秋刀魚が美味しいと言っていた季節からあっという間に霜の降る季節になった。
年明けと共に恭枋は本家の当主となる。領民には前祝いということで冬支度の品々が届けられていた。
お礼を言いに来た領民に新年を祝う鬼の刺繍を配ったところ、大層珍しかったようで忽ち噂になる。
この地域は晴れ着と言えば友禅なので、凝った刺繍というものに縁遠かったそうだ。
花狩灯が縫ったものは複雑な文様ではなかったのだが、それが却って自分たちにも出来るのではないかという気持ちにさせたらしい。冬籠もりの間に女たちに刺繍を伝授してくれないかと陳情がきた。
恭枋は悩んでいた。本家から分家の領地は程々に遠い。雪道を女の足で踏み越え行くのは難しいのではないか、と言われ花狩灯は笑い飛ばす。
腐っても鬼である。雪道であろうとも花狩灯にとっては半刻ほどの距離、通うことは苦ではなかった。
それを伝えると「新妻に捨てられてしまうのですね」と少々芝居掛かった風に言われ、毎日行こうとしていたところを週に一回に領地に行くということになった。今の所はまだ分家にいるので屋敷でそのまま開催である。
今日は初めての刺繍の日。
この日のために刺繍道具を取り寄せ準備をしてきた。屋敷に女たちを招き、刺繍の図案を見せるところから始める。
「この図案は鬼における吉祥の文様です。鬼は襦袢の見えないところに縫い、新年と共に毎年襦袢を新しくします。皆さんは毎年は難しいかもしれませんが、来年の襦袢の生地はこちらで用意しました」
わあ、と歓声が上がる。
これは鬼の頭領に言って用意してもらった物だ。頭領は人と鬼の交流を望んでおり、襦袢にしては少々
上等な生地を送ってきた。
刺繍して仕立ててとしていれば新年には間に合わないかもしれないが、冬の間の手慰みだと思えば丁度いいだろう。
その様子を恭枋が眺めている。
刺繍を教えている姿が見たいと言われ、もしや領民の首を刎ねることを心配されているのではないかと思った。普段から面倒ごとがあれば首を刎ねればいいだろうと思っている節は確かにある。
しかし彼が言うには、花狩灯が領民と触れ合って笑顔でいるのが嬉しいそうだ。
そう言われれば励むしかない。
刺繍台の基本的な使い方を教え終わったところで正午になった。
握り飯持参で来てもらっているが昼飯の無いものがいないか気を配る。問題無さそうなので、女たちに豚汁を振る舞った。
花狩灯は恭枋と共に握り飯と豚汁と漬物を頂く。
朝食を作るついでに糠床の世話をしているのだがいい出来だ。
「花、お弁当がついていますよ」
「あらやだ。どちらに?」
答えの代わりに米粒を取られ食べられる。
普段厳つい顔を綻ばせる姿は歳より少し幼く見える。ときめいた。
女たちの「お熱いことねぇ!」と盛り上がっている声が届いた。
口づけしている訳でもあるまいし、正直言う程かと思う。しかしこういう時に一緒に話に乗ってあげるのが出来た妻だと参考書に書いてあった。
「恥ずかしいです、旦那様」
「恥じらう姿も愛らしいですね」
返り討ちに遭った。
女たちに話題の提供は出来たのだが、この人は思ったことをそのまま言う人だと考えると動悸がする。
愛される妻も領主の妻の役目、と念じ恥ずかしさが何処かへ行くことを誰かに祈った。
動悸が収まる頃には昼食は終わり、午後の刺繍の時間になる。
刺繍台の実演をして今日は終わった。
女たちが帰った後、片付けをして自分の作業に取り掛かる。
目標は新年のお披露目までに錦の羽織に刺繍を施すことだ。これは本家を恭枋が継ぐことになった時からこつこつ取り掛かっている。
針を黙々と運んでいると脇の卓に湯飲みが置かれた。
「旦那様、申し訳ありません! お茶を淹れさせてしまって」
「お茶くらい用意出来ます。根を詰め過ぎのように見えましたので」
確かに目が重たいような感覚がする。
どうしても間に合わせたくて気が急いてしまうのだ。
「それにしても素晴らしいですね。将軍家の羽織と言われても納得します」
「一万石ともなれば舐められたらお終いです。それに旦那様を飾り立てたくて」
縫った糸を指先で辿り、羽織を纏った恭枋を想像して微笑む。
「飾り立てたいのは花ですよ。披露目では一等素晴らしい梅の友禅を纏ってもらいます」
「まあ、よろしいので」
刺繍を手習いとしてやってきたので友禅はとても新鮮だ。
新春にぴったりの柄でもあるし心が弾む。
「鬼の刺繍を纏う人間の領主と、人間の友禅を纏う鬼の妻。とても釣り合いが取れているでしょう」
心底愛おしそうに見詰められ、花狩灯は目を伏せる。
触れるだけの口づけに酔ってしまう。
「いけません、そんなに男を誘っては」
「旦那様が誘っておいでなのです」
そのまま畳の上に寝転がって手を重ねる。
「お慕いしております、恭枋様」
そっと重ねるだけの手を、互いに握り合った。
「愛しています、花狩灯姫」
指先が溶け、ふたりが満たされるまで睦み合って過ごした。
翌年、恭枋は本家深田を継いだ。
美しい鬼女花狩灯を伴って、一万石の大名に名を連ねる。
鬼の頭領からは祝いだと言って、正勝の悪事を連ねた文書を送ってきた。その中には恭枋の両親を謀った罪も記載されており、頭領の「いいようにしよう」という言葉に諾を送った。
恭枋と花狩灯の間には子供が生まれ、あまりにもぽんぽん子供が生まれることからそのうち子宝と安産の御利益の化身と言われるに至ってしまった。
空は高く、風がそよぎ、子供たちの笑い声が響く。
鬼女は自由を謳歌しながら、最期の時まで旦那様に尽くしましたとさ。
めでたし、めでたし。
年明けと共に恭枋は本家の当主となる。領民には前祝いということで冬支度の品々が届けられていた。
お礼を言いに来た領民に新年を祝う鬼の刺繍を配ったところ、大層珍しかったようで忽ち噂になる。
この地域は晴れ着と言えば友禅なので、凝った刺繍というものに縁遠かったそうだ。
花狩灯が縫ったものは複雑な文様ではなかったのだが、それが却って自分たちにも出来るのではないかという気持ちにさせたらしい。冬籠もりの間に女たちに刺繍を伝授してくれないかと陳情がきた。
恭枋は悩んでいた。本家から分家の領地は程々に遠い。雪道を女の足で踏み越え行くのは難しいのではないか、と言われ花狩灯は笑い飛ばす。
腐っても鬼である。雪道であろうとも花狩灯にとっては半刻ほどの距離、通うことは苦ではなかった。
それを伝えると「新妻に捨てられてしまうのですね」と少々芝居掛かった風に言われ、毎日行こうとしていたところを週に一回に領地に行くということになった。今の所はまだ分家にいるので屋敷でそのまま開催である。
今日は初めての刺繍の日。
この日のために刺繍道具を取り寄せ準備をしてきた。屋敷に女たちを招き、刺繍の図案を見せるところから始める。
「この図案は鬼における吉祥の文様です。鬼は襦袢の見えないところに縫い、新年と共に毎年襦袢を新しくします。皆さんは毎年は難しいかもしれませんが、来年の襦袢の生地はこちらで用意しました」
わあ、と歓声が上がる。
これは鬼の頭領に言って用意してもらった物だ。頭領は人と鬼の交流を望んでおり、襦袢にしては少々
上等な生地を送ってきた。
刺繍して仕立ててとしていれば新年には間に合わないかもしれないが、冬の間の手慰みだと思えば丁度いいだろう。
その様子を恭枋が眺めている。
刺繍を教えている姿が見たいと言われ、もしや領民の首を刎ねることを心配されているのではないかと思った。普段から面倒ごとがあれば首を刎ねればいいだろうと思っている節は確かにある。
しかし彼が言うには、花狩灯が領民と触れ合って笑顔でいるのが嬉しいそうだ。
そう言われれば励むしかない。
刺繍台の基本的な使い方を教え終わったところで正午になった。
握り飯持参で来てもらっているが昼飯の無いものがいないか気を配る。問題無さそうなので、女たちに豚汁を振る舞った。
花狩灯は恭枋と共に握り飯と豚汁と漬物を頂く。
朝食を作るついでに糠床の世話をしているのだがいい出来だ。
「花、お弁当がついていますよ」
「あらやだ。どちらに?」
答えの代わりに米粒を取られ食べられる。
普段厳つい顔を綻ばせる姿は歳より少し幼く見える。ときめいた。
女たちの「お熱いことねぇ!」と盛り上がっている声が届いた。
口づけしている訳でもあるまいし、正直言う程かと思う。しかしこういう時に一緒に話に乗ってあげるのが出来た妻だと参考書に書いてあった。
「恥ずかしいです、旦那様」
「恥じらう姿も愛らしいですね」
返り討ちに遭った。
女たちに話題の提供は出来たのだが、この人は思ったことをそのまま言う人だと考えると動悸がする。
愛される妻も領主の妻の役目、と念じ恥ずかしさが何処かへ行くことを誰かに祈った。
動悸が収まる頃には昼食は終わり、午後の刺繍の時間になる。
刺繍台の実演をして今日は終わった。
女たちが帰った後、片付けをして自分の作業に取り掛かる。
目標は新年のお披露目までに錦の羽織に刺繍を施すことだ。これは本家を恭枋が継ぐことになった時からこつこつ取り掛かっている。
針を黙々と運んでいると脇の卓に湯飲みが置かれた。
「旦那様、申し訳ありません! お茶を淹れさせてしまって」
「お茶くらい用意出来ます。根を詰め過ぎのように見えましたので」
確かに目が重たいような感覚がする。
どうしても間に合わせたくて気が急いてしまうのだ。
「それにしても素晴らしいですね。将軍家の羽織と言われても納得します」
「一万石ともなれば舐められたらお終いです。それに旦那様を飾り立てたくて」
縫った糸を指先で辿り、羽織を纏った恭枋を想像して微笑む。
「飾り立てたいのは花ですよ。披露目では一等素晴らしい梅の友禅を纏ってもらいます」
「まあ、よろしいので」
刺繍を手習いとしてやってきたので友禅はとても新鮮だ。
新春にぴったりの柄でもあるし心が弾む。
「鬼の刺繍を纏う人間の領主と、人間の友禅を纏う鬼の妻。とても釣り合いが取れているでしょう」
心底愛おしそうに見詰められ、花狩灯は目を伏せる。
触れるだけの口づけに酔ってしまう。
「いけません、そんなに男を誘っては」
「旦那様が誘っておいでなのです」
そのまま畳の上に寝転がって手を重ねる。
「お慕いしております、恭枋様」
そっと重ねるだけの手を、互いに握り合った。
「愛しています、花狩灯姫」
指先が溶け、ふたりが満たされるまで睦み合って過ごした。
翌年、恭枋は本家深田を継いだ。
美しい鬼女花狩灯を伴って、一万石の大名に名を連ねる。
鬼の頭領からは祝いだと言って、正勝の悪事を連ねた文書を送ってきた。その中には恭枋の両親を謀った罪も記載されており、頭領の「いいようにしよう」という言葉に諾を送った。
恭枋と花狩灯の間には子供が生まれ、あまりにもぽんぽん子供が生まれることからそのうち子宝と安産の御利益の化身と言われるに至ってしまった。
空は高く、風がそよぎ、子供たちの笑い声が響く。
鬼女は自由を謳歌しながら、最期の時まで旦那様に尽くしましたとさ。
めでたし、めでたし。