「……ああ、もう」

 扉が閉まったのを確認してから、俺は両手で顔を覆って、その場にしゃがみこんだ。
 ――嬉しい。
 操に、『美味しい』と言ってもらえた事が、死ぬほど嬉しい。

「でも、あの馬鹿。人の気持ちも知らないで」

 それから今度は、口と鼻を両手で覆い、俺は赤面したままで、情けの無い顔をしてしまった。からかわれたのだとは分かっているが、あんな風に口説くような事を言われると、心臓に悪すぎる。ドクンドクンと煩い鼓動を落ち着けるべく、俺は必死で呼吸をした。

 やっぱり俺は、操が好きらしい。いいや、そんな事は中学生の頃から自覚していたが、想いが溢れかえってきて、苦しい。茶色の髪を揺らして、真剣に俺を見ていた操のアーモンド型の眼を思い出す。その瞳に自分が映り込んでいるような錯覚に陥ったほどだ。

「……」

 俺はその場で暫く、操の事を考えていた。どれくらいの間、そうしていたのかは分からない。次に我に返ったのは、扉が開く気配に気づいた時だ。慌てて姿勢を正し、俺はそちらを見る。吐息してから、俺は声を出した。

「いらっしゃいませ――……っ」

 そして訪れた人物が客ではないとすぐに悟り、息を呑んだ。
 そこに立っていたのは、俺が借金をしている銀行の担当者である、登藤だった。

「やぁ、月芝さん」
「……返済の件でしたら――」
「もう待てないんです。お分かりですよね?」
「……」
「何度お電話を差し上げても、埒が明かない。そこで忙しい合間を縫って、わざわざここまで来たんですよ、俺は」
「……」
「だんまり、ですか」
「……申し訳ありません。もう少しだけ、その……」

 俯きながら俺が述べると、登藤が一歩前へと出た。そして、少し屈んで俺の顔を覗き込んできた。

「医療費が大変だというのは、こちらも承知していますよ」
「……」

 周囲には喧伝しないようにしていたが、登藤にだけは事情を話すしかなかったので、俺は目を見据え返す。すると、登藤が二ッと唇の片端を持ち上げた。

「そこで、ご提案なのですが」
「提案……?」
「銀行からはこれ以上融資は困難ですし、お待ちする事も出来ません――が、俺が個人的に工面する事は可能だ。何せ、月芝さんとはこれでも、保育所から中学までが同じでしたしね」
「どういう意味でしょうか?」
「先輩として、個人的に助けてやれるという話ですよ」

 俺には、一学年上だという登藤の記憶は全然無いが、宮生町には一個ずつしか、保育所も小学校も中学校も無いので、多分本当に先輩だったのだろうとは思う。

「ですからその、個人的にというのは……?」
「俺の母方は、闇金をしておりまして」
「――え?」
「ただし、クリーンな闇金です」
「?」

 クリーンな闇金という言葉に、俺は困惑した。闇金融というのは、膨大な利子を請求してくるイメージである。

「代償次第で、利子も担保も無しに、お金をお貸ししているんですよ。結構、多いんですよ。俺の所から借りて、銀行への返済に充てる方」

 ニタリと嗤っている登藤の声に、俺は眉根を下げたまま、その顔を見上げる。背丈は俺とそう変わらないが、登藤の方が肩幅が広いので、大柄に見える。

「代償というのは?」
「単刀直入に言います。いやぁ、月芝さんは非常に美しい」
「?」

 何を言われているのか、俺は理解出来なかった。

「その体、返済が終わるまで、俺に差し出してくれるのであれば、お貸ししますよ」
「え? 体? それは、何らかの肉体労働などを……?」
「ある意味では、そうなりますねぇ。ああ、まどろっこしい。月芝、はっきり言う。俺に抱かれるなら、金を貸してやるぞ」
「っ、え? 何を言って――」
「簡単な話だ。俺に抱かれて喘ぐなら、お前の両親の医療費を肩代わりしてやるという話だ。保育所の子供でも分かるんじゃないか?」

 呆気にとられた俺は、口調が変わった登藤を凝視してしまった。

「俺に抱かれろ、体を差し出せ。そうすれば、金を貸してやる」
「十朱くん、忘れ物し――は?」

 その時、月芝亭の扉が開いた。一気にガラガラと音がして、そこに操の姿を俺は認めた。反射的に振り返ったのは登藤も同じで、登藤は操の姿を見ると、姿勢を正し、吐き捨てるように笑った。

「――銀行からの融資の話は、以上となります。月芝さん、良いお返事、期待していますよ。来週末までには、連絡をお願いしますね。こちらからも、ご連絡させて頂きます。それでは」

 取り繕った登藤は、そう言うと、軽く操に会釈し、その脇をすり抜けて店を出ていった。
 操は眉を顰めて、その背中を見た後、呆然としていた俺の前に立った。

「ねぇ、何の話?」
「……なんでもない」
「なんでもなくない。僕じゃ頼りにならない?」
「別に。ただこれは、月芝亭の問題で――」

 俺が顔を背けようとしたその時、操がぐいと俺の腰を片腕で抱き寄せた。咄嗟に仰け反ると、顔をより近づけられた。

「ふぅん? じゃあ、どうしておばさんとおじさんの事、話してくれなかったの?」
「え?」

 どうして知っているのだろうかと驚いた時、どこか切なそうな顔をして、操がもう一方の手で俺の顎を掴んだ。

「そういうのも色々ショックで、話を聞きたいというのもあって、比較的どうでも良い忘れ物だったんだけど、取りに来て――正解だった。ねぇ、本当に、どういう事? 聞こえちゃったんだけど。体って何? 抱かれろって、どういう話? お金ってどういう事?」

 不機嫌そうに両眼を細くした操が、じっと俺を見据えている。身動きを封じられたに等しくて、俺は逃れられない。それに――突然の事態に意味が分からず困惑しているのは俺も同じであるし、何より大好きな操の顔を見ていたら……色々な感情がこみ上げてきた。

「っ……登藤が」
「うん。やっぱりさっきの登藤だよね? 一個年上だった嫌な奴」
「……今、俺の両親は入院していて……っ」

 つい、俺は説明しようとしたら、気づいたら涙ぐんでしまった。いい年をした男が泣くのもどうかと思うが、堰を切ったように悲しみが溢れてくる。

「うん。うん。ゆっくりで良いから。きちんと話して」

 そんな俺の背を、あやすように操が撫でた。その感触が優しく思えて、ギュッと目を閉じたら、俺の双眸から涙が零れた。

「銀行からお金を借りたんだ。その担当が、登藤で……返済できそうにもなくて……待ってほしいという話をしていたら……っ、自分に抱かれたらクリーンな闇金が融資を……を、と……」
「クリーンな闇金? そんなものはない。あり得ない」
「でも、お金が無いと……っく……」
「じゃあ、十朱くんは、登藤に抱かれるつもりなの?」
「嫌に決まってる、そんなのは嫌だ。でも、他にどうしようも無い……っ」

 気づくと俺はボロボロと泣いていた。そんな俺を、操が両腕で抱きしめた。俺の肩に操の顎がのる。柔らかな髪が、俺の頬に触れた。俺はもう、涙が止められない。

「なぁ、操」
「ん?」
「――お前、本当にバイなのか?」
「うん? まぁ、それはそうだけど、それが?」
「俺が相手でも勃つか?」
「へ? そりゃ当然、余裕だけども? どうして?」
「俺、俺は……初めては操が良い」
「えっ」
「操が良い。操、俺を抱いてくれ」
「十朱くん?」
「ずっと……俺、ずっと操が好きだったんだ。どうせ誰かに抱かれるなら、操が良い。一回だけで良いから……頼む」

 涙を流しながら俺は頼んだ。もし本当に、登藤が俺を抱く気なのだとしたら、きっとその噂は広まるだろうし、もう露見しても良い。俺は、もう操への気持ちを抑えられない。

「自暴自棄になるな、とか、色々言いたい事はある。でも、だよ? 僕、据え膳は迷わず頂く方なんだ。十朱くんは、本当に、僕の事が好き?」
「……ああ。好きだ」
「ずっとって、いつから?」
「キャンプファイヤーをした時だ。中学の頃だ。悪い、気持ちが悪いだろうな」
「いいや? 最高に気分が良いよ。え、じゃあ、何? 僕らって、両想い?」
「? 両想い?」
「だって、僕も十朱くんの事好きだし。うーん、そうだなぁ。じゃあ、とりあえずは、まずは、十朱くんの望み、叶えよっか?」
「俺を抱いてくれるのか?」
「勿論。僕は、ずっと十朱くんの事、押し倒したかったんだから」

 それを聞き、俺はこれが、操の優しい嘘でも構わないと思いながら、小さく頷いた。


 ――俺の呼吸が落ち着き、泣き止むのを操は待っていてくれた。その後、俺は手の甲で涙を拭いてから、奥へ通じる路を見た。裏口に通じていて、そこを抜けると、蕎麦打ち場と、普段暮らしている母屋がある。俺は念のため、暖簾を下ろしてから、待っていた操に声をかけた。

「……ついてきてくれ」
「うん」

 俺は操を促し、母屋の己の部屋へと向かった。
 簡素な布団が敷いてある。

「風呂、入ってくる」
「いいよ。僕、気にしないから」

 そう言った操に驚いて、振り返ろうとすると、そのまま両手首を掴まれて、俺は押し倒された。息を呑むと、どこか獰猛な瞳で見据えられる。それは、いつかテントで戯れに転がった時にも見た事のある色で、俺が一瞬で恋に落ちた瞳と同じだった。

 ぺろりと舌で唇を舐めた操は、俺の和服をそれからすぐに乱した。そしていつもの穏やかさが嘘のように、激しく俺の首の筋にかぶりついた。

「!」

 俺はいつか操に抱かれたいという願望はあったし、同性に貫かれたいという願望を持ってはいたが、経験は無い。だからビクリとして、ガチガチに緊張してしまった。ここの所、両親の事もあり、一人では全然処理をしていなかった事も大きいのかもしれない。

「――大丈夫だからね、十朱?」

 いつもは、『十朱くん』と呼ばれるから、俺は不思議な気分だった。