――天気予報に雨のマークが並んだ次の週。本日、泊まり勤務である槙永は、始発出発後に駅へと到着し、黒い傘を閉じた。一昨日から雨が降り続いている。
深水町は近くに峠があり、その向こうに海がある。結果として、冬の雪と、時に襲い来る豪雨が多い。古来よりそうだったらしく、氾濫する深水川を象徴的に水神や龍として表現した昔話も多い。
「はぁ……っ、歳には勝てないなぁ」
気候も秋に近づき寒くなったこの日、日勤である田辺が腰をさすった。槙永が視線を向けると、駅長の田辺が苦しそうに呻く。
「腰が……ぎっくり腰の気配がするんだよねぇ。痛くて痛くて……」
「もう四時ですし、早めに上がられては?」
「良いかい?」
「ええ。後は俺が」
まだ最寄りの整形外科の個人クリニックが開いている時間帯だった。今から急げば、診てもらう事が叶うだろう。そう判断して槙永が告げると、申し訳なさそうに田辺が手を合わせた。
「有難う、悪いねぇ。残りの終電、それと駅の閉めの作業、お願いするよ」
「はい。お大事になさって下さい」
槙永が頷くと、心なしか安堵した顔をしてから、田辺が退勤した。
そうして五時が過ぎ、終電の発着が行われる頃、この日も青辻が最後に降りてきた。
改札後、槙永は、青辻と雑談したいと思ったが、一人きりなので、その間も無いと判断し、ホームに直行して電車内の清掃を手伝ったり、終電が戻っていくのを見送ったりしていた。その間にも雨脚は強くなっていく。
だがその後、ホームでの最終作業を終えて、続くドアの鍵を閉めてから待合室に戻り驚いた。ベンチに青辻が一人、座っていたからだ。
「今日、駅員室は誰もいないみたいだけど、日勤は田辺さんじゃなかったか?」
「……腰痛だそうで」
「個人情報に答えてくれるようになったな」
「っ、その……田辺さんは、青辻さんを息子のように思っていると仰っていたので」
「はは、そうか。でも、一人じゃ大変だろう?」
「スマホに電話を転送するようにしてあるので、なんとか。何かご用事でしたか?」
「いいや。槙永くんを待っていただけだ――った、んだけどなぁ。これだ」
青辻はそう述べると、チラリと出入口に振り返った。見れば、激しい雨が吹き付けている。
「傘を持ってこなかったが、そういう状況でも無かった」
苦笑した青辻が嘆息した時、槙永のスマートフォンが音を立てた。これは、駅員に支給されている品だ。
「すみません、失礼します」
「ああ、出てくれ。仕事の邪魔をしているのは、俺の方だ」
答えた青辻に一礼してから、槙永は電話に出る。
「はい、眞山鉄道深水線深水駅、槙永です」
『こちらは眞山営業所の――』
かかって来た電話の内容は、豪雨についての注意喚起と、先程発った電車が今宵は深水駅と眞山駅の間の唯一の有人駅で停車するので、始発が遅れるという連絡だった。
電話をしたまま駅員室へと戻り、情報をメモし、起動中だったパソコンではメール連絡を確認したり、眞山鉄道が入れているシステムで明日の時刻表の確認をしたりした。
それらが落ち着くのに二十分ほどかかった。
降雨時の緊急対応を、槙永はこれまで一人でこなした事は無かったが、昨年は田辺と共に行っていたので、問題なく処理は出来た。場合により、明日は運行が休止するそうだ。そうして、それらを明日勤務予定の澤木と、駅長である田辺にも連絡する。
同時に田辺からは腰の具合を聞き、幸いぎっくり腰では無かったと知った。
一人での泊まり勤務であるからと、心配した田辺が、あれこれと槙永に指示や助言を行ってくれたので、それらもメモを取りながら、槙永は冷静に対応したいと考えた。
それらの作業を終えてから、券売機の電源を落としていないと気が付き、同時に青辻はどうしただろうかと考えて、槙永は待合室へと向かった。
「青辻さん……」
「俺が泊まってる所までの道に、木が倒れたらしい……雨だから撤去は明日だそうだ」
車の鍵を片手に、青辻が困ったように笑っている。槙永は頷いた。
「緊急時は、駅に避難が可能です。上に仮眠室と、一般開放用の倉庫があります。この場合は俺達二人ですので――マニュアルだと仮眠室とシャワー室をお貸し出来ます」
淡々と槙永が伝えると、青辻が何度か頷いた。
「悪いな、帰りにぬかるんだ土を踏んで、靴がドロドロなんだ。大至急借りたい」
「分かりました」
青辻を促して、駅員室へと向かう。本来は部外者は立ち入り禁止だが、緊急時は別だ。排水溝の関係で、シャワー室は一階にある。
「どうぞ。タオルは脱衣所のものを。他に、着替えなどは必要ですか?」
「鞄に常に入れてある。これでも山には慣れているぞ」
「確かに深水は山の上ですからね」
このような雑談が出てくるようになっただけ、ここ二週間程度で、だいぶ槙永は青辻に慣れた。微笑して、青辻がシャワー室に入る。見送りながら施錠音を聞いた槙永は、その後、状況確認を行う為、再びパソコンの前に移動した。
明日の運休が本格的に決定し、警報の状況次第で、槙永も帰宅するようにという眞山営業所からの指示を再確認していると、鍵の開く音がした。
「有難う、借りたよ」
時刻は七時を回っていた。頷き、二階の仮眠室へと続く階段を、槙永は見る。
「二階に仮眠室があります、どうぞそちらへ。ご案内します」
椅子から立ち上がり、槙永は階段の扉を押した。素直に青辻がついてくる。倉庫脇の仮眠室は、救護室も兼ねている為、万が一に備えてベッドは簡素だが二つある。その隣の倉庫は、備品や毛布、食料などがある。
「お食事はどうされますか?」
「携帯食を持っている。気を遣わないでくれ。借りられるだけで有難い」
「何かお困りの事がありましたら、お声を」
「槙永くんは、まだ仕事か?」
「もう確認作業は終わったので、緊急時の連絡のほかは、俺も待機です。なので今の内に、シャワーを済ませてしまおうと考えていて。この後何があるか分かりませんから」
「俺の事は気にしなくて良い。有難う、槙永くん」
青辻の言葉に頷き、槙永は階下へと戻った。そして手早くシャワーを浴びた。一日くらい入らなくても平気かとも思ったが、万が一明日の日中になっても避難指示が解除されなければ、救助を待つ立場に変わるので、入れる内に入っておく事に決めた結果だ。