それから二十分ほど走り、車が小さな三階建てのペンションの駐車場に停車した。一階がレストラン、二階と三階が、オーナーの居住スペースと宿泊施設を兼ねているらしい。
冬季にスキー場がオープンすると、予約でいっぱいになるという話だ。夏季は、避暑をするには夏も暑い土地柄でもあるので、青辻のように都会で縁がある者の宿泊を予約で受け付けているのみとのことだった。
「深水に来る時は、俺は必ずここに泊まるんだ」
そう言って青辻がドアを開けると、鐘の音がした。奇抜なデザインの扉とはめ込まれた窓のペイントは、そこだけ切り抜いても御伽噺に出てきそうな代物だった。
青辻に促されて中に入ると、目を惹く絨毯やインテリアがあり、カウンターの奥にいた青年が振り返った。可愛らしいアップリケが施された黒いエプロンをしているオーナーが、カウンター脇から出てくる。
少し年上に見える青年は、柔和に笑うと片手で席を示した。
「泰孝が人を連れてくるのは初めてだね。ようこそ、歓迎します。この店のオーナーの、常盤偲と言います。今日は、ゆっくりなさって下さいね」
細い目を更に細めて、唇で弧を描いている青年オーナーに、緊張しながら槙永は会釈した。本日の予約客は、青辻と槙永の二人のみらしい。促された窓辺の席に座し、目の前にある皿を槙永が見る。
「メニューは、お任せのみなんだ。最高のものを頼んでおいたから心配しないでくれ」
チラリと見たメニューの金額に、槙永はカードを使えるか聞きたくなった。
割り勘であるならば、手持ちでは足りない可能性が高い。北欧料理の店に足を運んだのは人生で初めてだったが、かなり値が張る。
「青辻さん、あの……カードって使えますか?」
小声でひっそりと聞いた時、丁度飲み物をもって常盤が現れた。
「使えるけど、もう泰孝から貰ってますよ?」
「ああ、食事代か? 槙永くんは気にしないでくれ。誘ったのは俺だ。俺が払う」
「で、でも……」
困惑して槙永は反論しようとしたのだが、手持ちが無いので言葉にならない。すると常盤が楽しそうに笑った。
「おごらせておけば良いんですよ。泰孝は、こう見えて、セレブリティって奴ですしね」
「否定はしないが、俺は好きじゃない奴にはおごらないぞ」
「おやおや。では、僕は毎回ご馳走になっているので好かれていると思って良いのですか?」
「おい偲! 槙永くんの前で語弊がある言い方をする必要性があるのか?」
「恋のエッセンスでしょう?」
「はぁ? 邪魔だ邪魔。必要以上に近づくな」
「どうしましょうかねぇ。何度も見に来てしまうかもしれません」
「その度に、料理を持ってくるならば、かろうじて文句は言わない」
実に親しそうな二人のやり取りを見て、槙永は少しだけ胸が痛くなった。何度も宿泊しているなどの理由があるのかもしれないが、そもそも呼ばれ方からして違う。オーナーは苗字ではなく、『偲』と下の名前で呼ばれているが、槙永は苗字だ。そんな事すら気になってしまう。それだけ槙永は、青辻を意識していたし、既に好きになっていた。
「どうかしたか?」
常盤がカウンターの向こうの厨房に下がった時、青辻が首を傾げた。慌てて槙永は姿勢を正して首を振る。
「い、いえ……素敵なお店だと思って」
実際、それは本音でもあった。窓枠にも小物が飾られている。まるでおもちゃ箱の中に入ったような印象を与えるレストランだ。
「嘘だな。これでもな、俺だって相応に、槙永くんの事をここの所見ていた自信がある。その仏頂面の中にも、感情の機微をそれなりに見出せるようになったという自負があるぞ」
「……いえ、本当に素敵なお店だと思ってます」
「その部分は本音にしろ……今、嫉妬してただろ? 俺と偲の仲に」
「な」
「その反応、図星だな。やっぱり、慣れてくると分かりやすいな」
「だ、誰かに聞かれたら……」
「今日は俺達しか客はいないし、偲には『話してる』」
その言葉に驚愕して、槙永は目を見開いた。
「偲は俺の従兄なんだよ。ただの親戚だ」
「!」
「家族にも紹介するくらい、俺は槙永くんに対して本気だ。そう取ってもらっても良いし、心配は不要だと考えてもらっても良い。偲の口は堅いぞ?」
事態への理解が追い付かず、槙永は動揺した。厨房に見える常盤の姿をチラリと観察してから、声を潜めて青辻に問う。
「本当ですか?」
「俺は嘘が嫌いだ」
「……本気って、どういう意味ですか?」
「そこから解説が必要なのか?」
槙永は期待を込めて、それなりに勇気を出して尋ねたのだが、青辻は余裕たっぷりに笑うと、そんな風に述べた。躱されたように感じて、顔を背けて槙永は窓の外を見る。他にも、訊きたい事はあった。
「青辻さんは、いつまで深水にいるんですか?」
「いつも気分で移動しているが……そうだな。次の大きな仕事は九月の下旬に控えているんだ。どうしても俺にと、言ってもらっていてな。俺はその期待に応えたいと思ってる」
思いのほか、すぐに旅立つという知らせを聞き、槙永の胸中がざわついた。
そこへ料理が運ばれてきた。
常盤が並べる皿を見ながら、前回の青辻は、二年半この界隈に来訪しなかったのだったという話を思い出す。住む世界が違う以上、会えなくなるのは仕方がない事だ。ただそれと同じくらいに、親しげな青辻と常盤の様子に胸が苦しくなった。己は、下の名前すら知られてはいないだろう。名前で呼ばれる日が来る事も無いはずだ。そう思えば、胸がジクジクと痛む。
「味はどうだ?」
食べ始めてから、フォークを片手に持った青辻に尋ねられた。胸が痛くて、槙永は笑顔を浮かべる事に必死になる。
「美味しいです」
実際、普段の簡素な食生活に比べれば、料理が美味なのは間違いない。
けれど、青辻が行ってしまうのだと思えば、味わう余裕などどこにも無かった。だから青辻がいつものように世間話を振ってきても、だいぶ慣れたはずなのに、どこかぎこちなくなってしまい、上手く返答出来ない。
今後訪れるだろう別離による寂寞への危惧と些細な嫉妬心が、心を蝕む。
「――槙永くんは、社宅に住んでいるんだろ?」
青辻の言葉で我に返ったのは、常盤が食後のコーヒーを持って訪れた直後の事だった。顔を上げ、槙永は頷く。
「駅員さんがどんな家に住んでいるのか、見てみたい」
「構いませんけど……何もありませんよ?」
「お。それは遊びに行っても良いというお許しだな?」
「ですから、それは構いませんけど……」
「隙だらけはどうかと考える。そう前にも話したと思うけどな。俺は傷つけたくないし、傷つきたくもないから事前に言うが、槙永くんの家に行きたいと話してる」
「え?」
「俺を嫌いなようには見えないが、今日は終始暗い槙永くんに訊きたい。行ったら、俺は何もしない自信は無いぞ?」
その言葉に、意味を理解し、反射的に右手で唇を覆う。それから思わず、チラリと常盤を見た。
「俺なんかより、ずっと美人があそこに立っているんじゃ?」
「嫉妬をしてもらうと気分は良いが、あれはただの従兄だ。しいて言うならオブジェだ」
「聞こえていますからね」
槙永の声は小声だったが、青辻の声音はいつも通りの大きさだったからなのか、きっぱりと常盤から返事があった。槙永が思わず咽る。すると青辻が片目だけを細くした。
「この後、出かけてくる」
「まだ槙永さんは同意していないのでは?」
「今から同意を取り付ける。槙永くん、良いだろ?」
赤面した槙永は、混乱しながらも、無意識に頷いていた。