湖面に落下する衝撃は、いつまで経っても襲ってこなかった。

 それよりも身体を取りまく妙な浮遊感に気づき、そっとまぶたを開く。
 ちらりと落下先に視線を向け、朱莉は大きく目を剥いた。

「えっ!?」

 落ちてはいた。
 しかし湖にではない。どこかも知らない街並みにである。

 つい先ほどまであったはずの湖も、目の前に並んだ追っ手の姿も今はない。
 あるのはボロボロのドレスに身を包んだ朱莉と、徐々に近づいてくる街──つまりは地面だった。

 先ほど決めた死に場所は、湖だったはず。それがあっさり変更されたことに、朱莉は酷く狼狽した。
 溺死も嫌だったけれど──転落死だってもちろん嫌!

 とはいえ今の朱莉に為す術はない。徐々に落下速度は増してゆき、落下地点を確認することもままならない。

「ドレス……白に戻ってしまいましたね」

 身体を切る風が、ドレスを本来の色に蘇らせたらしい。
 逃げる際の爆発で煤けていたはずのドレスは、元通り純白に輝いていた。

 死に装束が幸せの象徴の純白ドレスか。
 あちこち裾が破れて不格好ではあるが、悪くはない。

 そっとまぶたを閉じ、来る衝撃に身構える。
 瞳から熱い雫が滲み出て、弾かれるように辺りに瞬いた──そのときだった。

「あんた──……人間か?」

 男の声だった。
 次の瞬間、地面に向かっていたはずの朱莉の身体はふわりと動きを止めた。

 背中と膝裏に、誰か他人の温もりを感じる。
 受け止められたのか。でも、一体誰に?
 そっと目を開くと、見知らぬ青年がじっとこちらを見つめていた。

 視線が絡んでも逸らそうとしない、少しつり目気味の澄んだ黒い瞳。
 艶が走るほどに美しい長髪。
 身を包む藍色の着物は腕の辺りまでまくられ、覗く腕は逞しい筋が入っている。

「おい女。あんたは何者だ」

 そして何より、今まで見たことのない強い信念を宿した面差しに、朱莉は酷く胸が揺すぶられた。
 心臓がぎゅっと掴まれたみたいに苦しくなる。

 ああ──間違いない。この方だ。

「あの」
「何だ」
「私を、食して下さいませんか?」
「……」

 はあ?
 目一杯の間を開けて、男が顔をしかめる。
 しかめた顔も美しい。

 噛みしめるように内心で独りごちた朱莉は、そのままぷつりと気を失った。