かれこれ、一時間ほどパソコンの画面と睨めっこをしていた。
 小説投稿サイト『ノベマ!』内にて開催されている『モキュメンタリーホラー小説コンテスト』の応募作品【████商業高等学校について】の執筆に着手してから一週間が経過したのだが――。

 私、雨谷ちひろこと林田(はやしだ)ちひろは、完全に行き詰まっている。

 執筆のお供として淹れたコーヒーだけが進み、肝心な作業は停滞していた。
 無理もない。これ以上の調査は、現実的に不可能なのだから。
 モキュメンタリーの登場人物のように、記者でもなければ、出版編集者でもない。夢を掴み取るためにもがいている、小説家志望の端くれ――ただのフリーターだ。連続不自然死の件について、話を聞かせてくれた人たちがいただけで、もはや奇跡だったのだ。

「ボツかなぁ……」

 はぁ、と深いため息をつき、作品の削除をしようとしたその瞬間、赤いマグカップに湯気が立ったコーヒーが注がれる。
 思わず顔を上げると、何を考えているのかわからない表情の裕大(ゆうだい)が、コーヒーポットを片手に立っていた。

「……あぁっ、ありがとう」

 礼を言うと、言葉にならないような短い返事をして、台所へと戻って行った。
 開いている扉から、リビングの掛け時計に目をやる。時刻は、午後七時を過ぎた頃だった。

 書店チェーンの『光巡堂書店』で、契約社員として働きながら小説家を目指すようになったのは、いまからちょうど一年前のことだった。もともとは、飲食店の準社員として店舗の食品管理を担っていたのだが、業務のストレスにより精神を病み、二年前の夏から冬までの半年間、休職していた。
 その間、幻覚や幻聴に悩まされながらも、家で暇を持て余していた私がハマったのが読書だった。小学生や中学生の頃は、図書室などで本を借りて読書に勤しんでいたが、高校生になってからは図書室に足を踏み入れたことすらなかった。しかし、休職をきっかけに自分探しをする中で、中学生の頃の卒業文集に辿り着いた。将来の夢をテーマに書かれたそれには、稚拙な言葉でこう書かれていた。

 ――小説家になって、たくさんの人を感動させるような話を書きたいです。

 それを目にした瞬間、胸の奥に眠っていた何かが目覚めたような気がした。
 夢は叶えてしまったら夢とは言わないし、そもそも叶うはずもない夢だと思いながら書いた、夢だけが詰まった文章。夢想家の戯言に過ぎないはずなのに、現実から一時離脱したも同然の私には、それが唯一の救いに思えたのだ。
 それからは、少しでも本に触れる機会が増えれば、と新宿に本店を構える光巡堂書店に契約社員として入社し、飲食店の方は退職した。いまは、前職の飲食店で、高校生のときに出会った一歳年上の彼、裕大と大宮で同棲中だ。今年で、交際三年を迎えた。

 裕大は新卒で大手IT企業に入社し、SEとして働いている。現実から目を背け、夢ばかりを追う私にあれこれ言うこともなく静かに見守ってくれているのだが、本心はわからない。帰宅後に執筆に専念する私に代わり、夕飯を作るのはいつも裕大だ。高校時代は家庭科部に所属していたらしく、料理は趣味の一つと言っていたのだが、さすがに毎日作ってもらうのは申し訳なさが勝つ。二人で暮らす上での生計を立てているのは、ほぼ裕大の収入のおかげとも言えるし、家事までやってもらうのは負担をかけすぎているのではないか、とたびたび思うのだ。
 それでも、裕大の優しさに甘えてしまっている自分がいる。正直なところ、今の私は家事どころか、自分が好きで始めたはずの物書きもまともにこなせずにいる。焦燥感ばかりが募っていくだけだ。
 はたして、自分には夢を追い続けることが許されるほどの才能、価値があるのだろうか。
 そんな疑問が脳内に浮かんでは消え、しかし執筆が停滞している状況を突きつけられたしまえば、ふたたび頭を抱える。

「ちーちゃん、出来たよ」

 あれこれ考えているうちに夕飯が出来たようで、扉から裕大の細長い顔が覗いた。

「あっ、うん。ありがとう」

 パソコンを閉じて、作業部屋を出る。
 食卓には、麻婆茄子をメインとした中華料理が並べられていた。