「父上、帰りました」
剣冴は父の居室に入った。
悪鬼との戦いで足を悪くした剣路は寝台で寝ていることが多い。今日は横になっているが起きているようだ。
「ああ、大事ないな」
嗄れた声が返ってくる。
ここで陽射と母が追い付いてきた。
「お義父様、戻りました」
にこっと笑ってみせる陽射に剣路は相好を崩す。
「やあ、陽射ちゃん。昨日振りかい?」
「はい。今朝はよく眠っておいででした」
そうかい、そうかい、と目元を和ませる姿は丸くなった爺だが、ほんの二年程前まで前線に立ち“人鬼の篠ノ雨”と呼ばれていた。
剣路もまた陽射を気に入っていた。鬼の娘なのににこにこ気立てが良く、軍人としてもよく働く。仮にも侯爵令嬢を軍務に着かせることに罪悪感を抱きながら、鬼族が討滅に加わってくれることを嬉しく思っている。
複雑な心境を抱えながら、剣路は何度も感謝の言葉を口にしていた。
あまり負担を掛けたくないので、きりのいいところで和室に移動する。
今日の夕食は鴨鍋だ。陽射は目をきらきらさせ、肉が最後になるように取り分けている。好物は最後まで取っておく質らしい。肉を平らげた後に剣冴に向かって元気に問い掛けてくる。
「篠ノ雨家は締めは饂飩ですか? それとも棊子麺? 雑炊もいいですね!」
「饂飩です。準備させてありますよ」
返すと、陽射は目を瞬かせ、何故か悩み始めた。
「丁寧な言葉遣いもお似合いなんですよね。仕事中は仕事中で荒っぽい言葉遣いが素敵ですが」
「それは俺の理想像の話ですか?」
どちらかと言えば今の方が素ではある。仕事中は自分に発破を掛けるためにああいった振る舞いをしていた。何となく不思議がっている様子はあったが、そんな悩み方をしていたとは。
「理想像だなんてそんな、どっちも素敵で困ってしまうという話です」
「そんなことを言うのは陽射ちゃんくらいよ。今までどこぞのご令嬢と縁談を、となっても荒っぽいところが垣間見えると皆さん波が引くようにすすっと」
軽く言われるが、伯爵である時の自分も軍人である時の自分も間違いなく己だ。それが出て嫌われたのなら縁がなかったのだろう。
「そうなんですね。はっ! これから魅力に目覚めるお嬢さんがいたらどうしましょう」
「僕は陽射さんがいいと思います」
そんなことを話していると鍋の汁で煮られた饂飩が出てくる。
陽射は少し照れながら饂飩を完食した。
夕食が終わると風呂に入り、剣冴の部屋に陽射がやってくる。全面的に自分のせいなのだが婚約者としての交流の時間がなかなか取れない。そこで風呂の後から寝るまでの間に、酒をちびちびちやりながらお互いのことを語り合う時間を設けた。
本日の酒は越後の純米大吟醸淡麗辛口。酒を呑めなくなった父の酒蔵から拝借してきた。和らぎ水もしっかり用意し待っていると陽射がやってくる。風呂上がりの浴衣姿が艶っぽいが、そういう場ではないのでぐっと堪えた。
「お待たせしました」
「いや、今準備が整ったところです。さ、一献」
お猪口に酒を注ぐと陽射は一礼する。
「いただきます」
ぐいっと一口。飲み干して美酒で嘆息する。
剣冴も手酌で一杯。すっきりとした辛口で呑みやすい。
「美味しいですね! 和らぎ水ちゃんと飲まないと」
陽射は酒は好むがあまり強くない。和らぎ水で調整が必要だった。
自分は蟒蛇だから付き合わせたら拙い、ということはこの会を初めてすぐに悟った。
「明日も仕事ですからね」
「はい、弁えます。……とても気に入りましたが」
陽射は仕事を覚えるのが早い。この調子で行けば一人前として稼働するのも遠い日ではない。そうなればこのような時間は減るだろう。今の内に鱈腹呑ませてやりたい気持ちと上官として体調管理に向かう気持ちが正面衝突している。
悶々としていると陽射が、ぽつぽつと語りだす。
「我が鬼族深田家は、二二○○年頃に人間の当主と鬼の姫の婚姻が成ったことで成立しました。それから程よく鬼の血を取り入れながら幕末には鬼族は大きな力を持っていました。御一新の際、逸早く倒幕に加担し最終的に侯爵位を賜りました。父は鬼の血が八分の一入っており、母は純血の鬼です。鬼族と称され一目置かれているような、畏れられているような」
これまでの話を総合すると、陽射は鬼の娘であることや鬼術が使えることから怖がられ女学校には行けなかったそうだ。家庭教師を雇って教育を受けてきたが、家庭教師も大抵おっかなびっくりしていたと言う。
艶やかな黒髪と黒曜の瞳は可憐だし、無闇矢鱈と力を誇示しない人なのに人間は何が恐ろしかったのだろうか。
「篠ノ雨伯爵家は将軍家傍系の譜代大名の家系です。将軍を説得し無血開城へ導いたことを評価され伯爵位を得ました。幕臣だった者たちからは嫌われていますね」
「それはお互い様ということで」
陽射は手酌でお猪口半分くらい酒を酌み、一口。
「私たちって政略ですよね」
「政略ですね。でも上手く行くと思いますよ」
可愛らしくて、仕事が出来て、しっかりしている。何より両親が気に入っている。
政略結婚であるからには、愛の言葉を囁くという頭はすっかりさっぱりなかったのだが。
「そぉです、ね」
ふわふわしてきた陽射に残った水を飲ませ、居室まで送り届けた。
「また明日」
「はぃ、ぉやすみなさ……ぃ」
寝台に倒れ込んだところまで見届け、部屋に戻る。寝台に横になると程よい眠気が襲ってきてすっと眠った。
翌朝。
陽射と共に出勤すると出動命令が下った。
『統合本部から第一実働隊に達する。上総の地にて悪鬼の気配あり。急ぎ向かい討滅せよ』
剣冴は本格的な出動に陽射を連れて行くか迷った。遠征で悪鬼討滅だ。熾烈な戦いになるかもしれない。
迷っている内に陽射は隊員に指示を仰ぎさっさと荷造りしていて、篠ノ雨と深田と前線基地となる上総出張所へ電報を打ちに行ってしまった。
戻ってきた陽射は迷いのない瞳で言う。
「隊長、ご命令を」
一呼吸。
剣冴も腹を決めた。
「深田少尉に命ずる。上総の地にて悪鬼を見つけ次第討滅せよ」
「はっ!」
部下として一寸の迷いなく敬礼した陽射を見て、守ると心に誓う。それが無駄な足掻きだったとしても。
剣冴は父の居室に入った。
悪鬼との戦いで足を悪くした剣路は寝台で寝ていることが多い。今日は横になっているが起きているようだ。
「ああ、大事ないな」
嗄れた声が返ってくる。
ここで陽射と母が追い付いてきた。
「お義父様、戻りました」
にこっと笑ってみせる陽射に剣路は相好を崩す。
「やあ、陽射ちゃん。昨日振りかい?」
「はい。今朝はよく眠っておいででした」
そうかい、そうかい、と目元を和ませる姿は丸くなった爺だが、ほんの二年程前まで前線に立ち“人鬼の篠ノ雨”と呼ばれていた。
剣路もまた陽射を気に入っていた。鬼の娘なのににこにこ気立てが良く、軍人としてもよく働く。仮にも侯爵令嬢を軍務に着かせることに罪悪感を抱きながら、鬼族が討滅に加わってくれることを嬉しく思っている。
複雑な心境を抱えながら、剣路は何度も感謝の言葉を口にしていた。
あまり負担を掛けたくないので、きりのいいところで和室に移動する。
今日の夕食は鴨鍋だ。陽射は目をきらきらさせ、肉が最後になるように取り分けている。好物は最後まで取っておく質らしい。肉を平らげた後に剣冴に向かって元気に問い掛けてくる。
「篠ノ雨家は締めは饂飩ですか? それとも棊子麺? 雑炊もいいですね!」
「饂飩です。準備させてありますよ」
返すと、陽射は目を瞬かせ、何故か悩み始めた。
「丁寧な言葉遣いもお似合いなんですよね。仕事中は仕事中で荒っぽい言葉遣いが素敵ですが」
「それは俺の理想像の話ですか?」
どちらかと言えば今の方が素ではある。仕事中は自分に発破を掛けるためにああいった振る舞いをしていた。何となく不思議がっている様子はあったが、そんな悩み方をしていたとは。
「理想像だなんてそんな、どっちも素敵で困ってしまうという話です」
「そんなことを言うのは陽射ちゃんくらいよ。今までどこぞのご令嬢と縁談を、となっても荒っぽいところが垣間見えると皆さん波が引くようにすすっと」
軽く言われるが、伯爵である時の自分も軍人である時の自分も間違いなく己だ。それが出て嫌われたのなら縁がなかったのだろう。
「そうなんですね。はっ! これから魅力に目覚めるお嬢さんがいたらどうしましょう」
「僕は陽射さんがいいと思います」
そんなことを話していると鍋の汁で煮られた饂飩が出てくる。
陽射は少し照れながら饂飩を完食した。
夕食が終わると風呂に入り、剣冴の部屋に陽射がやってくる。全面的に自分のせいなのだが婚約者としての交流の時間がなかなか取れない。そこで風呂の後から寝るまでの間に、酒をちびちびちやりながらお互いのことを語り合う時間を設けた。
本日の酒は越後の純米大吟醸淡麗辛口。酒を呑めなくなった父の酒蔵から拝借してきた。和らぎ水もしっかり用意し待っていると陽射がやってくる。風呂上がりの浴衣姿が艶っぽいが、そういう場ではないのでぐっと堪えた。
「お待たせしました」
「いや、今準備が整ったところです。さ、一献」
お猪口に酒を注ぐと陽射は一礼する。
「いただきます」
ぐいっと一口。飲み干して美酒で嘆息する。
剣冴も手酌で一杯。すっきりとした辛口で呑みやすい。
「美味しいですね! 和らぎ水ちゃんと飲まないと」
陽射は酒は好むがあまり強くない。和らぎ水で調整が必要だった。
自分は蟒蛇だから付き合わせたら拙い、ということはこの会を初めてすぐに悟った。
「明日も仕事ですからね」
「はい、弁えます。……とても気に入りましたが」
陽射は仕事を覚えるのが早い。この調子で行けば一人前として稼働するのも遠い日ではない。そうなればこのような時間は減るだろう。今の内に鱈腹呑ませてやりたい気持ちと上官として体調管理に向かう気持ちが正面衝突している。
悶々としていると陽射が、ぽつぽつと語りだす。
「我が鬼族深田家は、二二○○年頃に人間の当主と鬼の姫の婚姻が成ったことで成立しました。それから程よく鬼の血を取り入れながら幕末には鬼族は大きな力を持っていました。御一新の際、逸早く倒幕に加担し最終的に侯爵位を賜りました。父は鬼の血が八分の一入っており、母は純血の鬼です。鬼族と称され一目置かれているような、畏れられているような」
これまでの話を総合すると、陽射は鬼の娘であることや鬼術が使えることから怖がられ女学校には行けなかったそうだ。家庭教師を雇って教育を受けてきたが、家庭教師も大抵おっかなびっくりしていたと言う。
艶やかな黒髪と黒曜の瞳は可憐だし、無闇矢鱈と力を誇示しない人なのに人間は何が恐ろしかったのだろうか。
「篠ノ雨伯爵家は将軍家傍系の譜代大名の家系です。将軍を説得し無血開城へ導いたことを評価され伯爵位を得ました。幕臣だった者たちからは嫌われていますね」
「それはお互い様ということで」
陽射は手酌でお猪口半分くらい酒を酌み、一口。
「私たちって政略ですよね」
「政略ですね。でも上手く行くと思いますよ」
可愛らしくて、仕事が出来て、しっかりしている。何より両親が気に入っている。
政略結婚であるからには、愛の言葉を囁くという頭はすっかりさっぱりなかったのだが。
「そぉです、ね」
ふわふわしてきた陽射に残った水を飲ませ、居室まで送り届けた。
「また明日」
「はぃ、ぉやすみなさ……ぃ」
寝台に倒れ込んだところまで見届け、部屋に戻る。寝台に横になると程よい眠気が襲ってきてすっと眠った。
翌朝。
陽射と共に出勤すると出動命令が下った。
『統合本部から第一実働隊に達する。上総の地にて悪鬼の気配あり。急ぎ向かい討滅せよ』
剣冴は本格的な出動に陽射を連れて行くか迷った。遠征で悪鬼討滅だ。熾烈な戦いになるかもしれない。
迷っている内に陽射は隊員に指示を仰ぎさっさと荷造りしていて、篠ノ雨と深田と前線基地となる上総出張所へ電報を打ちに行ってしまった。
戻ってきた陽射は迷いのない瞳で言う。
「隊長、ご命令を」
一呼吸。
剣冴も腹を決めた。
「深田少尉に命ずる。上総の地にて悪鬼を見つけ次第討滅せよ」
「はっ!」
部下として一寸の迷いなく敬礼した陽射を見て、守ると心に誓う。それが無駄な足掻きだったとしても。