その場にいる誰もが、はっと目を見張った。

 有無を言わさない、強く低い声。
 声の主はいつの間にか、近くの川に架かった橋の頂点にいた。

 腰を落としじっと遙か遠方を見つめている横顔は凜々しく、やはりとても美しい。

「お前の言うことは尤もだ。お前たち家族が言うことは、いちいち的を射ているな」
「ご、ご無礼を、龍海様! 我々は決して貴方様のことを申してはおりませぬ! あくまで我々にこの國を作るに及ばせた、悪しき人間どもに対して……!」
「クロキチ。これをお前に託す」

 龍海が懐から放ったものを、クロキチと呼ばれた大鬼が慌てて受け取った。

 砂埃の中でも眩しく光り輝く碧い鉱石。
 細紐が繋がっている。どうやらネックレスになっているようだ。

「以前から欲しがっていたな。しかしこれは自警団内の位を表す証し。おいそれと渡すわけにはいかないと」
「は、はあ。しかしそれを今、何故俺に?」
「今からこの禍ごとの原因を探ってくる。その原因がそこの人間だと結論付けば、それは今日からお前のものだ」
「なっ!?」
「龍海さん?」

 話が全く見えない朱莉が、思わず口を挟む。
 そんな朱莉に一瞥もくれないまま、龍海はひらりと地に降り立った。

 かち、と刀を柄に合わせる音がする。

「その代わりに、俺が戻るまでの間この人間のお守りを頼む。よかったな。予期せぬ昇進になるかもしれないぞ」
「た、龍海様お待ちください! いくら何でもこれは受け取れませぬ!」

 クロキチの返事を待たぬまま、龍海は音源の方向へと駆けだしていた。
 置き去りにされた朱莉は目を瞬かせるしかできない。

「父ちゃん。それって確か、自警団団長の紋章なんじゃ……?」
「ああ」

 恐る恐る尋ねるタマキに、クロキチは苦々しく頷いた。
 手のひらには碧く輝く鉱石のネックレスが、小さな光を放っている。

 無言のまま朱莉に向けた視線には、先ほどの刺すような視線ではなくなっていた。

「あんた、本当に敵じゃあないのか」
「……はい。少なくとも私に、その自覚はございません」
「まったく。龍海様もずるい御方だよ」

 がしがしと頭を掻くクロキチは、龍海が立ち去った方向に視線を馳せた。

「この紋章は、龍海様がお狐様より拝受されたものだ。あの方がこの國の用心棒として生きることを認められた証し」
「え?」
「つまり……龍海様は自身が築いてきた立場と引き換えに、あんたの身の安全を守ることを俺に頼んだってことだ」

 はっと息をのむ。
 それほど大切なものを、龍海は自分なんかのために手放したなんて。
 龍海が駆けていく背中が脳裏を過り、朱莉は血の気が引く心地がする。

「あの方は極端な方だ。自分が守ると決めたものには文字通り命を賭す。この國や街や住民達のために。現に今までも、幾度となく死線を渡ってこられた」
「死線……」

 だからあんなに真っ直ぐな瞳をしているのだろうか。見た者の心を一瞬で射抜く、曇りない瞳を。

 あんなに美しく澄み切った眼差しを、朱莉は見たことがない。

「音は止んだが、いつまた異変が起きるか分からん。皆のもの! 念のため奥地の広場に集まれ! 砂埃が酷い。口元に布端を当てて慌てずに向かうんだ!」

 クロキチが発した指示に、周囲のあやかしたちが一斉に動き出す。
 どうやら彼もまた何らかの地位を持っているらしく、細かな指示を他の者に出していく。ひとしきりの指示だしを終えたあと、再び朱莉に向き直った。

「ぐずぐずするな。あんたもいくぞ」
「でも……いいのですか?」
「仕方なかろう。龍海様直々の命だ」

 まだ心から納得はしていない、ということだろう。
 それでも朱莉を案内しようとする彼に感謝しつつ、朱莉は龍海が姿を消した反対方向を見つめた。

 街の向こうはさらに砂埃が立ちこめ、すでに視界が塞がれてしまっている。

「この砂埃と先ほどの轟音は、一体なんなのでしょうか」
「それを龍海様が調べに向かったんだ。あんたには何もできることはない」
「……」

 本当にそうだろうか。
 私にできることは、本当に何もないの?
「あ……、おいっ!」

 気がつけば、朱莉は駆け出していた。

 クロキチの慌て声を聞きながら、迷いなく砂埃の中へと突進していく。
 何が起こっているのかは分からない。自分にできることが何かも分からない。

 しかし今の自分には、行きたいところに向かうことができる足がある。
 幽閉されていたときの自分とは、もう違うのだ。

「龍海さん……!」

 恐らく彼には、本気にしてもらえなかっただろう。
 それでも間違いなく、龍海は人生で唯一朱莉が恋い焦がれた人なのだ。

 彼が自分に賭してくれた命。そう簡単に落とさせるわけにはいかない。

 背の高い家屋が建ち並ぶ街並みを、ようやく抜ける。
 道はその先の草原を真っ直ぐ続いた。
 辺りの茶色の霧はさらに色を濃くなり、口元を着物の裾で覆いながら進む。
 成る程クロキチさんの指示はとても的確だ、と朱莉は小さく笑った。

「っ、あ……龍海さん!」

 一瞬だったが、間違いない。
 道をさらに進んだ小さな丘の上に、彼の姿はあった。

 すると向こうも気配に気づいたのか、こちらを振り返る。
 見張られた瞳は、砂埃の中でもやはり綺麗だった。

「龍海さん、お怪我はありませんか!?」
「……女一人引き止められないか。クロキチの奴、後で説教だな」
「いいえ。私が無理を押してきたのです。クロキチさんは他の住民の避難誘導をされていたので……!」

 そのときだった。
 再び辺りに、地面を揺らすほどの音が響く。
 この場にいる朱莉たちには、音の発生源がようやく理解できた。

「く、蜘蛛!?」