年季の入った屋敷に何処から手入れしようか悩んでいた午前。
 外出の用意をした恭枋に声を掛けられる。

「領地を回るのですが、一緒に行きますか?」

 その一言に感動した。
 彼は花狩灯を女主人として扱おうとしている。

「はい! もちろんです!」

 喜んでいそいそと訪問着を引っ張り出した。
 私室で用意していると、部屋の外から声を掛けられる。

「あなたは手助けは必要ないですか?」

「大丈夫ですよ」

 朝食の時の様子から、恭枋は情をまだ感じていない。
 義理だけにしては優しい声掛けをしてくれて嬉しかった。
 藤の着物を手に取り手早く着付け、角隠しを頭に乗せる。
 部屋から出ると、彼は驚いた様子である。

「領民のところを適当に歩くだけですよ」

 言外にもっと砕けた格好でもいいのにと言われた。

「いいえ、旦那様の領地領民と初の顔合わせですもの。少しばかり気合いを入れました」

 貧乏なのだけれどなぁ、というぼやきは聞かなかったことにした。
 困窮の度合いによっては花狩灯の持ち物を売ってもいい。そんなことを口にすればいくら恭枋と言えど卒倒しそうだが。
 ふたりで屋敷を出る。
 手を差し出され嬉々として手を取った。

「あなたには家事より女主人の仕事をしてほしいと思っている。だから手伝いの者を明日から呼び寄せていいでしょうか」

「だめでしょうか、おさんどん」

 たくさん練習してきたので、ちょっと悲しいと思う。

「朝食はとても美味しかったので、朝食を作ってもらえるのは嬉しいです」

 よし、胃袋は掴めたようだ。
 自分の力で攻略するつもりだったが、こうなれば手伝いの者から食の好みを聞き出して胃袋を攻略してやる。

「では、お仕事教えてくださいね」

 恭枋の両親は早くに亡くなっており、仕事を習う相手は彼しかいない。

「いいですよ。まずは領地の検分ですね」

 これで四六時中一緒にいる口実が出来た。
 これからじっくり花狩灯のことを知ってもらえばいいと意気込んだ。


「殿、こりゃまたべっぴんさんをお連れで」

 領民からの反応は概ね好評だったと思う。
 猫の額ほどの領地だが、恭枋が言うほど貧乏には見えなかった。
 話を聞いているうちに、分家深田は困窮している訳ではないのだが本家深田への上納金に苦しんでいるのではないかと思う。
 集まってきた子供たちに鬼でよく流行った手遊びを教えながら聞き耳だけは立てておく。

「鬼とご結婚されたんでしょう。大丈夫なんですかい」

「問題無いよ」

「恐ろしい妖なんじゃなかろうか」

「優しくて素敵なお嫁さんだよ」

 全部聞こえていた。
 領民は好き放題言うだろうという気持ちと、思ったより恭枋から優しい言葉が聞こえる喜び。
 空は高く、風がそよぎ、子供たちの笑い声が響く。
 とても穏やかな世界だった。
 序列に厳しい鬼の世界も、人間の政争も嘘のようだ。

「おひいさま、これであってる?」

 幼子が教えた手遊びを一生懸命再現しようとしている。

「そうよ、はい、せっせっせのよいよいよい」

 付き合ってやると子供たちが列を成した。
 それを見た大人たちが申し訳ないと子供たちを散らそうとしている。

「いいのよ、あなたたち」

「それ、どうやるんです」

 恭枋が隣にやってきた。

「手遊びなんていつぶりですかね」

「教えますから子供たちと遊んでくれますか」

 花狩灯が言うと聞いていた子供たちが口を尖らせる。

「おひいさまがいい!」

 口々に言われ、恭枋が笑い出す。
 大人たちは「殿様になんてことを」と真っ青だ。

「構わないよ。花、教えてください」

 まず一回やって見せて、続いて一緒に手を合わせる。

「せっせっせのよいよいよい。まあ、上手です。では早くしますよ」

 速度を上げたが恭枋は遅れずついてくる。
 限界まで早くしたところで彼が少しもたついた。

「ああ、失敗した」

「でも凄いです。こんなに早く拍子を取ったの初めてではないかしら」

 顔を見合わせ笑い合う。
 窮屈な鬼の世界から解放されて自由を満喫して、花狩灯はとても楽しかった。人間と上手くやっていけるのかもしれないと思った。


 それから六曜が一巡した。
 手伝いには花狩灯が頭を下げて戻ってもらった。気の良い手伝い婦人は無礼を笑って許してくれた。
 朝食は花狩灯が作るようにし、昼間は帳簿を見たり書面の管理をして過ごす。
 ずっと恭枋と一緒にいたが、ある夜「明日は本家に呼ばれている」と口にした。

「深田本家とは、その、関係がよろしくないのでは」

「そう、だからあなたは連れて行きません。あちらは何かあった際に血塗れになるのは自分たちだと理解していないですからね。顔さえ見せれば気が済みますよ」

 作った笑みで少し不安になる。
 しかし本家と分家の関係が厄介なのは鬼の世界でも一緒だ。この程度で心配していたら身が保たないかもしれない。

「わかりました。ちゃんと待っていますからね」

 ちゃんと笑顔で送り出した。
 人間の悪意を忘れて微笑んでいたのだ。
 翌日。
 恭枋を見送って、勉強の振り返りをして一日を過ごした。
 夕方になって手伝いが帰りひとりになる。
 空が真っ赤に染まり、烏の鳴き声が不気味に響く。
 逢魔が時、と人は言うのだったか。鬼である花狩灯には何も恐ろしいことはなかったが、何となく嫌な予感がした。

「花狩灯姫様!」

 表から人の声がする。花狩灯を呼んでいた。
 何事だろう、と素直な気性の領民を思い外に出た。しかし、そこにいたのは領民ではなかった。
 誰何する前に後頭部を強か殴られる。これしきで倒れる花狩灯ではなかったが、誰が首魁か判断するのに役立つだろうと思い気絶したふりをした。

「なぁんだ、鬼ってこんな簡単に倒れるんだな」

「お館様もさぞ喜ぶだろう」

 数人の男が花狩灯を荷車に乗せる。
 この辺りでお館様と言えばひとりしかいない。
 思ったより拙いことになるかもしれないと頬を噛んだ。