翌日。
呼び鈴の音がしたので、緋雨は玄関へと向かった。
「はい」
そして外へと出ると、豪奢な馬車が停まっていた。
「狗堂灯侯爵家より遣いで参りました。これをご母堂様にお渡し下さい」
「わかりました」
なにやら釣書のようだと判断し、洋間にいる多恵の元へと緋雨は向かった。
「なにかしら? まだ掃除の最中じゃないの?」
「お客様がいらして、これをお継母様にお渡しするようにと申しつかりました」
そう言って緋雨が釣書を渡すと、億劫そうに開いた後、多恵が目を見開いた。
そして喜色を顔に浮かべると、満面の笑みに変わる。肉厚の唇が弧を描いている。
「やった、やったわ! 縁談よ! まさか帝都でも名高い狗堂灯家から、侯爵家から縁談だなんて! きっと女学院で悠奈を見初められたのね! 娘を嫁に欲しいと書いてあるもの! 最高よ!」
多恵の喜びっぷりに、緋雨は立ったままで首を傾げる。侯爵家が爵位が上なのは分かるが、狗堂灯家といえば、あやかし討伐の名門だとして新聞で名前を見たことがあった。そのため縁組みも、力がある者同士で行うと聞いたことがある。悠奈には、力もないが、視る能力もない。即ちそれでもいいというような、一目惚れなどがあったのだろう。
多恵の様子を見るに、悠奈の気持ちは問わず政略結婚はなされるのだろうが、先方には好意がきっとあるはずだ。緋雨はそれに関しては羨ましく思った。自分も焔に恋をしているからだ。好きな相手と結ばれるというのは、とても憧れる。
午後になり、悠奈が帰ってくると、話を聞いて悠奈も飛び上がって喜んだ。
嬉しそうな継母と悠奈は、本日は機嫌がよく、明日訪れるという狗堂灯家の新当主について語っていた。なんでも先代が早くに引退して、息子に侯爵位を譲ったのだという。
「きちんと準備をしておきなさい! お出しするお茶やお茶菓子も奮発して!」
にこにこしながら多恵に命じられて、緋雨は買い物に走った。午後は、翌日の悠奈の衣装を調えて過ごした。
「これから忙しくなるわ。結納の品はどうしようかしら」
多恵がぶつぶつと周囲を見渡し、唯一残っていた緋雨の母の桐箪笥を見る。
「これじゃあねぇ、貧相よねぇ」
そう言って視線はすぐに逸れた。
ほっと緋雨は息を吐く。
こうしてその日は準備に追われ、いつもより遅い時間に部屋に戻った。
《焔からのお手紙だよ》
「ありがとう」
微笑した緋雨は、疲れたなと思いながらも、癒やしを求めて文を開く。
『
緋雨 へ
今日も寒かったな。
なにか温かい飲み物は飲んだか?
俺は緋雨に直接会いたくてたまらない。
明日は誕生日だろう?
約束を覚えているか?
』
それを見て、緋雨は目を見開く。
ゆっくりと瞼を閉じると、幼少時の記憶が甦る。
「緋雨……大人になったら結婚してくれ!」
「大人っていつ?」
「えっと……今俺達は五歳だから、男は十八まで結婚できないから、十三年後だ! 緋雨が十八歳になったら、俺のお嫁さんになってくれ! 必ず迎えに行くから。約束だ」
「……うん」
確かにそんなやりとりをした。自分の誕生日が明日だということを忘れていた緋雨は、焔が覚えていてくれたことが泣きそうなほどに嬉しかった。
『
焔様 へ
勿論、覚えています。
忘れた日がないほどなの。
私もお会いしたいな。
飲み物は、私は家族やお客様にお出しする方が多いの。
焔様も温まってね。
』
きっと、いつか。そんな機会があると信じながら、その短い手紙をこの夜緋雨はあやかしの毛玉に託した。
――こうしてお見合いの朝が訪れた。
いつもより一時間早く、三時に起きた緋雨は、特に玄関を磨き上げ、新聞を取ってからは、窓を磨き、庭の草をむしった。そして朝食の用意をしていると、自発的に起きてきた二人が、あれやこれやと機嫌良く話ながら、朝食を食べた。その後、応接間に二人が控えたので、緋雨は紅茶の用意をする。普段は緑茶なのだが、見栄をはって輸入品を用意した。
お見合い相手の狗堂灯家のご当主は、朝の十時に来るとされていた。
決して失礼がないようにと言われていた緋雨は、今日は早くに呼び出されてきた通いの使用人の花子と共に、居間に控えている。花子が出迎え、緋雨が紅茶を出すことになっていた。それから緋雨は、応接間に待機して、お茶がなくなったらおかわりを淹れる役目だ。
そうして、朝十時の十分前、呼び鈴の音がした。
これには緋雨も若干緊張した。花子が呼びに行くのを見送り、立ち上がってお茶の準備を始める。お湯が適温になるように調整して、茶葉を蒸らす。
「緋雨さん、ご案内しましたよ」
花子が声をかけた。花子もまた普段は緋雨には辛く当たるが、この日ばかりは緊張した面持ちだった。頷き、お盆を持って緋雨は応接間へと向かう。和服に白い割烹着姿だ。
最初に目に入ったのは、座っていても長身だと分かる、軍服姿の青年だった。
黒い艶やかな髪をしていて、軍帽をかぶっている。手には白い手袋を嵌めている。
切れ長の目は麗しく、非常に端整な顔立ちをしていて、よく通った鼻筋と薄い唇が見える。なにか――既視感があった。あるはずもないのだが。どことなく、記憶の中の焔に似て思えた。
だから思わず見惚れそうになった緋雨が、その思考を振り払い、お茶を出そうとした時だった。
「緋雨」
青年が緋雨の名を呼んだ。驚いて緋雨がそちらを見ると、青年が唇の両端を小さく持ち上げて微笑していた。
「会いに来たぞ」
「えっ……」
お茶を青年の前に置いた状態で、緋雨は硬直した。多恵と悠奈が息を呑んだのも分かる。
「十八歳、おめでとう。約束だ、俺と結婚して欲しい」
「……っ、焔様……?」
「ああ、そうだ。分からなかったか? 俺は一目で分かったが」
「似てるとは思ったけれど……まさか、と……」
そう呟きながらも、はっとして、緋雨は他の二つのカップを継母と悠奈の前に置いた。二人の瞳は、どういうことかと言うように緋雨に向けられている。特に悠奈は厳しく緋雨を睨み付けており、激情に駆られている様子だ。
「緋雨の分のカップがないが」
「そ、その……」
「――手紙の通りだな。最近はお客様にお茶を出すことの方が、自分が飲むより多いと冗談めかして書いていたが」
昨日の手紙のことを思い出し、本当に焔なのだと直感し、緋雨は瞠目する。
思わず冷や汗をかいた。
「緋雨。すぐにでも連れていきたい。持ち物をまとめてくれないか?」
「っ」
「男手がいるなら、使用人を数人馬車に乗せてあるから連れてくる。結納品などは不要だ」
流麗な声音で語った焔を見て、今度こそ緋雨は呆けた。
「待って下さい、どういうことですの!? 私がお相手では!?」
悠奈が声を上げる。すると目を眇めた焔が、悠奈へ向かい氷のような表情を向けた。
「いいや? 俺は緋雨を迎えに来たんだ。きちんと書いただろう、神屋敷家の娘を、と。あなたは戸籍上はそうかもしれないが、神屋敷家の血筋の者ではないと聞いているが」
「っ、だとしても、緋雨――お異母姉様は、浄癒の力は使えないのよ! 視えるとはいうけど」
浄癒の力とは、神屋敷家の血筋に発現することが多い、病気や怪我を治す力だ。非常に稀な力だとされている。これがあり、神屋敷家は伯爵位を賜ったといえる。
「そういう話ではない。俺は、神屋敷緋雨を神屋敷家の娘と呼んだという話だ。父上がしたためたから、娘となっているのがよくないな。第一、力など関係ない。俺は緋雨の優しさが好きなのだからな」
きっぱりとそう断言した時、非常に焔が怖い目をした。射殺すようなその目に、悠奈が凍り付く。両腕で体を抱いて震え始めた。その迫力には、緋雨も呆然とした。自分へと向けられた優しい微笑が嘘のように、悠奈を見る焔の目は冷酷に思えた。
「――緋雨。荷物は?」
「え、ええ……その……焔様から頂いた手紙と、お母様の桐箪笥を持っていきたいと思って……」
「では、箪笥は使用人に任せよう。手紙は――取っておいてくれたのか? 嬉しいな」
再び焔が笑顔に変わった。それに気が抜けた緋雨は、こくこくと頷く。
「俺も取ってあるんだ。では、それも持ってきてくれ。思い出だな、俺達の」
頷いた緋雨は、頬が熱くなってきた。
それから急いで自室へと向かい、鞄に手紙を詰める。そして上階に戻ると、焔の連れてきた使用人らしき二人が、桐箪笥を運んでいた。それを立ち尽くした多恵が呆然と見ている。泣きじゃくりながら悠奈は、走って二階へと消えた。
まだ事態が信じられないでいる緋雨のそばに、そっと焔が立つ。
そして正面から少し屈んで、緋雨の顔を覗き込んだ。
「触れてもいいか?」
「え、ええ」
緋雨が頷くと隣に並んだ焔が、緋雨の肩をそっと抱き寄せた。それから優しく背中を押す。
「行こう、狗堂灯の家に。そこが、これから緋雨が暮らす場所だ」