十一月も初冬を迎え、帝都でもバケツに薄氷がはる季節が到来した。
朝、四時。
神屋敷緋雨は、靴を履いて家を出る。帝都でもまだまだ新聞を取っている家は少ないため、近隣の家の前にまとめて配達されるので、それを取りに行くためだ。まだ辺りは薄暗い。吐く息は白いが、緋雨は薄い着物姿だ。羽織はボロボロで、何度も縫った跡がある。
すりあわせた手はすり切れている。寒い中でも水仕事は変わらず、手荒れが酷い。爪も痛んでいる。それは長い髪も同じで、まとめている黒い髪に艶はない。これは湯には満足に浸からせてもらえず、この寒い中でもよくてぬるま湯、悪ければ水で体を洗うので、なるべく手早くしなければならないのと、本来の伯爵令嬢のように手入れが出来ないためだ。
痩せ細った手で新聞を取る。
本日の見出しは――『帝都で十二人目の黒兎病を確認』と書かれている。なんでも黒兎病というのは、最近少しずつ出てきた病のようで、詳細は分かっていないのだが、罹患すると次第に意識を喪失して衰弱死する不治の病なのだという。新聞には少なくともそう書かれている。
新聞を手にして家へと戻った緋雨は、それから朝食の準備をすることになった。
元々はそれなりに裕福だった伯爵位を持つ神屋敷家だが、継母と義理の妹の浪費の結果、通いの使用人を一人雇うのが精一杯になってしまい、家事はほぼ全て緋雨に押しつけられている。
本当の母である奈津子が亡くなったのは、緋雨がまだ十歳の頃だった。父である晴信が再婚したのは翌年で、後添えとなった継母の多恵とその連れ子の悠奈が家族となった。悠奈は、十八歳の緋雨の二歳年下の十六歳だ。しかしその父も、再婚してすぐに亡くなり、緋雨は本来であれば十三歳から通う女学院への進学も許されず、その年から使用人同然に働かせられてきた。だがら学がないように見えるが、悠奈に宿題を押しつけられて過ごしてきたので、外国語や数学も多少は出来る。
本日の朝食は、卵焼きと鮭だ。家計は火の車であるが、きちんとした食事を用意しなければ、茶碗ごとご飯をぶつけられることもあるので、緋雨は自分の食べる分も削って食事の用意をしている。それが済んでからは、まずは玄関の掃除をし、冷たい水で手を洗ってから、継母と悠奈を起こすことになった。
「おはようございます、お継母様」
まず多恵を起こす。すると不機嫌そうな顔で目を擦った継母は、溜息をついて起き上がった。
「髪を梳かして頂戴」
「はい、畏まりました」
「それと今日は洋服をお願い」
「分かりました」
大人しく緋雨が従うのは、殴られたくないからだ。この家を追い出されれば、行くところもなければ、生きていく術も持たない。ならば、なるべく波風を立てず、体が痛まない方法をと、模索した結果だ。多恵の指示に従って服を用意した緋雨は、それから続いて悠奈を起こしにいく。すると悠奈は起きていた。
「辛気くさい顔、見せないでよ朝から」
ニヤニヤ笑っている悠奈は、起こしても嫌味をいい、起こさなければ怒るという性格をしている。緋雨がなにをしても気に入らないらしい。
「それになにその髪に爪は。ボロボロでいいざまね」
「……」
帝都で流行の化粧道具を一式揃えている悠奈は、いつも緋雨の身だしなみをけなす。
「少し顔立ちがいいからって調子に乗らないことね」
しかしそばかすがコンプレックスの様子で、悠奈は元の顔立ちが整っている緋雨の容姿が気に入らない様子だ。嫌味が続く間、ずっと頭を下げてやり過ごしていた緋雨は、その後悠奈を朝食の席へと案内した。
勿論二人と同席して食べることは許されない。おかわりなどの支度をするべく、壁際に立っている。
二人が食事を終えた後は、食器を洗う水仕事だ。かじかむ手で、一つ一つ丁寧に洗う。それが終われば掃除、昼食の準備、また掃除や洗濯、そして夕食、悠奈から押しつけられた女学院の宿題の手伝い、黒い兎の刺繍がされた多恵のハンカチのほつれを縫い、そうしたものをこなし、やっと自分の時間が持てたのは、午後の十一時半を回ってからのことだった。
「はぁ……」
《大丈夫?》
すると薄い布団の上に、ふわりとあやかしの毛玉が座った。
「ええ、平気よ」
それまでの無表情を一変させて、柔らかく緋雨は微笑む。
普段無表情でいるのも、それが一番、周囲を怒らせないからだ。
だが、あやかしを相手には、違う。
生まれつき、緋雨はあやかしが視える体質だ。これは神屋敷家の人間には多く、父や、また実の母も視えたのだが、継母と悠奈には視えない。それにあやかしは数が多いわけではないので、視えなくても帝都の多くの人は困らないと考えている様子だ。
《今日も“焔”からお手紙を預かってるよ》
「まぁ!」
嬉しくなって、さらに緋雨は笑顔になった。白い毛玉の形をしたあやかしが、ポンっと手紙を出現させる。それを受け取り、緋雨は広げた。
『 緋雨 へ
今日は寒かったな。平気だったか?
俺は異国から輸入されたマフラーという品を職場で支給された。
軍は洋装だからな。コートも暖かい。手袋も同じだ。
どれも、緋雨にも買ってやりたい。
』
そんな短い手紙である。お互い、日常について、ポツリポツリとやりとりをしている。
これは、五歳の頃からの日課だ。
もう焔が何処の家の誰だったのかは思い出せないが、幼少期には焔と何度も緋雨は遊んだ。その頃から、焔『様』と呼んでいたから、きっと神屋敷家よりは高貴な家柄の人なのだろうとは思っている。焔もあやかしが視えるので、二人であやかしを交えてたびたび鬼ごっこをしたものである。
緋雨の初恋は、焔だった。だから小さい頃焔に、『大人になったら俺のお嫁さんになってくれ!』と言われた時は本当に嬉しくて、満面の笑みで頷いた。そんな小さな口約束を、当時焔の両親と、緋雨の実の両親はニコニコと眺めていた記憶がある。
小さい頃は、本当に幸せだった。なにより、子供というのは自由だと、緋雨は思う。今のように、自分の意思ではどうにもならない状況では、少なくともなかった。
『
焔様 へ
私は買ってもらわなくても大丈夫。
ただ、それを着た焔様を見てみたいです。
最近本当に寒くて困っているの。
今日も新聞を取りに行ったら、氷がはっていたのよ。
叶斗くんの具合はどう? 寒いから気をつけてね。
』
叶斗というのは、焔の弟だと手紙で緋雨は聞いた。年が離れていて、また八歳なのだが病気なのだという。焔は緋雨と同じく十八歳だ。ただ既に軍人として働いていると聞いていた。所属は、帝国陸軍あやかし対策部隊なのだという。討伐することもたまにはあるが、ほとんどの場合は、あやかしに関する困りごとを解決する仕事が多いそうだ。近年では文明開化の波を受けて、異国から来るあやかしも多いため、その対策などもしているらしい。
「これを届けてくれる?」
《うん、いいよぉ》
と、こうして本日の文のやりとりは終わった。
緋雨はあまり愚痴を書くことはない。ただつい、今日も寒くて困っていると書いてしまった。ただそれ以上に、自分が寒くないかと慮ってくれる焔の優しい手紙が嬉しい。今でも緋雨は、幼い頃の約束のまま、焔のことを一途に想っている。現在がどのような姿をしているかは分からないが、人柄が伝わってくる。それがどうしようもなく胸に響いてくるから、夜こうして一通ずつ、文のやりとりをしていると、明日も頑張れるという気持ちになる。
焔から届いた文を、机の中へとしまう。もう何年も机の抽斗に手紙を隠すように入れているから、膨大な量が溜まっている。それらは時々読み返すこともある、緋雨にとっては大切な宝物だ。きっと継母や悠奈に見つかれば、捨てられてしまうのだろうけれど。それは、実母の衣類などが全て売り払われたのと同じことで、彼女たちにはなんの価値もないものだからだ。
「焔様は、優しいなぁ。本当、癒やされるもの……」
そう呟いてから、緋雨は布団に入る。暖を取るものも何もない寒い半地下の部屋で、この日も凍えながら、緋雨の一日は終わった。