鈴世の手首から母の形見である数珠が零れ落ちた瞬間、屋敷全体がぐらりと揺れた。振動が収まった数刻後、屋敷の門前で自動車が止まる音が聞こえる。
「おい」
長い廊下を一人で掃除していた鈴世は、屋敷の主人である厳雄に呼ばれた。なぜお前がという不機嫌そうな表情を隠すことなく「客がお前を指名だ」と言い放つ。
案内された客間では、黒紋付の服を着た穏やかそうな男が座っていた。
「幽統院の筆間正久と申します」
鈴世は無表情で会釈をする。そして男の向かいに座ったと同時に、彼は目を細め「やはり」と呟いた。困惑する厳雄の方を向き、にこりと笑う。
「この方には、幽従の力が宿っています」
「幽従の力、とな?」
「えぇ、あやかしを使役する力を私たちはそのように呼んでいます」
「あやかし……」
鈴世が低い声で繰り返した。それがあまりにも憎々しげな声だったので、正久は首をわずかに傾げる。鈴世は膝に乗せた拳を強く握り、震える声で言った。
「あやかしは……私の母を殺したのです」
「なるほど」と正久は頷き、笑みを深めて説明を続けた。
「先日、橘坂町のあやかし屋敷の主人が他界されました。結界で封印はしておりますが、それも長くは保ちません。一刻も早く新しい主人が必要なのです。娘さんなら──ぴったりですな」
正久の言葉に先ほどまでつまらなそうにしていた厳雄の目が輝く。
「何とありがたい話でございましょう」
感に堪えたというように目頭を押さえ、それまでの態度が嘘のように鈴世を慈しむ目で見つめる。
「父親もおらず、母親にも捨てられた哀れな子でしたゆえ、実の娘のように可愛がって参りました。食事も衣服も不自由のないよう心を配り……それはもう、妻と寝る間を惜しんで世話を焼いたものです」
ありもしない記憶を懐かしげに語り、両手で揉み合わせる。物欲しげな目がちらりと正久を覗った。
「鈴世は我が子同然に育てあげた娘。どうか末永くお世話になる縁として、それなりのお心付けを」
正久は笑みを崩すことなく、無言で袋を机に置いた。厳雄は空腹の犬のように袋に飛びつき、中から覗く黄金色の輝きに目を細めた。
「あぁ、鈴世。お前との別れは惜しくはあるが、お前のためを思えばこれも良縁。幸運を祈っているよ」
彼は芝居じみた笑みで、鈴世に別れを切り出した。彼女はわずかに目を泳がせたが、無言で頭を下げる。それが十年過ごした屋敷の主人との別れになった。
*
道は蛇のように曲がりくねり、車輪が小石を弾くたびに車体が揺れる。人の気配はほとんどなく、代わりに不穏な空気が濃くなっていくのを鈴世は感じていた。正久は片手でハンドルを操作し、煙草の煙を吐き出す。屋敷にいたときの穏やかそうな印象は影も形もなくなっていた。
「いいのか?」
「何のことでしょうか」
「あやかし屋敷のことさ」
「……拒否権などありませんから」
ふうん、と正久はつまらなそうに呟き、しばらく無言で走り続けた。町を出てから一刻ほど走り、自動車は止まった。
「あれが目的地だ」
自動車から降り立ち、煙草の吸い殻を足でぐりぐりと踏みつける。
そこには立派だが寂れた雰囲気の屋敷が佇んでいた。朽ちかけた門柱には黒い蔓が這い、庭の雑草は手入れされた形式はない。しかしそれ以上に異様なのは、建物全体を包む黒い靄だった。
「呪いだ」
鈴世の視線に答えるようにして正久は言う。
「前任者──黒瀬操は強力な幽従の力を持っていた。同時にあやかしという存在を、酷く憎んでいた。理由は分からんがな」
「……」
「黒瀬は長い間、あやかしたちに呪いをかけていたらしい。苦しむ様子を見て楽しんでいたんだとよ。いい趣味だよなぁ」
他人事のように正久は言う。そこにあやかしたちへの同情は微塵も感じられない。
「あそこに、母の仇が……」
鈴世は屋敷を睨みつけた。正久は首を左右に倒してコキコキと骨を鳴らしながら「分からんなぁ」とぼやいた。
「あんた母親に捨てられたんだろ?」
「いいえ……。お母様は体が弱く、頼れる人もいなかった。全財産と共に遠い親戚である厳雄様のところに私を預けたのです。だけどお母様はそのあと──」
「あやかしに殺されたってことか」
鈴世が母の訃報を聞いた日、冷たい雨が朝から降っていた。
使用人は訃報を手短に伝えたあと、口を噤み、視線を逸らした。後に耳にした噂を聞き、鈴世は世界から色がなくなっていくのを感じた。母の亡骸は人の形を成さないほどに引き裂かれたという。首から下は千切られ、四肢は爪のような鋭利なもので何度も刺した痕があった。あやかしの仕業に違いないと人々は囁いた。
正久は面倒そうに後頭部を掻く。
「まぁ復讐心でも何でもいいさ。あのあやかしたちを外に出さないでくれるならな」
「『幽従の力』があれば従わせられるのですね?」
「あぁ、命令に『気』を込めればいい。あんたの思うがままに従えることができる」
鈴世は拳を握りしめ、決意したように屋敷を睨みつけた。
*
『気』の込め方や屋敷の注意事項をいくつか説明をし、正久は別れを告げた。一刻も早く面倒ごとから逃げたいという思惑がひしひしと伝わってきた。
驚いたことに、生活費や食料は援助を受けられるらしい。「あやかしを生かし続け、援助をしたい層が一定数いるんだ。理由は不純だけどな」と正久はぶっきらぼうに説明した。
屋敷は惨憺たる有様だった。壁には深い亀裂が走り、障子は破れ、かつてあっただろう豪奢な佇まいは影も形もない。庭は荒れ果て、池からは腐臭がし、黒い靄が立ち込めていた。手ぬぐいで鼻を押さえ腐臭を防ぐ。
そして小石を踏む音が響いた瞬間、空から一つの影が降り立った。
鈴世はしたたかに地面に押し倒され、目の前の男を睨んだ。墨を流したような黒髪と切れ長の瞳、一見すれば人と何も変わらない。しかし頭の側頭部に耳はなく、代わりに頭頂部から獣の耳が生えていた。夜の闇より深い瞳は、見る者の魂を吸い込みそうな妖しさを湛えている。白磁のように透き通った肌は、人の世のものとは思えないほど美しく、その上を這う黒い呪いの痕がかえって妖しい魅力を際立たせていた。
男は憎々しげに鈴世を見下ろす。
「お前が新しい主人か」
「──えぇ」
ぎりっと男は奥歯を噛みしめる。
「出て行け!」
『離れなさい』
鈴世が命じれば、男は激痛に耐えるように顔を歪ませた。抗おうとする意志とは裏腹に、しなやかな指が鈴世の着物から離れていく。艶やかな面差しには言いようのない屈辱の色が滲んでいた。
「く、そ」と男は苦悶の表情を浮かべ、地面に両膝をついた。鈴世は立ち上がり、着物についた土を払う。
『貴方の名前は?』
「雨、月……」
『他のあやかしの場所を言いなさい』
命令の言葉が降りた瞬間、雨月の体が強張る。何か言いかけた唇が震え、喉仏が何度か上下した。言葉を飲み込もうとするたびに激痛が走るのか、眉根に深い皺が刻まれる。爪で地面を掻きむしり抵抗しようとしたが、力の前では為す術もなく掠れた声で絞り出した。
「い、ど、にいる……」
鈴世が振り向けば、そこには朽ちかけた木の板で塞がれた古びた井戸があった。
井戸へ向かおうとする彼女の背中に、雨月の懇願が聞こえた。
「やめろ! 夏目に手を出すな!」
鈴世は無視して、木の板を取り除く。埋め立てた井戸の中には、猫のような瞳を持つ金髪の子どもがいた。化け猫の血を引く証である尖った耳は後ろに倒れ、尻尾は怯えて足の間に巻き込まれていた。大きく見開いた琥珀色の瞳は恐怖の色に満ちている。
鈴世は何の躊躇いもなく、まるで人形の髪を掴むかのように乱暴に引き上げた。幼いあやかしの首が後ろに引かれ、呪いの痕が浮かぶ白い喉が剥き出しになる。引き裂かれるような痛みに小さな体は震え、瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「やめて……痛いよ……っ!」
夏目の哀願する声に、雨月が纏う黒い靄がぶわっと大きくなった。
「何をする!」
「主人にそんな目を向けるからでしょう」
鈴世は冷たい言葉で言い放つ。
雨月が襲いかかろうする気配がしたので、彼女は命じて動きを封じる。「な、ぜお前らは、俺たちを……」と呟いたので、鈴世は髪の毛から手を離して冷笑を浮かべる。
「私のお母様はあやかしに殺された。絶対にお前らを許さない」
「俺たちが殺したわけじゃないだろう!」
雨月は叫んだが、鈴世は冷たい視線を向けるだけだった。
そしてその場から離れ、屋敷の方向へ歩いて行く。「くそ……! くそ……っ!」と憎々しげに言葉を放つ声だけが庭に響いていた。
*
鈴世が屋敷の女主人となり半月が経った。屋敷を包む黒い靄は日を経つごとに濃くなっている。
母を殺された恨みを吐き出すかのように、幽従の力であやかしたちを虐げた。雨の日には庭で何時間も正座でいることを強制し、またある時には彼らの誇りを踏みにじるように床に這いつくばらせた。屈辱で歪む雨月に情報を吐かせることもあった。
この屋敷に住むのは、黒狐の雨月と化け猫の幼いあやかしの夏目。雨月は強力な結界を張る力と、狐火を操る能力を持っていた。夏目はまだ幼く、力は目覚めていないという。
昼間の鈴世からは、感情というものが微塵も感じられない。まるで人形のように無表情で、あやかしたちを淡々と虐げる。太陽が完全に沈むと鈴世は決まって部屋に戻るため、あやかしたちは仕打ちを受けながら日の暮れをひたすらに待ち続けた。
今宵は満月が美しい夜である。
鈴世は部屋で月を見上げながら、母と過ごした日々を思い出していた。部屋に焚いた山梔子の香が鼻腔をくすぐる。母の好んだ花の香りが、静かな部屋に満ちていった。
「母様……」
その声は切なげに夜の空へと消えた。しばらく月を眺めていた鈴世は、白無垢のような純白の着物を纏い、足首に鈴の付いた革紐を巻き付ける。
彼女は部屋を出て、内縁から草履に履き替え庭へ出た。黒い靄が漂う庭の中央に立ち、両手を月に向かって掲げる。一呼吸置いて、彼女は舞いはじめた。
りん、りん、鈴の音が彼女の踊りに合わせて軽やかに鳴る。足首の鈴が奏でる音は、どこか哀しい調べを帯びている。白い着物の裾が月光に溶けるように広がり、漆黒の髪が夜風に揺れた。
「夜の帳に降り立つは──」
幼い頃に母から教えられた歌が月に向かって昇っていく。
鈴世は母との思い出をなぞるように、毎晩繰り返して舞い、歌声を月に捧げていた。もう会うことができない母を偲んでいるのか、瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。
静けさが満ちる屋敷の庭で、鈴世の歌声と鈴の音がただ響いていた。
一方、雨月は薄暗い部屋の中で、背筋を硬く伸ばし座っていた。部屋に差し込む月光が、苦悶の表情をより鮮明に浮かび上がらせる。檻の中で自由を奪われた気高い獣のように、切れ長の瞳は虚空を睨みつけていた。
その傍らで、夏目は布団の中で小さく身を丸めていた。金色の髪は汗に濡れ、額に張り付いている。苦しげな吐息を漏らすたびに、幼いあやかしの体を黒い靄が包み込もうとする。その様子を見て、雨月はぎりりと歯を食いしばった。
「あの野郎が死んでようやく解放されると……!」
雨月の脳裏に、黒瀬と過ごした悪夢のような日々がよぎった。
黒瀬は底知れぬ憎しみの眼差しであやかしを見つめ、呪いの言葉を紡いでは黒い靄を放った。その靄は百足のように這い寄り、あやかしたちの体に纏わり付く。やがてそれは皮膚の下へと潜り込み、魂を食らうような痛みをもたらした。夜な夜な苦しむあやかしを見て、黒瀬は狂気の色を湛えた瞳を輝かせては嗤った。
ある日、黒瀬は何の前触れもなく屋敷から姿を消した。そして数日後、黒瀬は全く別人のように変わり果てた姿で帰ってきた。彼の体には、雨月たちと同じような呪いの痕がくっきりと刻まれていた。「俺は、俺は違う……!」と取り憑かれたように叫び、自分の影に怯えるように体を震わせた。黒瀬は依然として雨月たちを虐げたが、死ぬまでの十年間、呪いの激痛に苦しむようになった。
黒瀬が息絶えたと同時に屋敷に結界が張られ、逃げることを封じられた。しかし力のある者がいなかったのだろう。張られた結界には細かな亀裂が入り、まるで蜘蛛の巣のように広がっていた。太陽が昇っている時間では難しいが、力が漲る夜なら壊せるかもしれないと雨月と夏目は自由を夢見た。
あと少し、あと少しと待ち続けた時──希望を持ち続けるあやかしを嘲笑うかのように、新しい主人がやってきてしまった。
幽従の力を持つ者が屋敷にいると結界は強固になるため、あやかしは逃げることができない。夏目に惨い仕打ちをする可能性があるため、反抗することもできなかった。
「俺たちは逃げられないのか」
雨月は泣き笑いのような顔で一人呟いた。
そのとき、夏目が激しく咳き込みはじめた。痛々しい咳が部屋に響き、小さな体を丸めて苦しみに耐える。
「夏目……!」
彼の体は巨大な黒い靄に包まれており、夏目の体を飲み込もうとしていた。あやかしの体は人間よりも丈夫で、普通の傷などは瞬く間に癒えてしまう。しかし黒瀬の呪いは、あやかしの治癒能力さえも蝕んでいった。
名前を呼びながら背中をさすり続けていると、夏目の口元から鮮やかな赤が滲み出る。その鮮血を見た瞬間、雨月は部屋を飛び出していた。長い黒髪が夜の闇に溶けるように揺れ、足音は焦燥を帯びて木の床を打つ。
呪いの闇に包まれた屋敷はまるで迷宮のように思えた。廊下は果てしなく続き、障子の向こうには虚ろな闇が広がるばかり。夏目の苦しむ声が耳にこびりつき、雨月の心は焦りに満ちていく。
そのとき、どこからともなく清らかな鈴の音が響いた。
「きよ……しらべ……声なり……蒼き……焼き尽くせ……」
途切れながらも女の歌声も聞こえてくる。声に導かれるように庭へ走ると、満月の下で舞う鈴世の姿があった。足が地を蹴るたびに鈴の音が奏で、哀しみを帯びた歌声と重なっている。雨月は息を呑み、一瞬だけ言葉を忘れた。
「何か用かしら?」
鋭い声色に冷や水を浴びせられた心地になる。
こんな主人に一瞬でも美しいという感情を抱いてしまったことに恥じた。雨月は拳を握りしめ、頭を深く項垂れた。
「夏目の様子がおかしい……診てほしい」
屈辱だった。あやかしを見下す存在に頭を下げなければならない事実がとてつもなく。
鈴世は無言のまま、白い着物を翻して雨月の傍を通り過ぎる。そのとき、山梔子の香りが雨月の鋭敏な嗅覚を刺激し、思わず眉をしかめた。濃厚で甘美な香りはあまりにも人の世のものだった。
部屋に入った鈴世は、黒い靄に包まれ、布団の上で苦しむ夏目を見下ろす。雨月の心には一筋の光が差し込んだが、すぐに霧散してしまう。
「穢らわしい」
弱々しい呼吸を続ける夏目の傍で、鈴世は言い放つ。雨月は爪を立てた拳を強く握りしめ、怒りを押し殺した。掠れる声で説得を試みる。
「お前の力があれば……呪いを解くことができると……」
「私もそう聞いたわ。でもそれは初期段階の呪いの話。ここまで大きくなってしまった呪いを解けば、私の身も無事では済まない──何より、」
鈴世は恨みの籠もった目で雨月を見据えた。
「なぜ私が貴方たちの呪いを解かなければならないの?」
その瞬間、雨月の理性という枷を断ち切った。彼を包む黒い靄が一気に膨れあがり、部屋全体を濃密な闇で満たしていく。
「殺してやる……!」
雨月の瞳は獣のそれへと変貌し、声は憤怒で震えていた。しかし鈴世は眉一つ動かさない。
彼は腕を振りかざしたが、鈴世は一瞬の隙を突いて部屋を飛び出した。
夏目の咆哮と共に、屋敷全体を覆う結界が立ち上がる。絶対に逃がすまいと彼は鈴世の背中を睨みつけた。
月光の下、白い着物の鈴世が庭を駆ける。その背後を漆黒の影が執拗に追いかけていた。満月の夜になると、あやかしの力は最大化される。雨月の放つ狐火は通常の倍の大きさで、青白い炎が闇を切り裂いていた。
鈴世は屋敷に沿うように逃げ続けた。月に照らされる彼女の姿を捉え、次々と狐火を放つ。炎は庭の草木を焼き、建物の柱を焦がし、瞬く間に火の手があがっていく。青白い狐火がつくり出す業火の海が、まるで呪いの具現のように屋敷を包み込んでいった。
人とあやかしの身体能力には圧倒的な差があった。満月の夜になれば、その差は更に広がる。十代の少女である鈴世など、本来ならば一瞬で追いつき、八つ裂きにすることもできたはずだった。しかし追いつきそうになるたびに、鈴世の冷たい声が夜気を切り裂く。
『止まれ』
言葉と共に、雨月の体は一瞬だけ硬直する。だが満月の力を得た今宵、その拘束は一時的なものでしかない。雨月は瞬く間にその力を振り払い、再び追跡を開始する。
逃げ続ける鈴世は不意に顔だけで振り返り、雨月の方を一瞥した。その眼差しには、死を覚悟した者の恐怖や絶望とはどこか違うものが宿っていた。まるで何かを確かめるような冷静な視線。
雨月の心に小さな違和感がよぎったが、怒りに支配された理性の前では霧散してしまう。
二人は再び池の畔へ戻ってきた。狐火は今や青白い炎の帳となって屋敷全体を覆い、すべてを焼き尽くそうとしていた。
池の前には雨月を捜して心配そうにきょろきょろ辺りを見回す夏目の姿があった。雨月は青ざめ何かを叫ぼうとしたが、鈴世の『止まれ』という命令と共にあやかしたちは動けなくなってしまう。彼女は夏目の体を背後から拘束し、短刀を帯から抜いた。その切っ先が細い首筋に突きつけられ、雨月の顔が憤怒で歪んでいく。鈴世は唇を片方だけあげて笑った。
「あやかしは怪我をしてもすぐに治るのでしょう?」
「貴様……っ!」
「いや、嫌だ……!」
夏目は大粒の涙を瞳からぽろぽろとこぼす。その瞬間、あやかしたちの体から巨大な黒い靄が噴き出した。それは黒い雲のようになり、結界の内側を埋め尽くした。呪いの闇は最大まで膨れあがり、禍々しい気配は化け物のように蠢き、月さえも飲み込もうとしていた。
その瞬間、鈴世は夏目から手を離した。凜とした姿で月を仰ぎ、清らかな声で詠唱をはじめる。
「夜の帳に降り立つは 清き鈴の調べ
その音は天より賜いし 神の声なり」
りん、りん──…。
どこからともなく鈴の音が響きはじめた。庭の四隅から、池の底から、月の光から、あらゆる方向から鳴り響く澄んだ調べ。鈴世の詠唱は続く。
「四方より取り巻く蒼き炎よ 穢れを焼き付くさん」
鈴世の声に導かれるように、雨月が放った狐火が一斉に燃え上がっていく。
「闇より湧き上がる万の呪い 払い給え──」
詠唱が高まりを見せた瞬間、すさまじい嵐のような音が耳をつんざき、雨月は目を固く瞑る。青白い炎は鈴の音と共鳴するように輝きを増し、まるで天からの光のように清らかな炎となって黒い靄を吹き飛ばした。靄は炎の光に触れるたび、細かな粒子となって消えていく。
嵐は次第に収まり、風が静まっていく。月光が再び地上を照らしはじめたとき、雨月はそろりと瞼をあげた。嵐の音に驚いたのだろう、池の傍らにはしゃがみ込んだ夏目がいた。そして月の下には──凜として立つ鈴世の姿があった。
かつて黒瀬が遺した呪いに蝕まれていた空間は、月光と鈴の音に満たされ、まるで別世界のような静謐な場所へと変わっていた。それだけではない、あやかしたちを包んでいた靄も綺麗さっぱりなくなっている。常に纏っていた痛みや苦しみがなくなり、まるで生まれ変わったような心地になっていた。
「一体……?」
状況が飲み込めず呆然と呟いた雨月の前で、思いもよらない光景が目の前に広がった。
鈴世が突如として地面に小さな体を折り畳み、額をすりつけるようにして深々と頭を下げたのだ。
「数々のご無礼を申し訳ございません。どうか相応の罰をお与えください」
鈴世の変貌ぶりに言葉が出なくなる。先ほどまでの冷酷な主人の姿は消え、そこにはただ深い懺悔の意を示す一人の少女がいた。
雨月が返す言葉を探していた束の間──鈴世の体が月光を受けてゆらりと傾いた。まるで糸の切れた人形のように、彼女は音もなく地面へと崩れ落ちていった。
*
おぼろげな意識の中、鈴世は目を開いた。視界が定まるとそこには雨月と夏目の姿があった。呪いの痕がない清らかな面持ちで、彼女を見下ろしてる。
その瞬間、鈴世は布団から飛び起き、床の上で綺麗に手を揃え、額を床にこすりつけて己の非を示し許し請う体勢をとった。雨月に経緯を求められ、鈴世は頭を上げて震える声で語りはじめた。
夜の帳に降り立つは 清き鈴の調べ
その音は天より賜いし 神の声なり
四方より取り巻く 蒼き炎よ
穢れを焼き付くさん
闇より湧き上がる万の呪い 払い給え
幼い頃から母に教え込まれた歌と踊り──それは単なる芸事ではなく、あやかしの呪いを解く古の術だった。黒瀬の呪いは強大で、真っ向からの浄化では太刀打ちできない。母の家に伝わる解呪の歌の通りに、すべての準備を整えなければならなかった。
「清き鈴の調べ」を用意するため、鈴世は夜な夜な庭を回り、清らかな鈴の音を四方に仕込んでいった。
「四方より取り巻く蒼き炎」を用意するため、雨月の怒りを意図的に煽り、狐火を鈴世に向かって放つようにした。
そして最後に必要だったのは「闇より湧き上がる万の呪い」
黒瀬の遺した呪いを最大限引き出すため、冷酷な主人を演じ、あやかしたちを故意に虐げた。
「なぜ、俺たちの呪いを……」
雨月が戸惑うように疑問を口にすれば、鈴世は苦しそうに言葉を絞り出した。
「黒瀬操があやかしを憎むようになったのは、私の母が理由でした」
衝撃の事実にあやかしたちは息を呑む。
鈴世の母親は黒瀬操の姪だった。叔父である黒瀬は、歪んだ愛情を母に向けていた。何度も迫り、執着し、母を追い詰めていった。命の危険を感じた母親は父親と共に駆け落ちする。操は怒り狂い、莫大な財産と何年もの歳月をかけ母親を見つけ出し──命を奪った。
「なぜそれが、あやかしを憎む理由に──」
雨月が言葉にしようとしたとき、嗅ぎ慣れぬ匂いが鼻腔を突いた。
今まで鈴世から漂っていた山梔子の香りが消え、彼女本来の匂いが届いていた。目を見開く雨月に、鈴世は胸に手をあてて口を開く。
「私の父親は、あやかしだったのです」
あやかしに母を惑わされたと思い込んだ黒瀬は、酷くあやかしを憎みはじめた。その憎悪は屋敷に住むあやかしに向けられ、呪いという形になって彼らを蝕み続けた。母は「私のせいだ」と鈴世と別れるまで毎晩のように嘆き続けたという。
「母は黒瀬に見つかると勘付いた数日前、遠い親戚に私を預けました」
「待て。確か……お前の母親はあやかしに殺されたと……」
「我が一族は昔、あやかしと共生していたと聞いております。純粋な人の血のみを引く者など今や稀有な存在で、ただ血の濃さが違うだけだと。黒瀬の中にもあやかしの血が少なからず流れていたのでしょう」
鈴世は言葉を紡いでいく。
「おそらく母は幽従の力を使い、黒瀬に残るあやかしの血に呪いをかけたのだと思います。そして逆上した黒瀬に母は惨殺されてしまった……」
重い沈黙が部屋を包んだ。彼女は瞼を伏せる。
「黒瀬の力はあまりにも強大でした。真っ向では太刀打ちなど不可能。私は黒瀬が死ぬ瞬間を待ち続けることしかできませんでした」
橘坂町の屋敷に住み、山の上に建つあやかし屋敷を見上げる日々。黒い靄は日が経つごとに大きくなり、不穏な噂が町中を駆け巡る。母から受け継いだ「幽従の力を抑える数珠」を身につけ、隠れたように生きる日々が続いた。
そして「あやかし屋敷の主人が亡くなった」という話を聞いた日、鈴世は手首の数珠の紐を──短刀で切った。
そこで言葉を切り、鈴世は再び額を床にこすりつけた。
呪いを限界まで引き出すためとはいえ、あやかしたちに暴虐の数々を振るったことに対して謝罪を繰り返した。綺麗に揃えられた細い指はかすかに震えている。
「どうかこの首一つでお許しいただけないでしょうか」
あやかしたちは誰も言葉を発しなかった。痛いくらいの沈黙が部屋にあるだけだ。
沈黙をやぶったのは、夏目の穏やかな声だった。
「ぼく、痛いの治ったよ。ありがとう」
「……」
「髪の毛を引っ張られたのは嫌だったけど……」
しゅんと眉を寄せる夏目。その言葉を聞いて鈴世はばっと顔をあげ、慌てて言葉を続けた。
「も、申し訳ございません。代わりに私の毛根をすべて引き抜いてもらっても構いません」
「ふっ」
鈴世の必死ぶりに笑いを零したのは雨月だった。くつくつと口元を押さえて笑っている。
空気が和らぎ、雨月と夏目は目配せして決意を共有した。雨月は姿勢を正し、頭を下げる。
「こちらこそ数々の無礼を許してくれ」
「しゃ、謝罪するのは私の方で……」
「長年の呪いを解いてくれ、感謝する。そして願わくば……」
顔をあげた雨月の体に、閃光のような痛みが貫いた。
憎み合っていたときには気づけなかったが、鈴世は想像よりも弱々しかった。透き通った頬は血の気が失せ、長い髪は疲れたように肩に垂れている。母の遺志を継ぎ、ただ一人で呪いの解放という重圧を背負ってきた少女の体は、風が吹けば折れてしまいそうなほど華奢だった。冷たく振る舞っていた仮面の下にはひとりぼっちで戦ってきた少女がいたのだと、雨月は胸が苦しくなる。
雨月は顔を伏せ、強い意志を込めて絞り出す。
「どうか、我らの主に」
その言葉に鈴世は目を見開き、一瞬の沈黙のあと、深く頭を下げた。
*
十年後──
かつて屋敷を包んでいた禍々しい靄は消え、桜の花びらが舞い散る庭には、淡い色の提灯が並んでいた。四季折々に開かれる祭りは、今や橘坂町の一大行事となっていた。風に揺れる提灯の列が山道を埋め尽くし、人々は期待に胸を躍らせながら屋敷へと続く道を登る。
屋敷の池の周りには縁取るように蝋燭が並び、蒼い火がゆらゆらと水面に揺れている。雨月の狐火は今では「浄火」と知られ、御守り代わりに求める者が後に絶たない。
庭の片隅では朽ちかけた木の板で作られた屋台があり、人々が我先にと押し寄せていた。そこでは夏目が客を前にして何やら唸っている。
「んんっ……! その日は晴れるみたいだ!」
「そりゃよかった! 娘の結納の日なんだ!」
客の男性は顔をほころばせて、夏目の前に銅貨を置いた。「毎度! 良い日になるといいな!」と夏目は声をあげる。
夏目は三年ほど前、「天気を予知する力」に目覚めた。正確な予報を告げるその力は、着物を乾かす紺屋から市を開く商人まで、あらゆる人に重宝されている。
「また夏目の駄菓子代が増えるな……」
大盛況の夏目の屋台を遠くから眺め、雨月は呆れたように言う。隣にいる鈴世は苦笑しながらも、何か眩しいものを見つめる眼差しで人とあやかしの交流を眺めていた。
「そろそろ行きますね」
鈴世はそう言って微笑み、内縁から庭へと降りた。その瞬間、人々の間から華やかな声があがる。彼女は見物人たちに一礼をし、春の光を受けながら舞いはじめた。
純白の着物は陽光に包まれ、漆黒の髪は風になびく。足首の鈴が清らかな音色を奏ではじめた。
りん、りん──。
桜の木々の下で人々は息を呑んで見つめ続ける。春の陽射しと花吹雪の中、その場にいる誰もが、何か特別なものを目にしているのだと感じていた。
そして雨月もその一人だった。
十年前のあの夜を、彼は今でも鮮明に覚えていた。月光の下で鈴を鳴らし、呪いを解いてくれた少女の姿を。長年の苦しみから解放された時の、あの清らかな光景を。
今、目の前で舞う鈴世はかつての面影を残しながらも、より凜として美しく成長していた。幼さの中にあった迷いは、今や確かな芯の強さに変わっていた。彼女の横顔にはかつての苦悩を乗り越えた気高さが宿っている。
雨月は目を細める。見つめる瞳の奥に、ある感情が深く静かに揺らめいていた。
舞が終わり、再び鈴世が一礼すると、割れんばかりの拍手が屋敷の庭に響いた。汗を滲ませた鈴世の肩に、雨月が羽織をそっとかける。
「綺麗だ」
飾り気のない真っ直ぐな言葉に、鈴世の頬は桜色に染まった。
「あ、ありがとうございます……」
囁くような返事に、雨月もまた赤みを帯びた顔を少し俯かせる。
「あれほど凜として舞っていた巫女様が、可愛らしいわ」「若いっていいわねぇ」と見物人たちは優しく口々に噂する。屋台で二人の姿を見つめていた夏目は、幸せそうに尻尾を振った。琥珀色の瞳には、二人への愛情が満ちている。
「あとで雨月を茶化しに行くか!」
夏目はそう遠くない未来を想像して、にんまりと目を細めた。屋敷の上空には、雲一つない青空が広がっていた。