思わず後ずさった朱莉に対し、龍海は悠然とその光景を眺めていた。
 今居る小丘から見下ろせる、茶色の土で固められた窪地。その土中から突如として姿を見せたのは蜘蛛に間違いなかった。

 ただ、その大きさは朱莉の知るものとは違う。
 熊、麒麟、象──咄嗟に思い当たる巨大な動物のさらに数倍以上はあろうかという、とても巨大な蜘蛛だ。

土蜘蛛(つちぐも)だな」

 そう言う龍海からは、動じる様子は一切ない。

「古くから伝わるあやかしで、代々気性が荒い。普段はその名の通り土の中で暮らしているが、たまにこうして地面を這い出て他のあやかしや人間を食らう」
「あやかしや人間を食らう……きゃっ!」

 龍海の紹介内容が気に入らなかったらしい。
 土蜘蛛から放たれたけたたましい雄叫びに、身体がびりびり揺れた。

「土中に暮らすお前とて久方ぶりの日光は恋しかろう。お狐様も俺も閻魔ではない。この土壌で日照りを楽しむ分には見逃してやる」

 涼しげに声を張る男に、土蜘蛛はまた非難めいた声を上げた。

「ただし街にいる住民を食らわせるわけにはいかない。容赦なく──切る!」
「ギャアアア!」
「ひっ!」

 一層大きな金切り声が響いた。
 直後、巨大な蜘蛛が真っ直ぐこちらへ突進してくる。驚くほどの速さに圧倒され、身体が動かない。

 だめだ──食べられる!
 まぶたを塞いだ瞬間、ぐいっと強い力で身体を引かれた。

「あ……!?」

 大きな口に呑み込まれる心地がした刹那、ふわりと身体が宙を舞う。
 気づけば龍海は朱莉の腹を抱え、上空へ身体を翻していた。
 視線を落とすと同時に、凄まじい激突音が響き身体が強張る。

「さ、先ほどの小丘が……」
「あの土蜘蛛、相変わらずの馬鹿力だな」

 そう零すと、龍海は少し離れた場所へと着地した。
 粉塵が辺りに飛び散り、上空まで砂埃が舞い上がっている。
 今の激突で姿を消した小丘に、朱莉は小さく息をのんだ。

「戦う術がないのなら、あんたは街に戻れ。勢いだけでここに来られても足手まといだ」
「す、すみません……でも!」

 正論ではあったが、ただ指をこまねいて待っているわけにはいかない。
 先ほどの住民たちも、皆揃って口にしていた。
 この災いの原因が自分にあるのならば、責を負うのもまた自分だ。

「──土蜘蛛さん! 貴方の目的は私ですか!?」

 ぎゅっと拳を握り、朱莉は目一杯に声を張り上げた。

 本当は恐いし、逃げ出したい。今にも身体がすくみ上がりそうだ。
 けれどこれ以上、この美しい國を破壊させるわけにはいかない。

「私ならここにおります! 逃げも隠れもしませんから、どうか暴れるのはやめてください……!」
「おい何やってんだ! いいからあんたは下がってろ!」
「いいえ龍海さん! 私のために、他の誰も犠牲にするわけには参りません!」

 後方から肩を引いた龍海に、間髪入れず反論する。
 それが意外だったのか目を瞬かせる龍海に、朱莉はふっと柔らかく微笑んだ。

「短い期間でしたが……お世話になりました。死の間際に貴方のような殿方に出逢えたこと、私は決して忘れません」

 名残惜しかったが、幸せの時もそろそろ終わりだ。

 生涯で唯一好いた人。
 最後に覚えてもらう顔は、やっぱり笑顔がいい。

 肩に乗せられた手をそっと避け、朱莉は土蜘蛛が呻く谷の先へと歩みを進める。
 谷下にいる土蜘蛛もまた、真っ直ぐこちらを見据えた。まるで獲物を見定める視線に、ぞわりと身の毛がよだつ。

 あんなに大きな蜘蛛だ。きっと私を一呑みするくらい訳ないに違いない。
 人の面をかぶったヒゲ爺と、巨大かつ凶暴な土蜘蛛。
 ああ。どのみち自分は、化け物に食べられる運命だったらしい。

 今一度覚悟を決めよう。けれど、ただで死んでやるつもりもない。化け物も道連れだ。
 地鳴りのような足音が近づいてくる。
 再び大きく開かれた口内に呑み込まれるのを感じながら、朱莉はそっと両手に力をこめた。

「朱莉!!」

 呼ばれた名とともに、手首を掴まれる。
 同時に、眼前に迫っていた山蜘蛛の巨体が向こう側の山壁まで飛ばされた。

 龍海の刀が起こした、大量の水の激流によって。

「た、つみ、さん……?」

 目が覚めるような水の飛沫が、辺りに飛び交う。
 朱莉は目を丸くして、前に踏み出した男を見上げた。
 刀を構えたまま、細く息を整える気配が届く。

「あんたが言う望みとやらは、所詮そんなものか」
「え?」
「俺に食べられたいんじゃねえのかよ」

 はっと目を見張る。

 どこか砕かれた粗雑な口調で語られたのは、出逢ってから伝え続けてきた自分の願望だった。

「それとも、俺とあの土蜘蛛はあんたの中で同等ということか。まあ、人の好みは人それぞれだからな」
「違います! 私が恋い焦がれた方は、生涯貴方だけです!」
「なら命を投げ打つような真似はするな。これから先、もう二度と」

 横目で静かに告げられた言葉に、朱莉の胸がじんと熱くなる。
 凜と敵を望む面立ちは、どこまでも真っ直ぐで強い。

「あんたが生きるならば、俺はあんたを守る。例えどんな敵があんたを襲おうと」
「っ、龍海さん」
「お狐様のご意向だからな。──ここにいろ!」

 だん、と崖先を思い切り踏み込んだ。

 龍海の身体は軽々と宙を舞い、土蜘蛛の遥か上へと辿り着く。
 気づいた土蜘蛛は吐き出した白い糸で反撃するが、男の素早さに為す術もなかった。

「蜘蛛には蜘蛛の矜持もあるだろうが、あいにくこの國は法治国家だ」

 一気に刀を振り下ろす。
 刹那、眩しい閃光が走ったかと思うと土蜘蛛の身体が一刀両断された。

「土に還れ、土蜘蛛」
「ギャアアア……!」

 渾身の断末魔が、徐々に先細っていく。
 巨体を支えていた足の一本から力が抜けると、他も次々と力を失っていった。

 完全に地に腹をつけた土蜘蛛は、最期まで敵意をこめて龍海を睨んでいる。
 それを一身に受けていた龍海はゆっくり体勢を戻すと、刀を鞘に収めた。

「すごい……」

 思わず漏れ出た言葉だった。
 朱莉が今まで生きてきた人間界でこのような化け物と対峙し、真っ二つに切り捨てられる者はいるだろうか。いや、いない。絶対にいない。
 美しい立ち姿にさらに心が奪われるのを感じる。やはり自分の直感は間違ってはいなかった。

 生涯の伴侶としてもらう相手は、この人しかいないのだ。

「……え?」

 それは一瞬の出来事だった。
 龍海と土蜘蛛から距離のある朱莉の傍らを、何かがすっと横切る。
 風に流れるように運ばれていった「それ」に朱莉は咄嗟に振り返った。
 日に照らされきらりと光ったあれは──蜘蛛の糸?

「待ちなさい!」

 嫌な予感に突き動かされ、朱莉は駆け出していた。

 追った先にある蜘蛛の糸はみるみる寄り集まり、一つの小さな蜘蛛になる。
 それが次々に数を増やし、いつの間にか数十以上の蜘蛛となり丘に放たれた。

 真っ直ぐに向かう先には、人家が建ち並びあやかしたちが避難する街がある。

「止まりなさい! そちらへ行ってはいけない……!」

 駆けながら説得を試みるが、耳を貸す子蜘蛛たちではない。
 あれは恐らく今息絶えた土蜘蛛の分身だ。本体を滅ぼされたせめてもの反撃として、異形の子蜘蛛を向かわせている。

 このままでは、皆が危ない。

「──出でよ、火の粉!」