫雲は「うん!」と元気よく答えた。十代後半に見える彼女の笑顔は、無垢なものだ。晁はにこっと微笑んで、空いている手で彼女の頭を撫でた。
「雪菜はどんなものが好きなの?」
「可愛いもの、かな?」
可愛いもの、と紫雲が繰り返して、辺りをきょろきょろと見渡す。
「いろいろ雑貨を見てみよう」
「そうね、きっと雪菜が気に入るものがあるわよね」
ぐっと拳を握って、雪菜が気に入りそうなものを見つけようと意気込む。その様子を見て、晁はまぶしそうに彼女を見つめた。
「……そうだね。それに、きみが選んだものなら、きっと雪菜も気に入ると思うよ」
「……? わたしが選ぶの?」
「そうだよ、紫雲。雪菜はそっちのほうが嬉しいだろうからね」
雪菜が喜ぶ姿を想像して、紫雲の胸の中がほわっと温かくなった。それはとても不思議な感覚だった。晁のことも、雪菜のことも覚えていないのに、なぜか大切にしたいと考えたこと。
素直にそれを口にすると、晁は目を大きく見開いて、それからぎゅっと紫雲を抱きしめた。
突然抱きしめられて、紫雲の身体が硬直する。
「……紫雲」
晁から、まるで泣いているような震える声で名前を呼ばれ、胸がきゅっとなにかに締め付けられるような感覚があり、紫雲はそっと目を閉じた。
……どのくらい、そうしていたかはわからない。ただ、ほんの少しだったような気もするし、とても長い時間だったような気もする。
「晁? 大丈夫?」
慰めるように、ぽんぽんと晁の背中を優しく叩く紫雲。晁はすっと彼女から離れ、にこやかな表情を浮かべる彼の瞳は、涙で潤んでいた。
紫雲はそのことに気付いたが、なにも言わずにそっと晁の頬に手を添える。
彼女の手に自分の手を添えて、彼はゆっくりとうなずいた。
「心配させてごめんね、紫雲。雪菜が好きそうなものを売っている場所は覚えているから、そこにいこう」
「……うん」
紫雲の手を握り、晁は歩き出す。彼女はそっと彼を見上げてから、ただ黙って隣を歩いた。