桜子に手を差し伸べ、「春まで家に来い」と申し出た男性は、音羽武臣と名乗った。
軍服姿であるから軍人であるということは分かったが、音羽という苗字には聞き覚えがない。
「持っていきたい荷物はないか」
「ございません」
武臣は、ふいっと桜子の背後を見やる。
「飼い犬がいたと聞いたが」
犬を荷物扱い? と思ったが、桜子は淡々と「もう、おりませぬ。お気になさらず」と答える。
琥珀の姿は人に見えるものではない。今は桜子の背後にいるが、普通なら見えていないはずだ。
「そうか。では、行こう」
武臣は、鍵が掛かっていたはずの裏庭の扉を難なく開け、桜子を敷地外へと誘った。
屋敷の裏道に、馬車の荷台のような鉄の乗り物が停まっていたが、馬はいない。
「これは車という。見たことはないか」
四つの大きな車輪が車体の下にあり、車体には丸い操舵輪のようなものが付いている前の席と、二名並んで座れるぐらいの後ろの席がある。前の席には、小柄な軍服姿の男性が座っていた。こちらを見て、軽く手を挙げる。
「くるま……」
「さあ、乗ろう。天井が低いから、頭に気をつけて」
武臣は、桜子が怖がらないように先に奥の席へ乗り込み、車内から手を差し出す。桜子が躊躇いつつも再び武臣の手を掴んで、思い切ってステップに足を掛けると、ぐいっと中へ引っ張られた。
すると、前の席から軽やかで中性的な声がする。
「あー、大佐? 桜子様、お荷物はない感じです?」
「御身ひとつだそうだ」
「へえ?」
「いいから、家までやってくれ、凛丸」
「へえへえ」
後部座席に腰を下ろした桜子は、大佐と聞いて目を丸くした。本堂の当主に収まった政親は、少尉。小隊を率いるくらいの地位である。それから中尉大尉……と数えると、大佐は政親の五階級上ということになる。
桜子が驚いている間に車が動き出した。ブロロロロと大きな音がして、桜子が思わず身構えると、武臣がそっと微笑んで「エンジンといってね。車が動く仕組みで、馬の嘶きのようなものだから、大丈夫だよ」と耳元で言う。
「あの、大佐……殿でいらっしゃいましたか」
武臣との距離が近く、なぜか桜子の頬は熱くなる――初めての経験で戸惑うのを誤魔化すように桜子が問うと、
「ああ。気にせず苗字で呼んでくれたらいい」
武臣が青色眼鏡の向こうで目尻を下げている。
「そういうわけには」
「ん?」
「ですから、きちんと呼ばなければならないのでは」
「俺が良いと言っているのだから、良い」
大きなエンジン音のせいで、会話するのにお互いの耳に口を寄せることになり、桜子は気恥ずかしさのあまりそれ以上口を噤んだ。
やがてキイイと鋭い音がして車の動きが止まると、凛丸が降りて後部座席の扉を開け、キザな仕草で礼をしつつ言った。
「桜子様。階級呼びしない方がいいですよ。軍部と繋がりあるって自慢したいならいいですけど〜」
「あっ、なるほど……」
「自分は凛丸といって、こう見えて大尉です」
先導して歩く背中は、背が高めといっても女性である桜子よりも低く、華奢に見える。黒髪は後ろで団子状に結んであり、女の子、と言われても違和感がないぐらいだ。
「凛丸様。ありがとうございます」
「様だなんてガラじゃないので。りんちゃんって呼んで欲しいです。あと自分、庶民なので敬語いらないです」
「え、と、……りんちゃん?」
「はい!」
案内された目の前に建っているのは、桜子が生まれ育った本堂家と違いレンガ造りの洋館で、そこかしこに大きなガラスの窓があり、カーテンがつけられている。
凛丸は鮮やかな手つきで黒い鉄の門扉を開け、十歩ほど歩き、大きな邸宅の玄関を開ける。
桜子が足を止めて建物に見入っていると、凛丸が腹に手を当て深く頭を下げた。身長差もあるからだが、先ほどから軍帽が邪魔をしてまともに顔を見られていない。政親もそうだったから、もしかすると、軍人はそう簡単に面が割れないようにしているのかもしれない、と桜子は気にしないことにした。
「では桜子様。自分はこれにて」
「えっ!」
「すみませんが、任務が残っていまして。あっ、大佐は怖い顔してますけど、中身は優しいのでご安心を。多分」
「多分⁉︎」
「おい」
「ではっ!」
びゅん、とあっという間に姿が消えたのを見て、桜子は再度驚く。
「はあ。ああ見えて、仕事はできるやつだ。何かあれば、気兼ねなく言えばいい。俺でも凛丸でも」
「音羽様、ありがとうございます」
「いや。さあ、寒いだろう。暖炉の部屋があるから、そこへ行こう」
そう言って、武臣は桜子の腰を脇から支えるようにして館の中へとエスコートをする。どこからか現れた琥珀が、桜子の背後を歩いてついてきた。
大佐ともあろう人間が、使用人もつけず自ら客人を案内するとは、と桜子が心の中で疑問に思っていると
「信用できそうな者が見つかり次第、雇おうと思ってはいるのだが」
察したのか、武臣が苦笑しながら振り向き、玄関を閉める。
「さ、こちらだ」
大きな暖炉の前には、赤いベルベットのカウチソファが置いてあり、部屋に入るや武臣は、そっと桜子の肩で溶けた雪の水滴を払うと、ソファの背もたれにかけてあった毛布を手渡す。
「今から火を入れるが、暖まるまで時間がかかる。これにくるまって待っていてくれ」
武臣が軍帽を取ると、真っ白な髪がはらりと落ちた。白髪と違い銀色の糸のように輝いていて、桜子は返事をするのも忘れ、思わず
「綺麗……」
と呟く。
「ん?」
「あ、いえ。ありがとうございます。あの、なにかお手伝いすることは」
「ない。強いて言えば、風邪を引いてくれるな、かな。女性の看病は、したことがないのでね」
「まあ」
「もう日が暮れる。体が暖まったら、夕食の準備をしよう。簡単なものしかないが」
「……はい」
桜子は、ソファの上で膝を抱えるようにして毛布にくるまった。
(わたくしが、人間扱い、されている……)
自覚した瞬間に涙がじんと浮かび、必死で我慢していたがついに溢れて袖で拭き、ついには大量の鼻水が出てきてすすらずにはおられなくなり――
「泣いているのか。しまった、ええと、何か拭く物はあっただろうか」
あからさまに慌てる武臣の態度がおかしくて、桜子は笑った。
笑えた自分に驚き、笑ったのがいつぶりなのかすら思い出せず、それからはもう何かが決壊したように声を上げて泣く。武臣は桜子の横に腰掛け、ずっと背をさすっていた。パチパチと弾ける暖炉の中の火が、とても暖かかった。
◆
「なぜわたくしを連れ出したのか、知りとうございます」
ひとしきり泣き、簡単な夕食(粥と漬物と、干し魚を焼いたもの)を食べてから、桜子は切り出す。
胃が膨れ、手には白湯の入った湯呑みを持ち、再び暖炉の前の赤いカウチソファに座っていた。芯から温まるという経験は、桜子の記憶をどれだけ遡っても、ない。だからか、警戒心がどんどん解けていくようで、それが少し怖くもある。
桜子の斜め前、一人掛けの椅子に深く腰掛けている武臣は、手にティーカップを持っていた。
「桜子殿であれば、わかると思うから言うが……本堂政親が秘密裏に行ったことが、軍の内部で問題になっている」
「もしかして音羽様は、その調査を?」
「ああ」
桜子は、ついにその日が来たかと思った。非道は明るみに出て裁かれるべきだと、当たり前に思っているからだ。
「わたくしは、いかような罰も」
「ふ。はるか昔であれば、呪いを行ったその事実だけで断罪されよう。だが今は違う。どんどん技術革新を起こしていかねばならぬ時に、前時代的な力を厭う派閥がある。俺はそんな中央の意図を汲んでこの件を始末せねばならない。だからまず桜子殿の保護をさせてもらった。事前調査でかなり虐げられていたことは分かっていたからな」
そういって自嘲的な笑みを浮かべる武臣に、桜子は
「でも、音羽様には何らかの異能が……あ」
と口を滑らせた。
「はは。バレていたか」
「はい。琥珀のこと、見えてらっしゃいますよね」
足を組んでいた武臣が、するりと足をほどいて前のめりになり、青色眼鏡を外して桜子をじっと見据えた。
「その、目……」
現れた武臣の両目の虹彩は、ほぼ白色である。眼球部分と同化していて、目線が合っているか定かではない。
「俺も、黄泉帰りだ」
「え!」
「俺には白鬼という通り名がついているんだが、その名の通り鬼が宿っている。黄泉で両目を喰わせたら俺のことを気に入ってな。それで共に現世に戻ってきた」
あっけらかんというが、恐ろしいことではないのかと桜子は身構える。すると――
『大丈夫だ、桜子。鬼は確かに残忍だが、見たところ盟約があるようだ。盟約の鬼は、心配ない』
琥珀がはっきりと言葉を発した。
武臣はすかさず椅子から降りて床に跪き、琥珀に対して敬意を表する。
「不躾ながら、なんらかの神であるとお見受けいたした」
『黒雷である』
「なんと……黄泉の女神の腹にいたとされる」
『よく知っているな。だが今は、琥珀でいい。ただの、桜子の飼い犬だ……白鬼を手懐けるとはやりよる』
「幸運でした」
『犬でよいと言うた。さて桜子。この者は信に値する。ここは良い場所だ。感謝を言いたくて出てきた』
琥珀が、跪く武臣の頬に自身の頬をすり寄せた。親愛の情を表す仕草に、桜子はようやく全身から力を抜く。
『白鬼。桜子を頼むぞ』
「御意」
「わたくしは……ここに、居てよいのですね」
『安心するがいい』
「琥珀殿のことなら、信用できるだろう?」
まっすぐに桜子を見つめる琥珀色の瞳と、白色の瞳に、素直に頷くことができた。
「っはい」
桜子の本心からの返事を聞き満足した武臣は、盛大に眉尻を下げながら青色眼鏡を掛け直し立ち上がる。
「さ、風呂を沸かそう。温まってからゆっくり眠るがいい」
――こうして、桜子が長年夢に見ていた平穏な暮らしが始まった。
◆
ある朝のこと。武臣は、いつものように車で街を巡回していた。
「少尉がこそこそ嗅ぎ回ってますねえ」
「分かっている」
「鬼さんの堪忍袋、切れかけてるでしょ? そろそろ動きますか?」
軍の上層部からすらも恐れられている武臣をからかう凛丸は、諜報部から引き抜いた精鋭だ。特技は小柄な体と童顔を生かした女装で、様々な場所に侵入しては、情報を持ち帰っている。今は芸妓として、桜子を襲った中尉をたらし込んでいるところだ。
音羽大佐は、軍総司令部にデスクを持たない。常に銀色の車に乗っており、運転は凛丸にしか任せない。『椅子無し』と揶揄する者もいるが、移動の効率が良いばかりか会話が漏れる心配もなく、武臣は逆に気軽だと受け入れていた。
監察官であるから、内部の人間との接触は最小限にする必要がある――というのは建前で、武臣は軍の威の下で横暴な振る舞いをする士官連中を、唾棄するほど嫌っていた。
自分が清廉潔白であるなどと言うつもりはない。白鬼に血を与えるのも盟約の一つで、残忍なことは数えきれないほどしてきた。
「たるんだ腹ごとかっきってやりたいが、まだだ」
「どうせ中から豚しか出てこないすよ。あ、豚汁食いたいすね」
暴力と権力で弱者からすらも利益を貪り尽くす連中を、全員粛清したいというのが、武臣の目標だ。
「はあ。家で食うか。桜子殿が何か作ってくれるだろう」
「やったー! ってまだ女中とか雇わないのですか」
「なかなかな……」
警戒心の強い桜子は、家に武臣以外の他人を入れたがらない。
本堂家での長年の扱いを思えば納得ができる。使用人たちにすら虐げられてきた心の傷は、そう簡単に癒えるものではないだろう。広い洋館を維持するのは大変だろうと思ったが、一日中仕事がある方が良いと言われては、もう何も言えない。
「んじゃ、俺が女中やりましょか」
「ばか言うな」
「護衛もいるでしょーに」
「……負担だろ」
事実、武臣の家だからと周囲を嗅ぎ回る人間たちもいる。
「いやそれがねー、『おりんちゃん』目当ての変な男どもが襲ってきてめんど」
武臣は、全て聞く前に頭を抱えた。
「おまえ、なにやったんだ」
「いやん。あたし男心わかっちゃうから。つい、やりすぎちゃうの」
「……」
「うひひひ」
「はあ。考えておく」
「ですね。それより縁談どうするんです?」
「頭が痛いことばかりだ」
大佐ともなれば、華族の未婚の娘との縁談が持ちあがる。当然、武臣のもとにも何件も舞い込んでいた。
先ほどまで軽口を叩いていた凛丸が、俄かに真剣な口調で言う。
「桜子様、受けてくれたらいいですね。じゃないともう、守れないでしょ」
武臣の手の中には、婚姻届が握られていた。
「ああ……」
◆
朝に出かけた武臣が、昼ごろ部下の凛丸を伴って帰宅し、食事を用意してくれというので、桜子は素直に用意をし始める。
洋館であるから、テーブルに椅子というダイニングであるものの、桜子が用意したのは内装に似合わずご飯と味噌汁、漬物に焼き魚と卵焼きという質素な膳だ。それでもふたりは美味しいと言って、あっという間にたいらげた。
桜子が食後のお茶を湯呑みに注いでいると、武臣がいかにも大したことはないという口調でテーブルの上に婚姻届を広げ、口火をきった。
「……契約結婚、ですか」
「いきなりすまない。春までという約束はもちろん守って良い」
「理由をお聞かせ願えますか」
聞けば、武臣は素直に答えてくれる――いつもはそうだが、今回は言い渋っている。代わりに凛丸がずずずと熱いお茶をすすりながら口を開いた。
「危ないからです」
「危ない?」
「本堂家は全ての罪を桜子様に着せる算段にて。その前に音羽大佐の妻となれば、堂々守ることができます」
「っですが」
桜子が驚いて武臣を見やると、苦笑している。
「凛丸はそう言うがな。実は俺個人からの依頼でもある。このような見た目で、異能もあるだろう。かといって大佐ともなると未婚は外聞が悪いと言われていてな。縁談を断るのにも苦労している。書類上だけで良いから、助けてくれないか」
押し黙る桜子を、武臣は優しい眼差しで見つめている。
「もちろん、断ったとてこの家にはいて良」
「お受けいたします」
言い切る前に桜子が返事をしたので、武臣は驚きで目を瞬かせた。
「……良いのか」
「はい。行く当てのないわたくしを置いていただいているご恩、この身でお返しできるのであれば」
「そう気負わずとも良い。俺が勝手にやっていることだ」
桜子は、誰かに必要とされたことがない。利用されたのは、琥珀の力だ。
自分自身を求められる喜びを、どう表現すれば良いのか、わからない。
「んじゃもう、書いて出しちゃいましょう。ね。桜子様成人されてますから、本家のご同意要りませんし」
からりとした口調で凛丸が立ち上がると、桜子の目の前に婚姻届を滑らせ、慣れた手つきで携帯インクとペンを用意する。
その横で、いつの間にか姿を現した琥珀がテーブルの上に前足を二本置き、すんすんと紙や筆記用具の匂いを嗅いでいる。凛丸が「なにもないですよ、琥珀さんー!」と苦笑していた。
「本家の同意は、いらない?」
「おっほん。はい、そうです。王権廃止されて、帝國軍規律が有効になってますんで。ぶっちゃけ伯爵より大佐の方が強い権限をお持ちです。財力では負けるかもですけどねえ」
「おい、凛丸」
武臣は余計なことを言うなと咎める口調だが、桜子にはかえってありがたかった。
「りんちゃん、ありがとう。安心しました」
「でっしょー。ほらね大佐、桜子様はお優しいから、大佐に不利なことが起きないか心配されるわけです」
「……そ、そうか。まあ、うん。そういうわけだ。心配はいらない」
「はい」
桜子は、するすると署名をした。
「それでは、よろしくお願いいたします」
「ん、うん」
書いた内容を桜子の背後に立って覗き込むように確認した凛丸が、
「今日は十二月二十日。……結婚記念日、ですね?」
とからかったので、桜子は改めて今が年末だということを知った。結婚記念日、という単語は全く頭に入ってこない。
武臣も、結婚するとは思えないほど冷たい顔で、
「凛丸。これはあくまでも書類上のことだ。さあ、午後の任務に行くぞ」
と書類を持ち軍帽を被り直した。
「へーい」
「いってらっしゃいませ」
――そうして桜子は年末年始を平穏に過ごし、騒動が起きたのは仕事始めのパーティに出席した時だった。
◆
新たな年明け、帝國軍の門出を祝うパーティは、体裁のため夫婦で出席することになっていた。
会場は、帝都中央に建てられた帝國軍総司令部にほど近い、かつて王族が愛用していた迎賓館が使われた。
男たちが歓談のため離れたのを見計らい、派手な赤いドレスを身に纏った千代子が、桜子のところへずかずかと近寄ってくる。そしてモダンなダンスホールの喧騒の中、金切り声を上げた。
「大佐と結婚しただなんて、うそでしょう!」
深い襟ぐりの首元にはギラギラ輝く宝石の連なったネックレスをしていて、指にも重そうなダイヤが乗っている。本堂家はそんなに財力があるのかと思うと同時に、下品な印象は否めない。
一方で桜子は、武臣が懇意にしている西都の織物問屋が「武臣様のため、今か今かと作って待っていた!」という黒留袖を身につけており、音羽家の五つ紋入りで桔梗と鳳凰の染め抜きだ。常に武臣の一歩後ろを歩く控えめな姿は、軍の上層部の覚え良く、武臣も先ほど「よく振る舞ってくれて、助かる」と耳打ちしたばかりだ。
千代子の派手さは、若く礼儀を知らない軍人には評判が良かったが、「華族の華とはああいうものか」と揶揄され、本堂家当主として出席した政親の居心地を悪くしていた。
それなのに形式ばった挨拶どころか、本堂家の本妻として振る舞うことすらもしない幼い行動に、桜子は思わず眉根を寄せる。
はじめは無視しようと思っていたが、千代子の発言に違和感を持ったのもあって、渋々口を開いた。
「本堂千代子様。明けましておめでとうございます。本堂の皆様におかれましては、今後益々のご発展をご祈念いたしております」
「白々しい。答えなさいよ!」
「……先読みの異能があるならば、嘘か真かはわかるでしょう」
「っ」
たちまち千代子の真っ赤な紅をひいた唇が、歪められた。まさか桜子に口答えされるなど思ってもみなかったのだろう。わなわなと震えている。
「大佐と結婚するだなんて。しかも伯爵というじゃない」
音羽家は、西都ではるか昔から続く由緒正しい伯爵家であり、王族の覚えが良い西の華族は、未だ帝都(旧東都)より格上という意識が強い。
「……ご縁をありがたく思っております」
本来なら桜子の家格が上であるが、千代子の脳内の桜子は『自分より格下』がこびりついていて、切り替えられないのだろう。
「死に戻りのくせに! どんな手を使ったのか知らないけど、相応しくない! あたしに、譲りなさいよっ」
千代子はまだ成人ではなく、親の監督下で婚姻をしただけだ。
けれども、本堂の本妻という重責を担っているのは、未成年でも変わらない。
にもかかわらず、目先の利益を我が物にしようと癇癪を起こす様は、まるで変わっていないのだな、と桜子は冷えた頭の片隅で考えていた。
「我が妻に、何か?」
どこかで見守っていたであろう武臣が近づくと、さすがの千代子も怯んだ。だがすぐに、パッと媚びた笑みを浮かべて、武臣の手首に触れる。
許可もなく人の体に触れるなど、下品極まりない。桜子が眉根を寄せると、青色眼鏡の向こうで武臣が微笑んだ。
「妻以外の女性に触れられるのは勘弁願おう。私は桜子一筋なのでね」
「なっ」
激昂した千代子より桜子の方が、頬が赤い。
「それより、ご主人が探しているようだが」
武臣が顎で差す先に、険しい表情の政親が立っている。今日は伯爵として紋付袴姿だが、着慣れていないせいかあまり似合っていない。隣に赤いドレスが立っても、まったく調和が取れていない。夫婦のチグハグさが際立ってしまっている。
「ふ、ふんっ」
挨拶もせず踵を返した千代子に、さすがの武臣も深い溜息を吐いたのを見て、桜子は申し訳ない気持ちになった。
「妹が、ごめんなさい」
武臣は、なんでもないというように首を横に振ってから、エスコートのために肘を出した。桜子は、何も言わずに手を添える。
「挨拶は終わった。疲れたし帰ろうか。家でのんびりしたい」
「ふふ。はい」
桜子は、武臣のその言葉に素直に頷いた自分に驚く。桜子もまた、あの家がくつろげる場所になっていたのだと気づいたからだ。
「手土産に、餅をもらった。つきたてだそうだ」
いたずらっぽく何かの袋を持ち上げてみせる武臣の顔もまた、愛おしく感じ、頬の赤みがなかなか引かない。
「帰ったら、早速食べましょうか」
「うん、食べよう」
「餡子がいいかしら。きなこ?」
「両方」
「まあ! ふふふ」
仲睦まじく場を辞していくふたりを見守っていた軍人たちが、後から噂するには――
「白鬼の妻はお淑やかで綺麗だったぞ。白鬼も夢中の様子だった」
「うむうむ。品があったよなあ」
「それにひきかえ、本堂は下品だったな。さすがヒガシの」
「姉妹なら素養の問題か。まあ、少尉が後釜だしな」
妻の品格は、夫のでもある。武臣の評判が上がったのは、言うまでもない。
後日、桜子が武臣とともに朝食を食べていると、きちんと礼がしたいと武臣が言い出した。お陰で、軍の中で動きやすくなった、と。
桜子はしばらく考えた後で、なぜか真っ赤な顔で下を向いたまま、
「なら……お花見が、しとうございます」
とか細い声で答えた。
「花見? ……!」
武臣は、それが「春になってもここに居たい」という意味だとすぐに分かったが、あえて何も言わず、手を伸ばして桜子の手を握る。
「それはとても楽しみだ。どこに行こうか、桜子」
「せっかくなら、遠出したいです。……武臣様」
「ああ。ああ。どこへでも連れて行こう」
ふたりのこれからにはきっと、まだまだ試練が訪れるだろう。だが、この温かい手があればきっと乗り越えられるという確信が、桜子の心に芽生えた。
すると、突如として桜子の脳裏に、鮮やかな光景が浮かび上がった。
――麗らかな陽気の、青空の下。さらさらと降る桃色の花びらの間で、着流し姿の武臣が微笑んで立っているのが見える。
少し離れた芝生で、琥珀と凛丸が楽しそうに走り回っているのを見て、桜子は笑いながら武臣に駆け寄った。
『武臣様。あちらでお団子が売っていましたのよ!』
『そうか。桜子は、花より団子か』
『あら。あなたは?』
『俺は、こちらの花の方がいいな』
青色眼鏡の向こうで優しい目をした武臣が、桜子の額に軽くキスを落とす――
「ああ、ああ、なんという……!」
「どうした、桜子」
宙を見つめたままいきなり泣き始めた桜子を心配した武臣が、椅子を跳ね上げるように立ち上がって近づくと、桜子も立ち上がり、武臣の腕の中に飛び込んだ。
「武臣様っ……わたくし、未来が見えて……幸せで……」
桜子をしっかりと受け止めた武臣は、瞠目する。
「そうか、『先読み』が顕現したのか……!」
「はい……とても温かい未来……貴方様と、笑ってて……うう、わたくし、本当に、よみがえって、良かった……!」
「桜子……俺もだ。俺もだよ……」
桜子の涙が枯れるまで、ふたりはずっとずっと、抱き合い続けた――