穏やかな春の夕べ、華沙は涼子に琵琶を聴かせていた。
 夜着姿の二人の間には、寝所の中で寄り添いながらも、秘めやかな空気はない。華沙が弦を弾きながら涼子を見下ろすと、彼女は体を丸めて寝そべりながら歌を口ずさんでいた。
 涼子は、今日はずいぶんと顔色がいい。夕餉もよく食べていたし、日中も起き上がって礼子と菓子を楽しんでいたと聞いている。
 手を止めた華沙に、涼子が袖を引いてねだる。
「兄上、もっと弾いてください」
 華沙はうなずいて、また琵琶を奏で始めた。
「ならば、懐かしい恋唄を」
 華沙は不遇だった幼少の頃、後宮に出入りしていた楽師に習って琵琶を覚えた。他に与えられた学もなかったので、真剣に学んだ。皇子でなければ今すぐ弟子に欲しいのですがと、楽師は繰り返しこぼしていた。
 一方で涼子は先々帝の血を引く複雑な立場の姫だった。帝と妃の夫婦仲は冷え切っていたが、美しく危うい涼子を、華沙の父帝は常に側に置きたがった。
 華沙の父帝は後宮に来るたび涼子を呼び、膝に乗せて遊ばせていたが、いささか涼子に固執しすぎているように見えた。他の姉妹姫は笑い声もうるさいと遠ざけていたのに、涼子が泣くと可愛い子だと相好を崩した。
 それが父の愛でないと気づいてしまったのは、華沙が十歳のときだった。
 その頃先帝は飽食がたたってひどく太り、歩くにも侍従の助けが必要だった。それでも帝に召される少女たちも、彼女らから生まれる弟妹も増えていた。
 あるとき兄皇子にそそのかされて、帝の寝所を覗き見た。そこで華沙は世にもおぞましい光景を目にすることになった。
 自分の子どもほどの、まだ恋も知らないような年頃の少女たちを、獣のようにむさぼっていた老帝。
 帝は冷ややかに言った。お前たちは一人産めばよい。そうしたら余所に売ってやろう。あれが子を産めるようになれば用済みだ。
 華沙はあることに気づいて、体が震えだしていた。
 彼女たちは誰も彼も、涼子に似ていた。よくよく思い返せば後宮に召される少女たちの多くが、涼子に通じる面立ちをしていた。
 ふいに帝は少女たちから目を離して笑む。
 やはりあれが一番だな。獣のように首輪をつけて裸で飼ってやろう。動物のように毎年産ませてやろう。
 涼子、早く女になれ。帝の言葉に、華沙はもう嘔気が耐えられなかった。
 寝所から逃げ出し、庭でうずくまって吐いた。目の前が点滅し、世界の何もかもが醜く見えた。
 そのとき華沙をみつけ、隣に座った涼子だけが綺麗な存在だった。
――兄上、どうしたの?
 汚れた華沙の口元を手で拭って、あどけなく首を傾げてのぞきこんだ顔。ほとんど弟妹にも忘れられている自分を、いつも兄上、兄上と呼んで追いかけた無邪気な妹。
 このときまで、華沙は皇子としての自分などどうでもよかった。そのうち後宮を抜け出して、楽師か、いよいよとなれば夜盗にでもなろうと思っていた。それくらいしか自分に生きる手立てはなかったし、そうして生きていくのに不満もなかった。
 でもそれでは駄目だ。それでは、涼子はいずれ寝所の少女たちと同じことをさせられる。
 この綺麗な生き物を傷つけるくらいなら……あのおぞましい老人を消すくらい、たやすいことだろう?
 瞬間、華沙の目の前は晴れ渡り、後には清々しいくらいにまっすぐな道が広がっていた。彼は笑ってうなずいた。
――今、約束する。すず、何もかもからお前を守る。
 その夜、華沙が初めて学んだ生きるすべは、大事なもの以外を目の前から消していく方法だった。
 一つ一つ、華沙は選び、それ以外を消していった。乳母のつてを使って東の国に留学して学を得て、帰国してからは淡々と政変の準備を整えた。先帝を暗殺したときさえ、次に暗殺すべき兄皇子の顔を思い浮かべていて、何の感慨もなかった。
 恋唄を終えて涼子をみつめている華沙に、現在の涼子が問いかける。
「兄上、どうされたのですか?」
 華沙は目を細めてほほえむと、涼子の頬に手を触れて言う。
「そなたのことを考えていた」
 冗談だと思ったらしく、涼子は楽しそうに笑う。
「そろそろ手が疲れたのでしょう? 素直にそうおっしゃってください」
 華沙は琵琶を置きながら苦笑する。
 帝の地位に憧れも執着もなかったが、機嫌よく寝そべる涼子を間近で見ていられるのだから、案外悪くなかったと思う。
 華沙も涼子の傍らに体を横たえて、頬杖をつきながら彼女を見下ろす。
「菓子は美味しかったか」
「はい。東の国の貴族が召し上がるのだそうですね。初めて食べました。兄上は召し上がりましたか?」
「私はまだ。そなたがそう言うなら、私も口にしてみよう」
「はい! 義姉上に聞いたのですが、東の国では……」
 涼子は目を輝かせて話す。久しぶりにこぼれる笑い声に、華沙は安堵する。
 子どもの頃はよく、涼子と二人で寝そべって他愛ない話をしていた。涼子が元気よく話しているのを聞いていると、これで十分ではないかと内心ため息をつく。
 華沙の中には兄以外に男が同居しているために、涼子に触れ、その体温を感じることを求めてきた。華沙にとって涼子に触れたいと望むのは禁忌ではなく、ただの愛だった。
 だが華沙は気づいてしまった。涼子が自分に見ているものは違うのだ。涼子は自分に体温を求めてはいない。たとえば琵琶の音色、甘い菓子。男ではなく、兄。
 涼子の垣間見えた心は、華沙にとっては切ない心持ちもする。けれど、それはいろんなものをはかりにかけていっても最後に残る、涼子という存在の中心なのだった。
 華沙の中の男の部分が、今もうずきを訴えてくる。この存在に触れたい。できるならもっと深いところで溶けあっていたいと願ってしまう。
 こうして穏やかに寄り添う時間が愛しいのに、愚かな自分がそれを壊そうとする。そうなる前に、兄として華沙は涼子を安全なところに送り届けなければいけなかった。
「すず」
 心地よく眠りに誘われている涼子に、華沙は問いかける。
「比良の君に嫁ぐ気はないか?」
 その言葉を聞いたときの涼子は、少し不思議な反応を示した。
 目を見開いて、華沙を見上げる。喜ぶのとも、嫌がるのとも違う。
 涼子は来るべきときが来たというように、素直にうなずいた。
「……わかりました」
 華沙は迷って、慎重に言葉をかける。
「無理強いするつもりはない。別の相手でもよいし、そなたが嫁ぐのを望まぬならずっと後宮にいても構わない」
 涼子は首を横に振って、決められたことを受け入れるように告げた。
「比良の君に嫁ぎます」
「良いのか?」
 華沙はまた少し、視界が悪くなった気がした。やっと丘の上に立ったのに、涼子の前に几帳が置かれて輪郭が薄くなったような思いがした。
 涼子はほほえんで、華沙の手を頬に当てた。
「嬉しいです」
 その言葉に反して涼子の横顔は、寂しそうに見えた。
 ほほえみながら頬に涙をこぼして、涼子は眠りに落ちていった。