『46億年の記憶』 ~命、それは奇跡の旅路~

 初めて上陸した生物は、ゼニゴケのような植物だったと考えられています。
 今でも裏庭とか溝とかの湿った所でよく見かけますが、とにかく繁殖力が強くて除草するのが大変なくらいなので、その繁殖力が上陸に繋がったのかもしれません。
 それから、ゼニゴケの次に上陸したのがシダ類でした。
 競争相手がいないこともあってどんどん大きくなって、中には40メートルもの高さになったものまでありました。
 そして、それが集まって大きな森ができていったのです。

「ゼニゴケか~、想像していたのとは全然違うな」

 新は左手を口に当ててぼんやりと遠くを見るような目になった。
 すると、頭の中に太古の地球の姿が浮かび上がってきた。
 シダ類が生い茂るうっそう(・・・・)とした森だった。
 それはどこまでも続いていた。
 それを追っていると、突然、地表付近の葉っぱが揺れた。
 しかし、風のせいではなかった。
 何かが揺らしたのだ。
 そこを見つめていると、今度はごそっと動いた。
 植物以外の何かがいるのは確かだった。
 新は考子に視線を戻した。
 
「植物を追って動物が上陸したのはいつ?」

 その瞳には興味津々という文字が浮かび上がっていたので、考子はすぐさまそれに答えた。
 
「動物が上陸したのは3億9千万年前くらいよ。植物が上陸してから6千万年くらい経っていたわ。エラ呼吸から肺呼吸へ進化するのはそんなに簡単じゃなかったのよ」

「そうだよね。生物はずっと海の中で生活していたからその環境に適応していたわけだし、未知の世界へ足を踏み出すのは大変だよね」

「そうなの。肺呼吸ができるようになるには魚類の進化を待たなければならなかったの」

 魚類の中から首のようなくびれを持つものが現れ、そのうち、頭部と肩部が分かれたものが出現しました。
 そして、ヒレの中に指のような構造ができた魚類が現れました。
 すると、水の中から顔を出して様子を窺うものが現れ、そうこうするうちに、エラではなく肺で呼吸できるものが現れたのです。
 こうして海の生物は少しずつ陸に上がっていきました。
 それが両生類の祖先です。
 その頃にはヒレは足に進化して体を支えることができるようになっていました。
 肺と足を獲得することによって上陸が可能になったのです。

「そうか、俺たちの祖先が両生類だとすると、その祖先が魚類だから、その名残として胎芽の頃にエラがあるのか」

 新はまた遠くをみるような目をした。
 
「そうね。妊娠のごく初期の段階ではほとんどの生物が一緒の形をしているの。逆くの字(・・・)のような格好で、エラのようなものがあって、尻尾のようなものがあるの。だから、この段階ではサカナもカメもニワトリもブタもウサギもヒトもほとんど見分けがつかないわ。すべての動物は単細胞の受精卵から発生するから、その初期の形が似るのは当然なんだけど、でも、エラがあって手足がない魚のような形だったものが乳腺や耳介のない爬虫類のようになって、その後、尻尾がない頭でっかちの形になって、徐々に人間の形になっていくのだから、海で生まれた祖先、上陸した祖先を反復しているという考えが主流になっているのは当然よね。専門用語では『個体発生は系統発生を短縮してくりかえす』というのよ」

 すると新が〈よくわからないな〉というような顔をしたので、考子は平易な事例を探した。
 
「わかりやすく言うとね、そうね、カエルを例に取ればいいかも知れないわね。カエルって卵からいきなりカエルとして生まれるんじゃなくて、オタマジャクシとして生まれるわよね。その時、彼らは水中でエラ呼吸をして魚のように過ごすんだけど、1か月後に変態期を迎えて、2か月後には完全にカエルになっているの。そして、その時には肺呼吸をして陸上生活をし始めるの。普通に考えたら変態なんて面倒くさいことをしないで卵からすぐカエルになったらラクチンなのにって思うかもしれないけど、それができないのよ。何故なら遺伝子の中に系統発生上の制約、つまり両生類の先祖が辿った道筋が組み込まれているからなの。それを省略して卵からいきなりカエルにはなれないのよ」

 理解してくれたことを期待して考子は新の顔を覗き込んだが、新は「系統発生上の制約か~」とブツブツ言ったあと、顎と口を突き出し、手を折り曲げ、10本の指を開いて、「ゲコッ」と鳴いた。
 
 
       わたし 

 今ね、丁度7週目に入ったところよ。
 大きさは17ミリくらいかな。
 枝豆一粒くらいの大きさね。
 まだまだちっちゃいけど、順調そのものよ。
 気になっていた尻尾はほとんど無くなっちゃったから、魚の段階を卒業したのかしら。
 退化は進化ってママが言っていたけど、ほんとに不思議よね。
 驚いちゃうわ。
 
 あ、そうそう、膝らしきものもでき始めたのよ。
 もう少ししたら足を曲げることができるようになるらしいから、とっても楽しみにしているの。
 それからね、偵察魂が教えてくれたんだけど、あと1週間経って8週目になるとね、手には関節ができ始めるんだって。
 だから指をくわえることができるようになるらしいの。
 そうしたら、いつでもチューチューできるようになるのよ。
 
 あとね、心臓に変化が起こって、チューブのような形をしていた心臓に心室ができるらしいの。
 その心室を血管が繋いでちゃんとした形になるんだって。
 
 それとね、脳の中でも大きな変化が起こって、ニューロンとニューロンが互いにくっついて繋がっていくらしいの。
 それを知った時、「ニューロンさん頑張ってね」って思い切りエールを送っちゃった。
 だって、ニューロンの結びつきの良し悪しで生まれてからの頭の良さが決まるから、うまく繋がってくれなかったら将来設計に支障を来すことになるのよね。
 だから、頑張ってもらわないと困るの。
 まだ両手を合わせることはできないし、指をチューチューすることもできないけど、心の中でひたすらお願いをしているのよ。
 わたしを世界で一番頭の良い子にしてねって。 


       偵察魂 

 なんか、気持ち悪い……、

 考子は吐き気を催していた。

 うっ! 

 口を押えてトイレに駆け込むと、少しだったが嘔吐した。

 口の中が酸っぱくて気持ち悪い。
 本を読んで知識はあったけど、実際になってみると結構辛いかも。

 これから先これが続くと思うと、憂鬱になってきた。
 そして、夕食のための肉や野菜の調理をする気が無くなった。
 とても食べられそうになかった。
 それに、食材を見ただけで気持ちが悪い。
 ソファに横になって目を瞑った。

「つわりだね」

 帰宅した新が考子の体調を案じた。

「無理して食べなくてもいいんだよ。それに食事も作らなくていいからね」

 彼は台所へ行って、自分用の肉野菜炒めを作り始めた。

「ごめんね」

 考子はソファに横になったまま力ない声を出した。

「しんどい時は無理しないこと!」

「しんどい、か……」

 久々に聞いた関西弁に考子は思わずほっこりした。

 そうなのよ、今の自分の状態は〈辛い〉ではなく〈しんどい〉がピッタリなの。
 なんかいいな~関西弁って。
 
 そう思っていると、気持ちがどんどんほっこりしてきて、しんどく無くなってきた。

「よっこらしょ」

 声を出して、ソファから立ち上がった。

「無理しちゃダメだよ」

 新が心配そうに声をかけた。

「無理してな~い?」

 考子が甘えた声で新に近寄った。

「チューして?」

 もたれかかるように体を新に預けた。

「甘えん坊だな~」

 言葉とは裏腹に満更でもなさそうな顔をして、チュッと唇を重ねた。

「もっと?」

 考子はおねだりするような声を出して、唇を突き出した。
 新は優しく長時間唇を合わせた。
 
「これでいいかい?」

「うん、元気になった。ありがとう」

 考子の顔にいつものような笑みが戻った。

「つわりはね、胎児が送るサインなんだよ」

「サイン?」

「そうだよ。『ママ、気づいてね。ここに私がいるよ』っていう胎児からのサインなんだ」

「ふ~ん」

「そう思うと、つわりが愛おしくなるだろ?」

「……他人事だと思って。気持ち悪いだけで、愛おしくなんかないわよ」

 考子が頬を膨らませた。

「まあね。そうなんだろうね。残念ながら男の僕にはその辛さはわからないからね。でもね、外来で『胎児が送るサイン』ということを言ってあげると、妊婦さんに笑顔が戻ってくることもあるんだよ」

 産婦人科の外来で妊婦の気持ちに寄り添って説明をしている白衣姿の彼を想像した考子は、改めて彼が素晴らしい医師であることに気づいて嬉しくなった。
 すると、愛の結晶である胎児への愛おしさが増してきた。
 
「赤ちゃんは元気に動いているかな?」

 考子がお腹を撫でると、「羊水の中で盛んに運動しているはずだよ」と新が手を重ねてきた。
 すると、更に愛おしさが増してきた。