今回の情報を整理する前に【情報整理(2)】で話した、「怪異的な何かが件の連続不自然死に関わっている」という仮説ですが、より信憑性を帯びてきたので、皆さまにもお話したいと思います。
まず【████商業高等学校 沿革】をご参照ください。
████実業補習学校として明治中期に設立された我が母校は、来年で創立一三〇周年を迎えます。――が、開校されてからわずか十年余りで火災により校舎が焼失しています。原因はわかりませんが、これをきっかけに、昭和二十一年(一九四六)までの四十八年間、学校が運営停止状態だったことがわかります。
しかし、沿革を見ていただければわかるとおり、明治四十三年(一九〇八)には校舎が再建されているのです。
では、校舎が再建されてから三十八年もの間、そこはどのような目的で使用されていたのでしょうか?
【絹谷実咲(元国語教師/2019年度退職)へのインタビュー】では、地下二階に大量のベッドが残されていたとの証言がありました。我が母校は、二〇〇〇年に現在の校舎が落成し、地上十階、地下二階建ての、公立高校にしては広い敷地と校舎を持っています。そして、実咲先生が言っていたベッドの存在が事実であれば、あるひとつの可能性が浮かび上がってきます。
████商業高等学校の空白の三十八年は――病院として機能していたのではないでしょうか。
そう考えてみると、わりと腑に落ちるのです。
【當間翔平(2017年度卒業生)へのインタビュー】の前に、當間先輩にはこの話をメールで伝えました。肯定的な反応を示してくれましたが、直接会って話してみると、あまり手ごたえは感じられませんでしたが、新たな情報は得ることができました。連続不自然死の第一被害者ともいえる柘植あかりさんが、自死に至る前、七階で怪奇現象のようなものを体験していたことです。
話を戻します。
旧校舎から新校舎に建て替えられることが決定したとき、当時の教育委員会や校長が、旧校舎の内装に似たような造りにしてほしいと設計士に要望したそうです。そのため、新校舎の内装は、現代寄りにされつつも、設立当初とほぼ変わらないと言えます。
その新校舎ですが、学校というよりかは病院を彷彿させる造りでした。異常に広く設計されている廊下も不思議ですが、特筆すべきは、廊下に手すりが取り付けられていたことです。
そこで、皆さんが通っていた学校を思い返してみてほしいのです。
廊下に取り付けられた手すり――公立高校では、あまり見ない設計ではないでしょうか?
対して、病院や高齢者施設では、患者や高齢者の移動をサポートするため、階段に限らず廊下にも設置されているのが一般的です。こうした設計は、学校というよりも医療や介護施設としての機能を意識して作られたものと考えられます。
さらに、校舎焼失後、数年後に再建されるも、学校としての運営再開がなされなかった理由についても、この仮説で説明がつきます。
当時の時代背景を考慮すると、医療施設としての需要が優先された可能性が極めて高いのです。結核の流行や、戦前から戦後直後ということもあり、医療インフラが不足していた時代です。地域社会のために、政府が学校から病院へと機能転換をしたと考えてもおかしくはないでしょう。地下二階で実咲先生が目にした大量のベッドは、おそらく、病院として機能していたときの残置物でしょう。もっと探してみたら、ベッド以外の何かが出てくるかもしれません。
この仮説をさらに裏付けるには、学校関係者や地元住民への聞き込みが必要になってきます。
しかし、私はただの小説家志望のフリーターです。社交性も、お世辞でもあるとは言えません。
今後の調査については、少し時間を要することになりそうです。