辿り着いた先は、外出時にも訪れた小さな踊り場だった。
 ここなら朱莉の部屋からも比較的近く、街も一望できる。

 眼下の街はすでに日が落ちかけ、人通りも多くはない。
 昨夜はあちこちに灯っていたランプの明かりはやはり少なく、街全体が濃紫の影に包まれつつあった。

「つい先ほどまで床に伏せていた人間が、無謀じゃないのか」

 後ろに立つ龍海は渋い顔をしている。
 心配してくれているのだ。その事実がまた嬉しく、胸がくすぐったくなる。

「大丈夫です。龍海さんがそこで見守ってくださるのなら」
「……手元が狂って大火事なんてことにはならないようにな」
「はいっ」

 はにかみながら頷いた朱莉は、そっと意識を集中させる。
 両手を皿のように眼前に差し出すと、白い光の粒が集まっていく。火種たちだ。

 ふっと息を吹きかけると、たちまち光の粒は赤い火となり辺りに浮遊した。
 きらきらと瞬く様は、いつ見ても天の川の流れのように美しい。

 集まってくれてありがとう。

「さあ、この街を照らしておいで」

 今一度、朱莉がふっと吐息をかける。

 すると火種たちは、流れ星のように街のあちこちへと落下していった。
 しばらくすると、徐々に街並みに明かりが灯り、昨夜見た夜の風景が浮かび上がってくる。

「すごいな」

 いつの間にか隣に歩み進んでいた龍海の言葉に、自然と笑みが漏れた。

「これで大丈夫です。火は短くとも三日三晩は持ちましょう」
「そうか。住民たちも助かるだろう」
「お役に立てたのなら嬉しいです」
「ああ。ありがとう」

 ありがとう。

 龍海の何気ない言葉が、朱莉の胸に明かりを灯す。
 この言葉だけであとひと月は生きていける。そんな気がした。

「あんたに一度、詫びを入れたいと言っていた」
「え?」
「クロキチやタマキの母、それに近隣の住民たちがな」

 目を瞬かせる朱莉に、龍海は肩をすくめる。

「俺は不要だと言ったが聞き入れなかった。悪人と決めつけて街中で罵ったにもかかわらず、あんたは街を守った。そのことを詫びて、礼を言いたいと」
「そ、そんな! 私はただ、自分が守りたいものを守っただけで……!」
「あんたが拒否しても止まらない。あいつらもなかなかに頑固だからな」

 龍海は鉄柵に肘を置き、街を見下ろす。
 促された先に視線を落とすと、お狐様の屋敷の門前には溢れるほどの住民たちが集っていた。

 朱莉が今しがた灯したばかりのランプを持つ者もいる。

「朱莉様! この度の数々の無礼、どうかお許しくだされー!」
「ク、クロキチさん!?」

 第一声を放ったのは赤ら顔の大柄な鬼──クロキチだった。
 続くように、地上の群衆からわあっと声が上がる。

「朱莉様! この街を救ってくださってありがとうございます!」
「お狐様にも、今回の朱莉様の御慈悲は余すことなくお伝え致しました!」
「姉ちゃーん! ランプの火をつけてくれて、どうもありがとうー!」

 一斉に向けられる、詫びと礼の言葉。
 その温かさに、朱莉は呆然とした。

 徐々に心に沁みていった感情に、朱莉はふらりと手すりに寄り掛かる。

「おい。あまり身を乗り出すな。危ないぞ」
「こんなふうにお礼を言われる日が来るなんて……思ってもみませんでした」

 熱いものがこみ上げてくる。
 じわじわと沁みてくる温かな感情が胸いっぱいに広がって、息が苦しくなっていく。

 自分の内側にこんな感情が残っていたなんて、知らなかった。

「あんたが望むなら、ここを棲み家にしたら良い」

 静かに告げられた言葉に、一瞬の間を置いて振り返る。

「この國に害を成せば遠慮なく追放するところだが、その素振りもない。人間界に返す方法もなくはないが、あんたは向こうの生活には未練がない様子」

 街に散りばめた橙の灯りが、そこに佇む男の姿を淡く映し出していた。
 次第にその凜々しい輪郭が歪み、目もとに熱が帯びていく。

「明朝お狐様の詮議が下りる。そこであんたの意向を聞かれるだろう。それまでに心を決めておくことだ」
「っ……あ、あり……」

 ああ、駄目だ。声が出ない。
 目尻まで溢れた涙はそのまま頬を伝い、喉は小刻みに震える。
 せめて嗚咽を抑えようと口を結ぶも、押し寄せる感情の波にそれも無駄な抵抗に終わった。

 顔を伏せ両手で覆った朱莉に、頭上で僅かに動揺する気配が届く。
 龍海さんを困らせている。早く泣き止まなければ。

「え……?」

 顔を濡らす涙を急いで拭っていると、頭に何かが触れたことに気づいた。

 温くて、少し固い。
 龍海の指先だった。

「龍海さん……?」
「あんたが今までどんな人生を歩んできたのかは知らないし、聞き出すつもりはない。それでも、本来負う必要のない苦労をしてきたことは分かる」
「……っ」
「今までよく頑張ったな。朱莉」

 ああ。また名前を呼んでくれた。
 お狐様に呼ばれたときとはまた違う喜びを感じながら、朱莉はそっと目を閉じる。

 この街で過ごすのも、一瞬の夢幻のようなものと思っていた。
 しかしもう少しだけ、夢を見ていてもいいのだろうか。

「ありがとうございます。龍海さん」
「あんたは礼を言ってばかりだな。少しは褒美をねだってもいいほどだ」
「……では褒美として、私のあの願いを聞き入れてくださる気は?」
「……冷えてきたな。そろそろ部屋に戻るぞ」

 うっとりするような手の感触が離れていく。
 背を向けた龍海が踊り場から建物の中へと戻っていくのを、朱莉は笑顔で見送った。

 冗談でも気の迷いでもない。
 土蜘蛛に食われかけた瞬間さえも、やはり自分は思ったのだ。

 食べられるのならば、やっぱり龍海さんがよかった──と。

 屋敷前の住民たちに深く一礼し、朱莉も踊り場を後にした。
 自ら灯した明かりで彩られた地下ノ國の街並みは、この上ない贅沢な光景に思えた。

 終わり