宴の最終日、公達の前に姿を現した涼子は今までとは違って見えた。
 華沙に手を引かれて、自分の足で歩みだした涼子は、公達の前で衣擦れの音もなく礼を取ると、ふわりと裾を流して坐す。誰よりも帝に通じる高貴な仕草に、公達は声もなくみつめていることしかできなかった。
 宴が始まってからも、涼子の変化は如実だった。今まで反応の乏しかった涼子が、帝のささやきに相槌を打つ気配がしていた。さすがに帝の前で直接公達に声をかけることはないが、公達の言葉に、小さくうなずくようになった。
 華沙はその変化を喜び、涼子に声をかける。
「体はつらくないか?」
 涼子は首を横に振って、そっと庭先を示す。
「いいえ。それよりごらんください、兄上。りんごの花がもう……」
 陽光の差す中、欄干の向こうではつぼみが綻び、白い花びらがこぼれてきそうだった。
 華沙は優しく言葉を返す。
「そなたは知らなかったのだな。この庭にりんごの花は無いのだ」
「ああ……ごめんなさい。見間違えてしまいました」
 涼子はうなずいて、柔らかくほほえむ。
 涼子の眼前には、視界を覆うほどのりんごの花が見えていた。甘い香りが満ちて、涼子を抱いていた。
 華沙の言葉の方が正しいのも、涼子はわかっていた。涼子は礼子を訪ねたとき、その木が切られたときを見ている。りんごの花は先の一代限りの王朝の象徴で、華沙が即位したときに礼子が切らせたのだ。
 ただ、確かめたかったのだ。命の無い世界に華沙が呼ばれていないかと。華沙が見えていないと知って、涼子は心からの安堵を感じた。
 華沙は少し意外そうに声を上げる。
「りんごの花が好きだったか? ではそなたの庭に植えて育てさせよう」
 涼子はその言葉に、柔く首を横に振って返す。
「月の庭は、じきに私のものではなくなります。新しい主の御心に沿うように」
「あの宮と庭はずっとそなたのものだ」
 華沙は灰色の瞳に涼子を映して言う。
「いつでも戻って来てよいのだ。そなたが動けぬなら迎えに行こう。私はどんなときでもそなたの味方でいる」
 華沙は約束するように、涼子の扇にそっと自らの扇を重ねて告げる。
「……だから、時々でよい。私を求めてくれ、すず」
 目を伏せてつぶやいた華沙と、涼子は同じ表情をしていた。
(兄上、私には命の無い世界の方が近いのです)
 言葉には出せずに、涼子は哀しい思いで目を伏せる。
(このままでは、何も生み出すことなく終わっていくのです)
 幼い日から、臥せってばかりの自分の体が、涼子は厭わしかった。
 華沙の父帝が涼子を奴隷のように踏みにじろうとしていたのも、その目の色で伝わっていた。けれど涼子はそれでいいと思っていた。自分の体はそれくらいしか役に立つまい。おそらく自分は数度の出産には耐えられないだろうから、彼の君を満足させられるのはほんの数年だろうと思ったくらいだった。
 そんな自分と、華沙は違っていた。命の輝きに満ちていた。
 何かを切り捨ててでも前に進む意思、生き抜こうとする強さ。いつも眩しくて、涼子にとって一番美しい存在だった。
 彼が病弱で何の役にも立たない自分を、二十三歳まで長らえさせてくれた理由がわからなかった。涼子のことを愛しいと告げ、求めるのが、どうしても理解できなかった。
 ずっとわからなかったが、東の国に嫁ぐことで、やっと一つだけ華沙に与えることが出来る気がするのだ。
「兄上のお役に立つ子を産めるように……」
 言いかけて、涼子は口をつぐんだ。華沙には既に中宮との間に皇子がいる。自分のような病弱な母から生まれた子が、格別華沙の力になれるとは思えない。
 けれどすべてを告げなかった涼子の言葉を、華沙は聞き取っていたようだった。彼は苦い笑みを刻んで優しく言う。
「私はそなたが健やかであってくれればよい。世継ぎのことは何も心配要らぬ」
 華沙は黙って、ふと遠いところを仰ぐような目をして言った。
「……だが私とて想像したことなら何度もあるのだ。そなたの子、それはきっと胸がつぶれるほど愛おしいに違いないのだろう」
 目を見張った涼子に、華沙は告げる。
「一目見たら、後宮に幽閉してしまうであろうと」
「男児かもしれません」
「同じだ。男でも女でも、そなたの子だ」
 華沙は夢見るように言葉を続ける。
「もしそなたが遠いところにいても、その子をみつめてはそなたがいた日々を想うことができる。それはどれほど幸せなことだろう」
 涼子が瞳を揺らすと、華沙は首を横に振る。
「……冗談だ。忘れてくれ」
 春が祝福するように草木の香りを漂わせ、花びらが舞い落ちる。
 涼子は華沙の隣に座っているのが心地よかった。このまま眠りについて息絶えてもいいような気がした。
 ふいに華沙の目が何かを捉え、鋭さを帯びる。涼子が視線の先を追うと、客人の中から一人の女性が進み出てきた。
「ご温情に痛み入ります、主上」
 それはもう十年間顔を合わせていない、涼子の母だった。
 華沙が父帝を玉座から下ろしたとき、華沙は彼女も廃位に追い込んだ。国費を使い込み、父帝の女御たちをいじめ抜いた彼女を後宮から追い出すのは、華沙が苦心した他の様々な変革に比べればずいぶんたやすかった。
 華沙の父帝に溺愛されていた涼子も、幼い頃、吹雪の夜に母の命令で庭木に縛り付けられたことがあるらしい。ただ涼子には、母とその仕打ちが結びつかなかった。母はいつも涼子に無関心で、ほとんど言葉を交わしたこともない。本当に実の母なのかも、実感がわかなかった。
 母は力ない目で涼子を見て声をかける。
「姫宮も、お元気そうで」
 母は四十代のはずだが、それより一回りも老けて見えた。化粧もほとんどせず、とうに流行が過ぎた型の古い単衣をまとっていた。
 母は廃位後すぐに再婚したらしいが、じきに病を得て実家に戻ったと聞いていた。今目の前で平伏している女性を見ると、それも無理らしからぬように思える。
 母は涼子を見て言葉を告げる。
「ごあいさつをさせてください。……私は遠いところに発つことになりました」
 はっと涼子は息を呑む。彼女の後ろに、華沙に生き写しの公達が立っていた。
 けれど今までと違い、華沙はその公達が見えていないようだった。
 公達は一歩歩み寄って、母の肩に手を触れる。母はそれに気づいていないのか、涼子の方を見たまま言葉を続けた。
「せめてお別れを、と」
 母は侍従から酒杯を受け取って、涼子に勧める。華沙が不愉快そうに目を細めて言った。
「結構。涼子は酒が飲めぬ」
「厭われているのは承知。けれどもう、実の娘に二度とお会いできぬのです」
 母は盃に自ら酒を注ぎ、それを一気に飲み干す。公達は母を後ろから抱き寄せると、ほほえんでうなずいた。
 母はもう一度涼子に勧める。
「哀しい母の思いを、どうかお受けください。姫宮」
 そのとき涼子は、恐ろしい気配に気づいていた。
 魔と呼ばれる存在が背後にひそんだ、その酒杯。人より人でないものの気配に敏感な涼子には、それが常ではない結果になるのは承知していた。
 けれど母の別れの言葉の真の意味も、気づいてしまった。何度も生きたものの世界から逃れようとした涼子には、母がどこに旅立とうとしているのかわかってしまった。
 涼子は引き寄せられるように、手を伸ばして母の手から杯を受け取った。華沙が止める前に、一口喉に通す。
 焼けつくような強い酒が喉を伝っていった。
 瞬間、母は狂人のように笑いだす。
「ふふ……あははは!」
 母は禍々しい笑みを浮かべたまま涼子を指さし、侮辱の言葉を浴びせた。
「後宮の娼婦め。帝の子など産ませはしない」
 華沙は顔色を変えて、涼子の手から杯を叩き落とす。
「何を飲ませた! すず、吐き出せ!」
「ははは!」
 母は高らかに笑って、口から血を吐き出す。
 涼子の中で何かが膨張するような衝撃があった。
 涼子は体内を走る激痛のような悪意を感じながら、ぐらりと倒れた。