いつもの休日よりも少し早起きをした槙永は、クローゼットの前に立ち、私服を手に取った。ここ最近は、外出する事が少ないので、買い物に行く時以外は、就寝時と同じ服装で休暇を過ごしている事が多かった。ただ写真に収められた風景を見るには少し歩くので、久しぶりにきちんとした私服を着た。無論、山歩きがしやすいように、軽装を心がける。靴は履きなれたスニーカーだ。
都会にいた頃は、どちらかといえば洒落た私服を身に着けていた槙永だが、田舎で暮らし始めてからは、ろくに新しい服を購入していない。着る機会がほぼ無いからだ。
(今度買いに行こうか。そうすれば、雑談のネタにもなるな)
袖に腕を通した後、槙永は髪形を整えた。本日は外食しようと決めて、家から出る。田舎生活では車は必需品だと言われるが、槙永は所有していない。駐車場代も無料だと聞いていたが、特に今の所必要性を感じていない。駅がすぐそばにあるからなのかもしれないし、その周辺に個人商店が密集しているからなのかもしれない。
現在、午前十時の少し手前である。一日数本しかない電車の一つが発着する時間に丁度良い。
「あ、槙永さん!」
駅に着くと、制服姿の澤木に声をかけられた。花壇に水をあげている。
「お出かけですか? 行ってらっしゃい!」
笑顔を向けられたので、頷き返してから、槙永は駅に入り券売機の前に立った。眞山鉄道は、一部の駅を除いて、今なお電子化がなされていない。設備がある場所でも、券売機を用いる客も多い。槙永は無人駅で降りる予定だったので、その区間までの料金の切符を券売機で購入した。
改札をしていた田辺にも挨拶をしてから、槙永は二両編成の電車に乗り込む。その車両には、槙永一人しか乗車客がいなかった。
電車が出発してからは、田園風景を眺めていた。もうすぐ稲刈りの季節だ。紅葉が見られるのは、まだ少し先だなと改めて考える。
二つ先の駅までは、三十分ほどかかった。
そこで降りて、箱に切符を入れ、改札を抜ける。無人の駅には、誰もいない。こうした空間も、槙永は好きだ。駅の扉を開け、外に出る。目の前には坂道があって、下へ向かえば車道が、上に向かえば展望台があると知っていた。何度か来た事がある。
(おそらく展望台に続く登山道から撮った写真だろうな)
過去に見た記憶がある風景を回想しながら、槙永は上を目指して歩き始めた。本日の空は、いつもより深い青色だ。大きな白い雲がいくつか浮かんでいる。木々に囲まれた坂道を十五分ほど進んでいくと、すぐに展望台に到着した。近くを流れる深水川が一望できる。そこにある看板の前に、槙永は立った。ハイキングコースとして、登山道がいくつか紹介されている。車道側から歩いてくる分には、十分登山と称して良い距離と標高となる。
(あの写真は、橋の向こうの村が斜めに写っていたから……二番目の道か?)
内心で思案しながら、眼前の風景と看板を交互に見る。木の葉を踏む音が聞こえたのは、丁度槙永が歩き出そうとした時だった。
「あれ?」
その声に視線を向ければ、そこには青辻が立っていた。まさか遭遇するとは考えていなかった為、焦って槙永は後ずさりそうになった。だが堪えて、おずおずと会釈をする。
「やっぱり槙永くんか。奇遇だな! 俺は昨日から、ここの駅を拠点に撮影をしているんだ」
槙永は言葉に詰まった。槙永はまさにその写真を目にしてこの地に足を運んだのだが、連日撮影をするとは想像していなかったからだ。昨日はここを撮影していたようだから、今日はいないだろうとすら考えていた。会いに来たわけではなく、風景を見たいと思っていただけだったので、動揺してしまう。
「槙永くんは、散歩か?」
「……景色を見に」
「ああ、そうか。好きだと話していたもんな、深水の風景が」
青辻は嬉しそうな笑顔を浮かべると、一人大きく何度も頷いた。
「電車で来たのか?」
「はい」
「じゃあ、今俺が撮影した電車の中に、槙永くんが乗っていたんだな。本当に、奇遇だな」
偶然とは言い難いから、槙永は気恥ずかしくなった。だが――話す機会はもう無いかもしれない。そう考えて、少しだけ勇気を出してみる事にした。
「……青辻さんの写真を拝見して、ここに来てみたんです」
すると青辻が目を丸くした。スッと通った鼻梁を傾げ、顎に手を添えてから、青辻が幾ばくか考えるような顔をした。
「ああ、もしかして、俺のサイトの? 昨日更新した奴か?」
「……はい」
「嬉しいな。見てくれたのか」
目を輝かせた青辻は、それからカメラに触れつつ、槙永の隣まで歩み寄った。彼は視線を深水川へと向ける。
「良い所だろ? この辺り」
「はい」
「――俺が写真家だと聞いて、気を遣わせたか? 見てくれたなんて」
「いえ……」
「正直に言って良いんだぞ?」
青辻の言葉に苦笑が滲んでいるのを感じ取り、慌てて槙永は俯いた。
「本当に、その……綺麗でした」
我ながら語彙力が無いと感じ、槙永は思わず目を閉じた。ただでさえ緊張から上手く言葉が出てこないのに、会話の相手は憧れの青辻本人だ。何度も何度も写真を見ているのだが、上手く感想を言語化する事が出来ない。
「……二年半くらい前に」
「ん?」
「初めて拝見したんです、青辻さんの写真を」
「俺の事を知っていたのか?」
「はい。それで、深水という土地を知りました」
槙永はそれでも、『正直に』と言われたからと、抑揚のない声音ではあったが、事実を語ってみる事にした。必死で喉を叱咤し、声が震えてしまわないように気をつけながら、静かに伝える事に決める。どうせ青辻はまたこの土地を発つのであるし、折角の機会なのだからと、自分を奮い立たせた。
「実際に足を運んで、風景を見て、もっとこの土地に触れてみたいと思いました。それが深水駅を希望した理由です。青辻さんの写真は、だから……とても……綺麗です」
しかし伝えてから、これでは『変』に思われるのではないかと怖くなった。結果、顔を上げられなくなってしまい、槙永は俯いたままで唇を噛む。
「すみません、おかしな話をしてしまって」
青辻が何も言わないのも手伝い、気まずさを覚えて槙永は手を握った。小さな声で謝罪し、どう立ち去ろうか思い悩む。
「おかしい? いいや、おかしくない。ただ、その……嬉しくて」
慌てたように青辻が口を開いた。それに驚いて、漸く槙永が顔を上げると、僅かに赤面している青辻の顔が、正面にあった。青辻は実に嬉しそうに視線を彷徨わせては、それから改めて槙永を見るという動作を繰り返し、唇では弧を描いている。
「本当に、嬉しい」
まさかこんな風に喜ばれるとは思わず、槙永は目を瞠った。すると、青辻が両手を槙永の肩に置いた。
「悪い。嬉しいんだ。あんまり、誰かに直接褒められる事が無くてな」
「え?」
「俺も本当に綺麗だと思ってるんだよ。そんな世界の片鱗を、少しでも良いから切り取る事が出来たらと、日々模索しているんだ。それが、伝わっていたというのが、何よりも嬉しい。分かる、俺も深水の自然が好きだし、自分の写真も好きだ。そうか……届いていたんだな、槙永くんの心に。有難う」
青辻の指に力がこもり、その後顔には満面の笑みが浮かんだ。思わず槙永は、その表情に見惚れた。ドクンと、胸の奥が高鳴った。一度それを自覚した直後、今度は鼓動が早鐘を打ち始めた事に気が付いた。