涼子の遠い意識の向こうで、華沙の声が聞こえていた。
 血が止まらぬ。誰か、すずの血を止めるのだ。何をしてもよい。何人血を流させてもいい。
 止めるのだ。止めよ。
 悲鳴のような華沙の声に、それに似ていながら静かな声音が重なる。
「おいで」
 月の庭を背後に、手を差し伸べたのは濡れたような黒髪の公達だった。氷の粒が月の光をまとい、花のように舞う。
 周囲にはこの世を去った人々の姿も見える。華沙に処刑された兄皇子たちが、どこかで奏でられる琵琶の音に乗って、滅びた王朝の踊りに興じていた。
 涼子と黒髪の公達もまた、手を取って踊る。時々微笑みあって、そのまま眠りに落ちそうだった。
 目の前の彼こそが、涼子の知っている華沙だった。手をつないで、他愛ない話をして、時々一緒に眠る。そういう兄上が大好きだったのだから。
 けれど遠いところから呼ぶ華沙のもう一つの声も、涼子の知る兄だった。切ないくらいに涼子を欲していた。その声を聞くと胸が締めつけられて、目の前の華沙の姿まで見えなくなってしまうようだった。
 ふいに涼子は足を止めて首を横に振る。
「わからない……!」
 涼子は涙をあふれさせて叫ぶ。
「兄上! 兄上! どちらが兄上なの?」
 公達は涼子をみつめたまま動かない。肯定も否定もすることなく。
 涼子は目の前の彼に問うというより、ずっと自分を包んできた運命のような大きなものに訊ねる。
「わからないの。兄上はどうして私に触れたの? ……どうして私を抱かなかったの?」
 華沙の即位の日から何度か、華沙は涼子に触れようとした。子を産むことは、いずれ華沙の父帝や夫となる者に求められることだった。けれど華沙は涼子が泣くと、必ず行為をやめたのだった。
 涼子は自分の体を抱きしめてうずくまる。
 このまま眠りに落ちれば、幼い頃の華沙に会えるような気がした。けれど意識の向こうで呼ぶ華沙には二度と会えなくなる確信もあった。
 兄上のいるところに行きたいと願っていたはずなのに、華沙がどちらにいるのかわからない。
 身動きもできずに惑う涼子に、やがて公達が口を開いた。
「即位のあの日、華沙は君に何と言っただろう?」
 ふいに問われて、涼子は一瞬時が止まったような思いがした。
 記憶が戻っていく。十年前、あの夜。混乱して泣くばかりだった涼子に、華沙が繰り返し言っていたのを思い出す。
「「泣かないでくれ。痛むことはしない」……」
 それで何度も、涼子の唇を慈しむようにそっと口づけてささやいた。
「……「愛している」と」
 公達はうなずいて問う。
「すずは、その言葉は嘘だと思った?」
「……いいえ」
 公達の問いに、涼子は首を横に振る。公達はなお問いを重ねた。
「彼はその夜、兄上ではなくなったと?」
 それにも涼子は違うと答えることができた。
 華沙はずっと優しかった。病弱な涼子をいつも労わり、庇ってくれた。子どもの頃も、大人になってからも変わらなかった。
 公達は素朴な問いを投げるように、涼子に言葉をかける。
「愛しているから、すずに泣かないでほしかったのではないのか? 痛むのを嫌がると思ったから、進まなかったのではないの?」
 そのとき、涼子は遠い日に見た風景を思い出した。
 寝そべって二人くすぐり合った後、笑い疲れてしばらく言葉もなかったとき、華沙はふいに涼子の頬を両手で包んで言った。
 愛しているよ、すず。子どもの冗談だったかもしれない。でも涼子は何の疑いもなくそれを受け入れた。あにうえ、あいしてると笑って答えたら、華沙は抱きしめ返してくれた。
 今、自分の心に訊いてみる。どうしてその頃と同じように笑えないの?
 華沙が、涼子を傷つけたことがあっただろうか。涼子が泣かないように、寒さも痛みも取り除いてきたはずだ。
 ずっと側で涼子を守ってきた、それは一体誰だったというのだろう。
「……兄上の中には、ずっと兄上がいて」
 涼子は何か大きなものに追い付かれて震える。立ったことがない丘に立った思いがした。そこは風が吹いていて、視界が開けていた。
「私が妹でない自分を、怖がっていただけ」
 涼子の言葉を聞いて、公達はほほえむ。
「奪ってあげよう、すず。その代わりに自分の望むものをつかみなさい」
 彼は涼子の頬に触れて、その目をのぞき込む。
「言ってごらん。君が欲しいものは何だ?」
 ようやく涼子は彼の正体を理解した。彼は華沙ではない。生まれる前からみつめられていた気がする。涼子を自らの世界に誘いながら、涼子の心がそこにないことにも気づいていた、人にあらざるものだった。
 涼子はその灰色の瞳をみつめ返して、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「兄上がほしいの」
 意識は渦を巻き、やがてゆるやかに浮上し始める。懐かしい場所を離れて、遠いところへ向かう。
 ああ、もう幼いときは戻ってはこない。行こうと、まだ震えている自分の心を抱いて、水面の上へ泳ぎだす。
 もう一度生まれるような心地で、涼子は意識の外にたどり着いた。






 手が包み込まれている。ぬくもりの先を追うと、寝所の傍らに華沙が座っていた。
「……すず」
 華沙は目を上げて涼子を見る。その頬に涙の跡があって、涼子は息を呑んだ。
 華沙は眉を寄せて何かをこらえているように問いかけた。
「苦しいか?」
 体は石を乗せられたように重いが、かえって痛みは感じなかった。華沙の方がずっと苦しそうに見えた。
 涼子は喉に息を通して、答えがわかりきっている質問を投げかけた。
「お母様は……」
「もうおらぬ」
 華沙は短く、感情をこめずに答える。
――帝の子など産ませはしない。
 母がどれだけ苦しんだか、その言葉だけで伝わってきた。中宮の義務とされていた皇子を産むことはなく、唯一の娘は帝に欲望を抱かれていた。彼女の狂った目には、涼子は帝の子を宿したように見えたのだろう。
 自分の命を捨ててでも、涼子が子を産むことは許せなかった。だからと、涼子はその言葉を告げる。
「私はもう子を宿すことはないのですね」
 体内から流れ出た血、その源を、誰より感じていたのは涼子だった。
 華沙は唇を噛んで否定する。
「国中から医師を集める。必ず治してみせる」
 涼子はそれに首を横に振って、諦観より優しい気持ちで受け入れた。
 皇族に生まれた涼子もまた、ずっと子をもうけるという呪縛に囚われていた。母の苦しみを痛いほどに知っていたから、盃を受けた。
 ……だから自分の行動に、何も後悔していない。
 華沙を見上げて、涼子はそっと言葉をかけた。
「お願いがあります。今度こそ、これで最後の」
「なんだ? 何でも叶えよう」
 涼子は手を伸ばして華沙の涙の跡に触れる。
「私には嫁がせる価値はなくなりました。だから……兄上。死ぬまで兄上の側にいさせてください」
 華沙はその言葉に息を呑んで、食い入るように涼子をみつめる。
 長い沈黙の後、華沙はうめくように告げた。
「……すまぬ」
「兄上?」
 華沙の頬を涙がつたった。
「いずれ私も母后と同じ仕打ちをするつもりだった。兄として守るなど都合のいい言い訳だ。ただ私が離れたくない一心で、ずっとそなたを後宮に閉じ込めてきた」
 華沙は涼子の手を取って涙で濡らす。
「すず、私に何も与えなくてよい。子のことなどどうにでもする。……さあ、私にしてほしいことを言ってくれぬか」
 涼子は華沙をみつめてふとほほえむ。
 涼子の笑みを見て、華沙が瞳を揺らしたときだった。
「兄上はまだわかっていらっしゃらない」
 華沙の目を見返して、涼子は言う。
「兄上は私を包むすべてです。どうか、兄上」
 涼子は子どものように、兄上と繰り返して涙をこぼす。
「兄上が欲しいのです……」
 かすれた声でねだった涼子の唇に、華沙の唇が重ねられた。
「すまぬ、すず」
 もう一度謝罪の言葉を口にして、華沙は言った。
「……ずっとその言葉を求めていた」
 それから二人、呼吸を求めあうように口づけ合った。
 長く深い夜が、二人の間に広がった。その最中で、二人は互いを一番近くに感じていた。
 いつまででも続きそうな夜を二人で重ねて、小さくふたりで笑い合った。
 やがてやって来た朝は、二人にとって今までで一番新しいように感じていた。
 華沙は涼子を腕に包んで横たわったまま、涼子に告げた。
「いつからか気づいていたことがある。そなたは私の片翼だ」
 涼子はふと目を開く。几帳の向こうから差し込む日の光の中で、華沙は優しくほほえんでいた。
「私のすべてをやろう。すず、命ある限り側にいる」
 涼子は手を伸ばして華沙の頬を包み込む。
 涼子はその灰色の瞳に微笑み返して、華沙の背に腕を回した。
「はい、兄上。私のすべてを……兄上に贈ります」





 それから十年の後、華沙は中宮との子に帝位を譲った。華沙自らは涼子を連れて、内裏を出た。
 華沙は東の国に仕官して、涼子と二人で暮らすようになった。
 華沙と涼子が、男女として結ばれていたか確かなことは誰も知らない。
 けれど人々の目には、二人は仲睦まじい夫婦のようだった。気候が温暖なこともあって涼子の体調も上向き、よく二人で手をつないで市場で買い物をしている姿が見られた。
 あるとき、華沙と涼子は二人で旅行に出かけて、諸国を歩いた。新しいものをみつけるたび少女のようにはしゃぐ女性と、彼女が転ばないようにしっかりと手をつかんで傍らでほほえんでいる男性は、どこでも人目を引いた。
 その姿を見た楽師が内裏にやって来て、二人がおわした頃の王朝を歌った。
 以後の後宮で長く歌われることになる。
 華と月のような、二人の物語。