早朝、涼子はゆっくり寝かせておくようにと言伝て、華沙が寝所から去っていった。
 それからまもなくして女官がそっと入って来て、涼子の枕元に何かを並べていった。
 涼子が少し顔を横に向けたなら、そこに真新しい被衣(かぶりぎぬ)(くつ)をみつけただろう。華沙がこれらを涼子に贈るときは、庭に出ていいという許しの意味を持つ。いつもなら涼子ははしゃいで、朝餉も手につかないほどだった。
 けれど昼近くになっても、涼子は身を起こす気配がない。女官たちは不安になり、断りを入れて帳の中に踏み込む。
「姫宮……!」
 そこで血を吐いて意識をなくしている涼子をみつけて、女官たちは真っ青になった。
 すぐさま医師が呼ばれ、同時に後宮中に厳戒態勢が敷かれた。
 昨夜は女官も人払いされていて、帝以外何者も寝所に立ち入っていなかった。何度も自分を傷つけた涼子からは、神経質なほど危険な物を遠ざけられていた。
 涼子が毒を盛られた五年前のことが皆の頭をよぎった。誰もが、自らに帝の怒りが降りかからないことを祈った。
 知らせを受けて、華沙は半刻もしない内にやって来た。
「すずは……!」
 そのときには涼子の意識は戻っていた。目を開いている涼子を見て、華沙は一瞬だけ安堵の表情を見せる。
 けれど次の瞬間、彼も異変に気付いた。
 こん、と涼子は小さな咳をする。口の端に殴られたように赤黒い血がにじむ。
 それなのに、涼子は無表情だった。ひどく痛むはずなのに顔をしかめることもせず、目には感情の色もなく。
 華沙は涼子の頬に触れて顔をのぞきこむ。
「すず……! どうした、どこが痛い? 教えてくれ」
 涼子は何も答えず、代わりに医師が口を挟んだ。
「姫宮は咳のたびに血を吐いてしまわれるのです」
 異変は吐血より、それを表情の色なく繰り返す涼子だった。
 華沙のみつめる先で、涼子の目からはとめどなく涙が流れる。
 言葉をなくしている華沙に、医師が言いにくそうに告げる。
「お心も痛んでおられると……」
 華沙はかき抱くように涼子を引き寄せて、その背をさすった。
 その日から、涼子は言葉を口にしなくなった。言葉の代わりに、血混じりの咳と涙がこぼれていく。
 華沙は一日の多くの時間を涼子のところで過ごして、繰り返し問いかけた。
「すず、礼子は後宮に帰した。望むなら引き合わせる」
 涼子が壊れたように泣くので、華沙は中宮も呼び戻してみせた。
「それとも私の行為が怖かったか。許せ、そなたを傷つけるつもりはなかった」
 華沙は原因を探ろうとしたが、言葉を話さない涼子からは何の答えも引き出すことはできなかった。
「望みを口にしてくれ。叶えてみせる。私はそなたの兄で、帝だ」
 身の内も弱っているからか、口元に涼子の好物をあてがって飲み込ませても、痩せていく一方だった。ひどい熱が出ては、今夜を越えられるかどうかという危うい日が続いた。
 少しだけ安定している日は、華沙が抱き上げて涼子に庭を見せた。
 華沙は涼子の顔をのぞきこんで問う。
「もう少し暖かくなったら、敷物と果物を用意して花見の宴を開こう。何の花が良い?」
 涼子は答えず、周囲には華沙の独り言のように聞こえた。
 涼子は元々病弱さゆえに心も弱ることが多かったが、今度は医師たちも手の打ちようがないほど心を閉ざしてしまった。
 華沙だけは涼子の回復を疑わず、出来る限りの時間を取って涼子に話しかけ続けた。
 涼子の言葉がなくとも、聞こえているのを信じて言葉をかけて労わる。
「暖かくしなければな。さあ、ゆっくりお休み」
 女御をお側に召させて主上の心をお慰めしようと提案する臣下もいた。華沙はそんな臣下たちの言葉を一蹴して、反応のない涼子の体を夜ごとさすって共に眠った。
 ある吹雪の夜のことだった。
 高熱が下がらない涼子を、華沙は寝所の傍らで食い入るようにみつめていた。
 女官たちは畏れながら華沙をいさめようとした。
「お休みください、主上。私どもが寝ずにお守りしております」
 けれど誰が声をかけても、華沙は夜が深くなる頃もそこから立たずにいた。
 華沙には戸を叩く風の音が涼子の細い呼吸をかき消すように聞こえていて、動けなかった。
 涼子の額は火が付いたように熱いのに、手足は冷え切っていた。医師に血がうまく巡っていないと言われて、華沙は侍従がするように涼子の手足をもむ。
 今夜が峠だという言葉は何度も聞いていた。だが華沙は、今夜こそがそれのような気がしてならなかった。
 女官も侍従も恐れてほとんど華沙に近づけなかった。政務を執るときは人とは思えないほど冷静な帝が、涼子に関してだけは狂人のようになるのを知っていた。
 一つだけのろうそくの中、閉ざされた暗闇の世界で、華沙は静かに告げる。
「すず。離れることは許さぬ」
 涼子の手足をさすりながら華沙は低く言い放つ。
「……そちらに行くとしたら、私も連れてゆけ」
 誰も立ち入れないはずの寝所。涼子の向こう側に、一人の公達が立っていた。
 黒髪で縁取られた輪郭はほとんど闇に溶けている。灰色の瞳は涼子にほほえみかけて、細工物のような口元は今にも言葉をこぼしそうだった。
 華沙は自分に生き写しの公達を、視線だけで人を殺めるような目でにらんだ。
「それを殺めて、私だけがまたそなたの兄となろう」
 静寂と殺意が入り混じる世界は、古い伝説で死者がたどり着く底の国のように見えた。
「私とて、貴様と同じ世界から生まれたのだ。すずと共にいられるなら、またその住民になっても構わない」
 華沙が公達からの答えを待っていると、小さな声が彼の耳に届いた。
「すず?」
 華沙ははっとして涼子を覗き込むと、もう一度とこいねがうようにして問う。
 華沙が待ち望んだ声を放ったのは確かに涼子だった。涼子は吹雪にかき消されてしまいそうな声で告げる。
「あにうえ……」
 今にも途切れそうな呼吸を繰り返しながら、涼子が呼んでいる。
 兄上、兄上。何かを探すように、敷布の上で痩せた指が動く。
 自分を探しているのだ。華沙がそう思ったとき、彼の体内で小さな光がひらめいた。
 瞬間、華沙は今まで立ったことがない丘に立っているような、そんな心地がした。
 そこはすべてが見えるわけではない。だが、少しだけ地平が開けている。
 何度体に触れようとしてもつかめなかった涼子の心が、じわりとした実感となって迫ってきた。
 華沙は大きく息をついてつぶやく。
「……そうであった」
 華沙は涼子の額に自らの額を当てて、哀しい思いで彼女の頬に口づけを落とす。
「私は、そなたの兄であったな……」
 戸を叩く風の音は、まだ少しも弱まる気配はない。
 その夜、華沙は涼子の手足をさすり、今まで考えることがなかったことに初めて思いを馳せた。