脱衣所には音量を大きくしたスマートフォンを置き、いつもよりずっと早く髪や体を洗う。駅員の制服は予備の品がロッカーにある。仮眠時用のラフなシャツ等もいくつかストックがあった。シャワーを出てから、髪を乾かして、槙永は着脱しやすい服に着替える。そして持参していたおにぎりを見てから、溜息をついた。携帯食があると青辻は語っていたが、本当に大丈夫だろうかと、不安になる。
無理をさせていないだろうか、過ごしにくくは無いだろうか。グルグルとそう考えたのは、恋心からというよりは、槙永が真面目な駅員だからだ。
その後、夜の十一時まで、青辻の心配をしながら、槙永は駅員室に待機していた。しかし追加連絡も無く、今宵は終了となり、仮眠の時刻となった。槙永は冷えたおにぎりを鞄に入れたまま、それを手に二階へと向かった。
そして静かにノックすると、青辻の返答があった。起こしてしまっただろうかと不安に思いながらも中に入ると、そこにあるテレビの電源をつけて見ていた様子の青辻が、槙永に振り返る。
「今夜が一番酷くて、朝にはやむらしいな」
「ええ。眞山営業所からも、田辺さんからも、あまり心配はいらないだろうと言われています。青辻さんもご安心下さい」
努めて冷静に、落ち着かせるような声音を心掛けて、槙永は述べた。自分だったら、そう言われたいという想いもあった。
「ああ。有難う。心配は特に無い。この辺りでは、珍しいと言えるほどの雨量では無いからな。木が倒れたとさえ聞いていなければ、車を走らせた自信がある」
「それは危険だと思います」
「――それと……槙永くんを一人にさせるのが不安だったというのもある」
「俺は頼りになりませんか?」
「いいや? 田辺さんより頼りになるように見えるぞ」
真面目に聞いた槙永に対し、青辻は笑顔で首を振る。
「単純に俺が心配だったと言うだけだよ」
「心配なのは、頼りにならないからでは?」
「頼りになる、ならないは、関係ないな。心配をする事に、理由がいるか? まぁ、座ってくれ。俺が言うのもなんだが」
青辻はそう言って微笑すると、仮眠室のソファを視線で示した。二人掛けのソファで、その位置は青辻の横である。少し戸惑ってから、小さく頷き、槙永は移動した。そして座ってから後悔した。思いのほか、距離が近い。これならば、空いている二つのベッドの片方に座る方がマシだった。ただでさえ他者に対して緊張するのに、至近距離に恋する相手がいたら、なおさらだ。
「きちんと夕食はとったか?」
「……青辻さんこそ」
「俺の鞄は、基本的に着替えと食べ物と撮影に使うものしか入っていない」
その言葉にゴミ箱を見れば、確かに食べ物の空袋が見えた。頷いてから、おずおずと槙永が切り出す。
「宜しければ、ただの塩のおにぎりならあります」
「槙永くんの手作りか?」
「まぁ」
「それは魅力的だが、槙永くんは何を食べたんだ?」
「……ええと」
「食べていないと見た」
「っ……一食くらい、何も食べなくたって、俺は平気です」
「だからそんなに細いんだな。抱き心地が悪そうだ」
「は?」
抱き心地なんていう言葉が飛び出したものだから、不意打ちされた気分になり、槙永は露骨に赤面してしまった。すると青辻が呆れたように笑う。そして視線をテレビへと戻した。
「槙永くん、気をつけろよ。俺は男もイける口だからな」
「えっ」
「バイなんだよ、俺は。好きになると、性別を問わないタイプだ」
驚愕して、槙永は目を見開いた。しかしテレビを見たままの青辻は、それには気づいた様子も無く、つらつらと続ける。
「去年まで付き合ってたのも男だ」
「……」
「槙永くんみたいな男前の美人は、俺にとってドストライクだから、本当に気をつけろよ。ま、無理強いは趣味じゃないが、隙だらけの姿を見ると、押し倒したくなるというのは本音だ。そのTシャツ、ちょっと大きすぎるんじゃないか? いつもきっちりした制服だし、この前の撮影の時だってそこそこ洒落たシャツだったのに、今見える鎖骨は目に毒だ」
なんでもない事のように、青辻が述べた。唖然とした槙永は、それからゆっくりと二度、大きく瞬きをした。
「……本当に、バイなんですか?」
「おう。気持ち悪いか?」
「いえ……」
「そりゃあ良かった。槙永くんに嫌われたら悲しいからな」
「嫌ったりしません。そういうのは、個人の個性で自由で、その……」
「フォローして欲しいわけでもないぞ?」
「本当に違うんです。そうじゃなく……」
己も同じであるからと言いかけて、槙永は口を噤んだ。青辻の言葉が、ただの冗談でない保証は無い。青辻が無駄な嘘をつくような人間には思えなかったが、自分の性癖を公言する事は、槙永にとっては恐怖だった。
その為言葉を探していると、青辻がテレビの画面から槙永へと視線を向けた。そして短く息を呑んだ。
「顔、真っ赤だぞ。ひかれるかもしれないとは思ったが、意識されるとは思わなかった」
「べ、別に俺は――」
「意外と槙永くんは、無表情に見えて顔に出るんだな」
指摘され、より一層槙永は赤面してしまった。上気した頬が熱い。自分自身でもそれが分かるほどで、思わず俯く。青辻がそっと槙永の肩に触れたのは、その時だった。
「そんなに緊張するな。傷つくだろ。別に取って食おうとしているわけじゃ――拒まれ方次第では、無いぞ。俺に触られるのは嫌か?」
「な、何を言って……」
「気持ち悪いか?」
「気持ち悪くないです。嫌じゃないです!」
自分が仮に拒絶されたら、絶対に傷つくからと、そう思って大きな声で槙永は反論してしまった。すると青辻が喉で笑う。
「ふぅん。槙永くんは、男もイけるのか?」
「……っ」
「その沈黙は肯定と取る。今、恋人は?」
「いません」
「それは事実みたいだな。田辺さんと澤木くんにもリサーチ済みだから根拠もある」
「はい?」
「キスしたい。俺にキスされるのは嫌か?」
「何を言って――……ッ」
ソファの端まで逃げた槙永の後頭部に手をまわし、青辻が掠め取るように唇を奪った。驚いて反射的に槙永が目を閉じる。すると一度唇を離してから、青辻が再び啄むようにキスをした。槙永は唇に力を込めて、その感触に怯えていた。
誰かと、このように口づけをしたのは、まだ周囲に同性愛者だと露見する前が最後だ。四年は前の話だった。だから決して経験が無いというわけではなかったが、緊張と怯えの方が強い。
「槙永くん、口、開けて?」
青辻の言葉に、目を閉じたままで、逆にギュッと槙永は唇を引き結んだ。すると、青辻が槙永の下唇を舌でなぞりはじめる。そうされる内に、体がフワフワとしだした。
思わず目と唇を薄っすらと開けると、真正面にあった青辻の顔がより近づいてきて、迷いなく深々と槙永の唇を奪った。逃げようとする槙永の舌を、青辻は追い詰める。
歯列をなぞられ、濃厚なキスで舌をひきずりだされ、甘く噛まれた瞬間、槙永の背筋を甘い快楽が駆け抜けた。
「ん、ンふ」
しかし青辻は腰を引こうとした槙永を許さず、Tシャツの下に手を差し入れて、胸の突起を探り出し、敏感な乳頭を刺激しながら、角度を変えてキスを続ける。
「っ……ッ、ン……は」
漸く唇が離れた時、槙永はTシャツを開けられていた。
「勃ってる」
「!」
その言葉に、槙永は蒼褪めそうになった。これでは、同性愛に嫌悪が無い事はおろか――体が青辻を欲しているのだと、露見してしまう。
「ち、違うんです、これは……違……」
「何がどう違うんだ? 教えてくれ」
「違うんです、だ、だから……止め、止めてくれ」
「――俺が怖いか?」
「青辻さんは怖くない、でも……みんなが怖い」
快楽と恐怖の狭間で、思わず槙永は本音を口走った。すると、ピクリと青辻の動きが止まった。
「みんな?」
「変に……変に思われる……それが怖くて……だから……」
気づけば槙永は涙ぐんでいた。普段のどこか凛々しくさえある、内心とは乖離した無表情のかんばせが、今は紅潮し、どこか怯えた草食獣のようにさえ見える有り様だ。怯えたように震えるその姿を一瞥した青辻が、手を放して優しく槙永の髪を撫でる。
「変な事なんか無い。が――この世界に、偏見がないとも俺は言わない。ただな、槙永くん。俺は、酷い事はしないよ。大丈夫だから」
「……」
「泣かないでくれ。そんな顔をさせたかったわけじゃないんだ。あー、俺はダメだな。気になる麗人と二人きりで、気を良くしていた」
微苦笑した青辻は、そう述べると槙永を抱き起し、正面から両腕を回す。
「男だから嫌なわけじゃなさそうだな」
「……っ、その……」
「何があった? 聞かせてくれないか?」
耳元で青辻に囁かれ、思わず槙永は目を閉じる。槙永の眦から零れた涙を、青辻が指先で拭う。その優しい温度に絆され、槙永は思わず過去を口にした。