コンビニまで車で四十分。
 ここは、そんな田舎だ。

 空には天然記念物が飛んでいて、町の大部分は森林で、交通手段といえば小さな駅が一つきり、それが深水町である。槙永和泉は、駅員の制服の襟元を正してから、券売機へと歩み寄った。泊まり勤務後の朝は、気怠い。券売機の電源を入れるのは、泊まり勤務の人間の仕事だ。

 眞山鉄道深水線の終着駅、それがこの深水駅である。私鉄の駅で、清掃業者等も入らない為、全ては駅員の仕事となる。朝焼けの空を窓から一瞥した後、槙永は視線を下ろした。茶トラの猫が、槙永の足にすり寄ってくる。フキという名のこの『猫の駅長』は、二年前にここへと着任した槙永よりも、ずっと駅構内を熟知している様子だ。

 フキに餌を与えてから、槙永は自動販売機の前に立つ。そしてブラックの缶コーヒーを一つ購入した。現在のように夏でも、槙永はホットばかりを飲んでいる。あまり甘いものは好まない。嫌な事を思い出すからだ。

 始発は朝の六時であり、もうじき電車がやってくる。始発への対処は、泊まり勤務と日勤の、駅員の仕事だ。三人体制の私鉄のこの駅では、残りの一人は休暇となる。シフト制で、臨時で別の駅から人が派遣されてくる事もある。そうしたシステムは、槙永がここへ来る前、新卒で就職した都会の鉄道会社とは、だいぶ異なる体制だった。

「おはようございます」

 その時声をかけられて、槙永は顔を上げた。

 見ればシャッターと鍵を開けたばかりの出入口から、一人の青年が駅に入ってきた所だった。

「……おはようございます」

 槙永は笑顔を浮かべるでもなく、義務的に返答した。不愛想な口調になってしまったのは、人付き合いを忌避しているからだ。それでも乗車客には相応の対応が求められる。それが駅員という仕事だと、槙永は考えている。

「新顔さんだな。眞山の営業所から来てるのか?」

 単なる挨拶だと考えていたら、笑顔の青年に話しかけられたので、槙永は顔が引きつりそうになった。世間話に興じるのも苦手だ。

 カメラを手にしている青年を見て、俗に撮り鉄と呼ばれる趣味の持ち主だろうかと考える。

「所属は、眞山営業所です」

 なおそれは、槙永だけではない。駅長である田辺も、後輩の澤木も、皆が眞山営業所から派遣されて、深水へと着任している。

 深水駅は、私鉄としてはそれなりに有名だ。時にはイベントで古い列車が走る事もある。

 その為、写真の撮影に訪れる観光客が珍しくはない。それも繰り返し訪れる人間が、少なからず存在する。

「そうか。俺は今回、二年半ぶりに来たんだ」

 彫りの深い顔立ちをした青年は、薄い唇の両端を持ち上げると、瞳を輝かせた。服装こそ身軽ではあるが、身につけている小物は値の張りそうな品ばかりだ。落とし物をしないと良いなと、内心で槙永は祈った。

「少し駅の撮影をしても良いか?」
「どうぞ」

 簡潔に許可を出してから、槙永は駅員室へと戻った。そして少し温くなってしまった缶コーヒーをテーブルに置く。溜息を零しそうになったが、コーヒーと共にそれを飲み込んだ。人付き合いをしたくないというのは、駅員にとっては致命的かもしれないと、槙永は思い悩む事がある。だが正直、他者が怖い。特に自分の事を知られたくない。

 片手で黒髪を梳き、槙永は同色の目を、じっと缶に向ける。

 それから改めて駅構内へと続く窓口から待合室を見れば、ポツリポツリと始発を待つ客達が姿を現し始めた。その多くは、深水町の人間だ。高齢者が多い。

「すみません、遅くなりました!」

 勢いよく扉が開いたのは、槙永が丁度コーヒーを飲み終えた時の事だった。首だけで振り返れば、駅員専用の出入口から、本日の日勤の澤木が顔を出していた。今年で二十四歳の駅員で、槙永が眞山鉄道に就職して出来た初めての後輩だ。

 時計を見れば、日勤の始業時間である五時半の一分前だった。遅刻ではないが、多くの場合、早めに出勤するのが日勤の常だ。

「おはようございます!」
「おはよう」

 澤木とはもう一年ほど一緒に働いている。だいぶ会話にも慣れた。

 無表情が多く、淡々としていてどこか冷たい印象を与える槙永に対しても、澤木は明るく接してくれる。少し幼く思える部分もあるが、元気な澤木との会話は、槙永にとって貴重な日常風景の一つだ。

 その後は二人で仕事を分担し、無事に始発の発車時刻を迎えた。

 去っていく電車をホームで見送り、細く長く吐息をし、槙永は空を見上げる。これで本日の勤務は終わりだ。

 槙永が駅員室へ戻ると、澤木がテーブルに体を預けて、大きく溜息をついていた。

「朝は本当に忙しないっていうか」
「……そうだな」

 答えながらも、満員電車の対応に追われていた過去を思い出し、槙永は複雑な気持ちになる。本日の乗車客の数は六人しかいなかったが、それでも今日は多い方だ。

「あーあー。俺も早く、眞山の営業所に移動したいです。もうやだ、この田舎。慢性的な人手不足だし!」

 澤木が疲れたような目をしてぼやいた。

「都会に行きたいです、俺!」

 黙々と澤木の言葉に耳を傾けながら、槙永は泊まり勤の引き継ぎ用の資料を見る。既に起床後に作成していたので、後はサインをするだけだった。

「槙永さんは、都会から来たんですよね? 田舎過ぎて嫌になりませんか?」
「別に」

 淡々と返しながら、槙永は印刷した資料にペンを走らせる。

 多くの場合、深水駅の駅員は、新人の内に派遣されてきて数年業務を行った後、別の任地に移動になる。駅長の田辺をはじめ、希望してこの地に配属してもらった場合だけが例外となる。槙永は、希望して深水へとやってきた、そんな例外の一人だ。

 都会から来た――と、澤木は表現したが、槙永自身は、『来た』のではなく『逃げてきた』のだと考えている。この深水が、現在の安住の地だ。もう、都会に戻る予定は無い。

「俺はずっとここにいるつもりだよ」
「それが本当に信じられません。俺なんて、実家が深水町だって伝えたら、数年働けって言われて強制的にこの駅に配属されましたよ? もう、嫌だ……俺の夢は、格好良い車掌になる事だったのに!」

 駅員として勤務した後、乗務員になる事は多い。実際、澤木の夢は叶うのではないかと、槙永は考えている。項垂れている澤木を見る槙永の瞳が、心無しか優しくなった。自分と澤木は、『違うな』と思わせられる。澤木には夢がある。

 退勤後、槙永は静かに帰路を歩いた。