「――だから、俺は人が怖いんです。話すのも苦手になって……」

 静かに耳を傾けていた青辻は、聞き終えるとあやすように槙永の背に触れた。二度叩くようにしてから、槙永の額に口づけ、そうして優しい顔をする。

「辛かったんだな」
「……でも、青辻さんの写真が、俺を救ってくれたんです」
「俺は今、人生で一番、写真を撮っていて良かったと思っているよ。槙永くんを、救う事が出来たんだな、俺は」

 それから涙で濡れている槙永の頬に親指で触れてから、青辻は再び触れるだけのキスをした。

「ただ、残念ながら実物の俺は、そんなに出来た人間では無いんだ。純粋に、槙永くんを魅力的だと思って、欲しいと思って、機会があるからと唇を重ねた。逆に、俺に幻滅したんじゃないか?」
「そんな事は無いです。会えば会うほど……俺は……」
「俺の事が好きか?」
「……良いんです。ご迷惑をかけるつもりは無いですし、その……また『変』な事を俺は……」
「だから何も、何一つも、変じゃない。正直に言って良いか? 俺は槙永くんに好かれているのが嬉しいぞ?」
「……」
「次の休暇は、いつ?」
「本当なら、明日――……でも、色々あったので、状況的に来週の月曜日だと思います」
「じゃあ月曜日。良かったらそのお休みを俺にくれないか? もっと、じっくりと話がしたい。プライベートで。槙永くんと」
「青辻さん……」
「弱ったな。俺は槙永くんを美人だとは思っていたんだけどな……思っていたよりも本気になってしまっていたみたいだ」
「な」
「槙永くんと過ごしたいんだ。だから、俺に時間をくれ」

 そう言うと、今度は槙永の頬に、青辻がキスをした。その柔らかな感触と温もりが現実のものだと、暫く槙永は信じられなかった。

「少し、眠った方が良い。仮眠の時間だろう?」

 槙永は、優しい青辻の笑顔を見てから、ゆっくりと立ち上がった。そして簡素な寝台へと移動し、改めて横になる。

「おやすみなさい」
「ああ。月曜日は、何時が良い?」
「……一日中暇です」
「じゃ、昼食を一緒に食べよう。十時半に、駅に車で迎えに来る。勿論、それ以外も俺は毎日撮影に出るから、会える時は会おうな?」
「……はい」
「約束だぞ? おやすみ」

 その後槙永は、泣きつかれた事もあり、すぐに寝入った。



 翌日の早朝には、空模様が青く回復し、槙永が身支度を整えて待つ頃には、田辺がやってきた。青辻を見送り、槙永もまた帰宅を促されて、引継ぎ後家へと帰った。

 トースターに食パンを入れてから、暫くその場で立ち尽くし、槙永は昨夜の出来事を回想していた。

 想い人が、バイだった。同性愛者の槙永から見れば、それはある種の幸運だ。

 そして次に会う約束もした。駅員と写真家という職務上の繋がりを超えた、プライベートで――これもまた、嬉しくてならない。

 だが青辻に吐露してしまった過去も、そしてたとえば、他の誰かに青辻との会話を聞かれる事も、即ち第三者に知られる事も、いずれも槙永にとっては恐怖でしかない。

 赤く色づくトースターの内部、焦げていくチーズを見ながら、槙永は溜息をついた。

 今、万が一にでも、この平和な深水での暮らしを失ったならば、今度こそ生きてはいけないという確信がある。

(嘘をつく人だとは思わないけどな……どこまで、本気だったんだろう)

 トースターが音を立てるまでの間、槙永はその場に立ち尽くしていた。

 次に顔をあわせる時は、どのような顔をしたら良いのだろうかと思案しながら、あまり味のしない朝食を噛む。

 そうしつつ眺めた写真サイトには、昨日撮影されたのだろう、曇天の中を通る電車の写真が、新しく掲載されていた。

 その後は眠り、翌一日はゆっくりと休日の惰眠を貪ってから、少し変動があったもののほぼ元々のシフトと同じ状態で、槙永は通勤した。その日の朝と夕は、青辻の姿が無かった。駅の窓を拭きながら、槙永はどこかで青辻の姿を探していた。

 結局それ以後、日曜日まで青辻と会う機会は無く、半信半疑で月曜日の九時半に、槙永は駅へと向かった。

 すると停車していた黒いワゴン車から、青辻が顔を出した。

「良かった、来てくれて。俺の宿泊先が、北欧料理の店なんだ。十一時に予約を入れてあるから、少し早いというか……まだ、一時間も前だぞ?」
「青辻さんだって、いるじゃありませんか」
「俺は七時からここにいた。絶対に逃すつもりは無かったからな」

 それを聞いて、珍しく槙永の表情筋が仕事をした。形作っているのは、苦笑だったが。

「逃げたりしません」
「そうか。俺は基本的には、据え膳はきちんと食べる主義なんだ。恋人がいない限りはな。そして、今俺はフリーだ」
「あの、ひと目があるので、そういう事はあんまりその……」
「安心してくれ。槙永くんに迷惑をかけるつもりは毛頭無い。ただ、俺は隠すつもりも無い」

 一切安心出来ないなと、槙永は再び苦笑した。

「ま、少し早くても良いだろう。行くか」
「北欧料理のお店って、都会からセミリタイアしてきた方が経営されているっていう、完全予約制のお店ですか?」
「お。よく知ってるな。そこで、あってるはずだ。あいつは、北欧に留学していて、そこで料理を学んだ奴でな。この深水の雪質が近いからと、ここを選んだんだよ」
「そうなんですか」
「ああ。料理の腕は一級品だ。俺が保証する」

 青辻が車を発進させた。槙永は、その横顔を見ながら、静かに頷く。