亡き母からの贈り物、巾着袋を奪われてから一夜が経過した。

 (まったく眠れなかったわ)

 今は春だというのに外は季節はずれの暑さ。

 肌がじりつくような日差しが容赦なく寝不足の琉生を照らす。

 普段は自由な外出などは許されていないのだが今日は違う。

 『限定の洋菓子を買ってきて。午前中には売り切れちゃうから早く行ってきてね』

 婚約者の新太と観劇デヱトに行く麗が自分の代わりに買ってこいと言いつけたのだ。

 女学院を卒業した琉生の屋敷での立場は完全に使用人だ。

 麗の機嫌を損ねると、その情報が父に耳に入るまでは早い。

 父、冬吾は嫌っていた母に似ている琉生を強く嫌悪している。

 彼の性格を考えればすぐにわかる。

 溺愛している娘、そして時期当主の命令に逆らう者は罰を与える。

 下手な真似をすれば、また面倒なことになる。

 もう意見や泣き言など言えない。

 嫁ぎにもいけない、巫女としての仕事もできない娘を屋敷に置いてくれているだけありがたく思うべきなのだろうか。

 そんなことをハイカラな柄の包装紙に包まれた箱を両手で抱えながら、ぼんやりと考える。

 朝一番に買いに出掛けたおかげで目当ての洋菓子は手に入れることができた。

 箱の中の洋菓子は琉生以外の三人分しか入っていない。

 麗と新太と父のみ。

 まあ、最初から期待はしていないし渡された代金を見れば一目瞭然である。

 女学生の頃は周囲との付き合いもあるだろうからと定期的に小遣いを貰っていた。

 しかし、麗に身の回りの物を奪われていくたびに代物を買っていたので手元には微々たる額しか残っていない。

 使用人として働いたからって、どうせ給料が発生するわけでもない。

 (これからもっと、やりくりを頑張らないと)

 新品の振袖を仕立ててもらうなんてもってのほか。

 他の使用人からお仕着せを譲ってもらったり服の破れやほつれは裁縫で繕ったりしなければ。

 (本当は巾着袋だって、あの程度だったら何とか補修して直ったのに……。お父さまが捨ててしまったから、もう欠片も残っていないわ)

 足を止めて、やるせなさを感じたまま真っ青な空を見上げる。

 ゆったりと流れる白い雲にでさえ羨ましく思える。

 風の吹くまま、誰にも縛られずに身を任せる雲。

 (わたしも、ああなりたい。もしくはお母さまの傍に──)

 洋菓子を持って屋敷に帰っても、どうせ「ありがとう」の一言も言われない。

 今までだってそうだ。

 物をあげてもお使いを頼まれても、礼の言葉も対価もない。

 言われたりもらえたりすれば多少の救いになるのだが麗にはそんな優しさはない。

 彼女は自分が中心で生活が回っていると思っている。

 母が亡くなってからは誰も注意をしないので、気遣いもできないわがままを詰め込んだような娘になってしまった。

 (麗やお父さまに支配される生活が続くと思うと嫌になる。でも言いなりになっている自分はもっと嫌)

 このまままっすぐに進めば、屋敷に帰られる。

 もし役目を放置したら?

 ふと一つの選択肢が思い浮かんで足を止めた。

 唯一の味方の母はこの世にいないのだから、たとえいなくなっても誰にも心配されない。

 この洋菓子だって何も今日、持ち帰らなくても再度、他の使用人に頼めばいい。

 どうして早く気がつかなかったのだろう。

 そう考えるだけで不思議と肩の荷が軽くなったような気がした。

 (そうだわ、お母さまが眠る場所に行こう)

 父は母の墓を香森家から遠ざけるように所有する山奥に建てた。

 しかし、その山は墓を建てた時期から妖魔が現れやすくなってしまった。

 神在以外は立ち入ることが許されない危険域に指定されている。

 きっと足を踏み入れれば無事でいられる保証はない。

          *

 琉生は幼い頃に妖魔に襲われかけたことがある。

 まだ八歳の頃だった。

 病で床に伏せていた母に元気になってほしくて花を摘みに勝手に屋敷を抜け出したのだ。

 外へ行きたいと父や使用人に許しを乞うても首を立てに振らないことは幼いながらにわかっていたから。

 ばれてしまったら、こっぴどく叱られる。

 近所の花畑に向かって一心不乱に道を駆け抜ける。

 ぜい、ぜいと息を切らして目的地に辿り着くと、しゃがみ込んで花を摘んでいく。

 「えっと、お母さまは桃色が好きだから……。あ、あと白も綺麗って言ってた」

 母の言葉を思い出しながら花摘みに夢中になっていると後方でがさりと大きな音がした。

 琉生は肩をびくりと震わせて振り向くと目を見開く。

 視線の先には巨大な狼が唸りながら立っていた。

 黒と紫を混ぜたような毒々しい色の煙を身体に纏わせている。

 そして獲物を見つけたようにギロリとした目をこちらに向けていた。

 今にも飛びかかってきそうな雰囲気にへたりと腰が抜けて地面に座り込んだ。

 「よ、妖魔……?」

 琉生は巫女を輩出する香森家の娘だが、まだ八歳。

 書物に描かれている絵は見たことがあるが実際に妖魔と遭遇するのは初めてだ。

 (に、逃げなくちゃ……)

 そう思っても足が震えて立ち上がることが出来ない。

 妖魔は立ち去るそぶりなど一切見せず、少しずつ琉生へと近づいていく。

 心臓が痛いほど、ばくばくと鳴って呼吸も荒くなる。

 すると、ついに妖魔は地面を勢いよく蹴って襲いかかってきた。

 「きゃあっ!」

 助けを求めようとしても周囲には人ひとりいない。

 妖魔の恐ろしさを両親から何度も言い聞かせられたのに。

 勝手に屋敷の外に出てしまった後悔が押し寄せるがすでに遅い。

 動くことも出来ないまま咄嗟に目を瞑る。

 ぎゅっと身体に力を込めて衝撃に備えたとき──。

 「はあっ!」

 突如として辺りに男の声が響いた。

 そしていつまで待っても受けるはずの痛みを感じない。

 おそるおそる目を開くと制服姿でこちらに背を向けた青年が立っていた。

 手には青い焔を纏った刃が特徴的な刀。

 目を閉じている間に討伐したのだろう。

 あの妖魔は倒れ、鋭い爪が生えている足から霧散している。

 次々と巻き起こる展開に幼い琉生は状況を理解するのに精一杯だった。

 「あ、の」

 まだ心臓が早いままで治まる気配はない。

 緊張からか額から汗が伝ってくる。

 父以外の男性と会話する機会などまったくと言っていいほどなかったので、話し方などわからない。

 ようやく二文字だけを発すると、青年はこちらに振り向いた。

 (……綺麗な人)

 制帽から覗かせる黒髪は艶やかで切れ長の目は宝石のように美しい深藍色。

 薄い唇に、白く透き通っている肌。

 生まれて初めてだった、こんなにも容姿端麗な男性を見たのは。

 つい見蕩れていると青年はへたり込む琉生に歩み寄り、片膝を地面につけた。

 「怪我はないか」

 「は、はい」

 「それなら良かった」

 青年は安堵したように小さく微笑む。

 しかし、一気に距離が縮まり、恥ずかしくなった琉生は咄嗟に視線を逸らした。

 まだまだ子供だけれど、将来は巫女になる身分。

 礼儀作法は学校でも習っているので今のこの行為が失礼だとはわかっていた。

 それでも高鳴る鼓動と頬が熱くなるせいで言葉が上手く出てこない。

 (早くお礼を言わないと)

 この青年が着ている制服は神在だけが通える学校のものだ。

 香森家より、ずっとずっと高貴な存在。

 無礼な振る舞いをすれば斬りすてられてもおかしくない。

 「この霊力……。君は香森家の人間か」

 琉生に宿る力を感じ取ったのだろう、僅かに目を見開くとすぐに元の表情に戻った。

 こくりと頷くと勇気を出して顔を上げる。

 まっすぐに青年を見つめると深藍色の瞳に琉生が映った。

 「助けてくれてありがとうございます、神在さま」

 「俺は神在として当然のことをしたまでだ」

 真っ赤にさせながら礼を言った琉生の頭に手を優しく置く。

 そして青年は周囲を見渡すと立ち上がった。

 「家族や付き人は? もしかして一人でここまで来たのか?」

 「……ごめんなさい」

 「もう起きてしまったことは仕方ない。今回は運良く助けられたから良かったが次はそうとも限らない。気をつけるんだぞ」

 「はい」

 青年は手を差し伸べた。

 「家まで送る。立てるか」

 「一人で帰れます。神在さまにこれ以上、迷惑をかけるわけには……」

 神在は多忙の身だとよく耳にする。

 任務で忙しい彼の面倒になるのは気が引けてしまう。

 きっと屋敷に戻れば父に無許可で外出したことを怒られる。

 そんな他人から見れば不快な光景など見せたくはない。

 視線を彷徨わせていると上から、くすりと笑う声が降ってきた。

 「子供は子供らしく甘えておけ。それに、また妖魔が現れるかもしれない。民の保護も神在の務めだ」

 これで無理矢理、一人で帰って再び妖魔に襲われたら、それこそ迷惑をかけてしまう。

 僅かに思慮したあと静かに頷いた。

 「……はい。お願いします」

 「そんなに不安そうな顔をするな。何があっても君を守るから」

 小さな琉生の手を包み込む大きな手。

 じんわりと伝わる体温が怖かった想いを消し去ってくれるよう。

 青年は琉生の歩幅に合わせながら歩いてくれる。

 きっと屋敷に帰れば父に叱られて酷ければ手も出されるだろう。

 それでも今だけは、この温かさを感じていたかった。

 琉生はそっと青年の端整な顔立ちを見上げる。

 これが彼女の淡い初恋となる。

 そして彼が鬼神を祖にもつ一族、御影家の長男の御影枢(みかげ かなめ)だという事実を知るのは、もう少し後の話だった──。

          *

 (あの日を忘れたことは一度もない)

 母が眠る墓所を目指しながら、遠い記憶に想いを馳せる。

 あれから彼に会っていない。

 神在の中で頂点に君臨する御影家の時期当主なのだから多忙を極めるのは当然だ。

 それに、あの日を境に琉生の監視は一層厳しくなったのも理由の一つである。

 外出が許されたのは通学のみ。

 屋敷内でも常に使用人が目を光らせていて気が休まらない日々が当たり前だった。

 仮に頻繁に目にかかれたとしても彼と結婚を、などと考えもしないだろう。

 神在と天巫女は婚姻関係にあるものの、絶大な力を誇る枢に忌み子の琉生ではつり合わないので、すぐに諦めた。

 それでも在学中に香森家と古い付き合いのある月守家の当主から新太との縁談が持ちかけられたので家の役に立てるなら、と了承したのだが。

 以前から時折、麗と新太の距離が近いとは思っていた。

 自分のものを奪っていく妹でもさすがに婚約者までは奪わないだろうと過信してしまっていた。

 それが後悔する点──過ちなのかもしれない。

 (わたしと話すときは冷たい表情をしているのに、あの子を見ている眼差しはとっても優しいのよね)

 はあ、とため息をこぼしなから墓所がある山中へ入っていく。

 別に今さら新太とよりを戻したいとは思わない。

 あんな性格の彼と結婚をして幸せな家庭など築けるはずがない。

 向こうから復縁を求められても、こちらが願い下げだ。

 「確か、この辺りのはずだけれど……」

 朧な記憶を頼りにやや泥濘んだ道を進んでいく。

 琉生が母の墓に手を合わせたのは建てられた当初だけ。

 本当は行きたかったのだけれど、想いだけでは父の圧力に勝てなかった。

 母方の実家の人も母を追い出すように香森家に嫁がせたようで、まったく来ていないようだ。

 「はぁ、はぁ……。思っていたより歩きにくいわ」

 草木が生い茂り、歩く琉生の邪魔をする。

 着物や草履はすでに泥で汚れていて、身体中から汗が吹き出ていて気持ち悪い。 

 山道は整備されていない凹凸がとにかく目立つ。

 妖魔が現れるせいで人が寄りつかなくなったので余計、酷くなったのだろう。

 ようやく細い道が開けると琉生は一度、息を吐いてから足を止めた。

 「……着いたわ」

 視線の先には一つの墓が建てられている。

 墓所といっても母以外の人間の墓はない。

 ずっと、ずっと孤独に眠り続ける場所。

 琉生は知っている。

 母は昔から病弱だったけれど、父からの日々の罵倒に心を病んでいたことを。

 子供たちの前ではいたって気丈に振る舞っていたが時折、深夜に泣いていたのを見たことがある。

 心配して問いかけても誤魔化して本当の気持ちを打ち明けてはくれなかったけれど。

 きっとそれも影響して母は永遠に覚めない眠りについたと、父を恨んだ。

 父だけではない、苦しんでいた母を救えなかった自分も。

 一歩ずつ、ゆっくりと墓に近づく。

 墓石には苔も生えていて母が亡くなってからの年数がうかがえる。

 「お母さま、会いたかった……」

 抱えていた洋菓子が入った箱を地面に置き、そっと墓に触れようとした瞬間。

 「……っ」

 背後から急に琉生の背丈をはるかに上回る影が差した。

 まさか、と心臓が強く打ちつけて振り返ると妖魔がこちらに襲いかかろうとしていた。

 それも幼い頃に遭遇したときと同じ妖魔。

 身体の大きさだけが変わっていて、恐ろしさが増している。

 こんな妖魔に襲われたら、まず命は絶対にない。

 以前の琉生だったら不可能だとしても逃げていた。

 死にたくない、生き続けたいと。

 (でも、もういいの)

 奇跡的に助かっても屋敷に帰れば地獄の生活が待っている。

 生きていることを喜んでくれる人もいない。

 そうだとしたら死んで母の元へ逝く方が断然幸せだ。

 琉生はくすりと笑うと目を静かに閉じた。

 死の間際に笑うなんて、端から見ればおかしい光景だろう。

 それでも今、一番望むのは──。

 咆哮が聞こえ、覚悟を決めたとき。

 「はあっ!」

 低く、凜々しい声が聞こえた。

 この声を知っている。

 一瞬だったけれど、すぐにわかった。

 忘れるなんて、なかったことにするなんて出来るはずがない。

 だってこの声の主は──。

 「久しぶりだな。香森家の娘」

 初恋の人だから。

 「み、御影さま……?」

 「どうした、そんな幽霊でも見たような顔をして」

 「本当に本当に御影さまなのですか?」

 聞くまでもない。

 こんなにも美しい美丈夫はめったに存在しない。

 確実に琉生の恩人で初恋の相手の御影枢。

 だが、記憶と重ねると随分と成長して美しさに磨きがかかっている。

 初めて出逢ったのは彼が青年だった頃なので、ある程度は変わっているはずなのだが。

 面影は残しつつ、大人の色気が増している。

 「ああ、そうだ。俺が御影家の当主、御影枢だ。そういう君も相変わらずのようだな」

 そう言うと枢は刀を鞘にしまう。

 ちらりと視線をずらすと巨大な妖魔は倒れ、徐々に霧散していく。

 粒となって消えていくのは完全に討伐された証拠だ。

 「どうして御影さまがこんな場所に……」

 「それはこちらの台詞だ。君が立ち入り禁止の山に入っていく姿を近くを通りがかった民が見つけて連絡をくれたんだ。間に合って良かった」

 (今回も助けられたのね。でも)

 嬉しくない、むしろ邪魔をされた気分だ。

 そんな感情が心を占めている。

 命がけで助けてもらった身分なのに、これでは罰が当たる。

 でも、これで保護されれば、決めた覚悟が無駄になり、すべてが元通りになる。

 枢だって琉生の事情など知らない。

 「どうした、そんな浮かない顔をして」

 俯く琉生に違和感を覚えたのか枢は不思議そうに問いかけた。

 もう嫌われてもいい。

 お礼ではなく本音をぽつりとこぼした。

 「……助けてくれなくて良かったのに」

 言ってしまった。

 最悪で最低な言葉を。

 訪れる静寂。

 木々の葉が擦れ合う音だけが耳朶を撫でる。

 そして最初に沈黙を破ったのは枢だった。

 「どうしてそんなことを言う?」

 琉生は目を僅かに見開いた。

 怒られる、飽きられると思っていたのに彼の言葉に怒りが感じられなかったから。

 しかし琉生も強がって平静を装い、答える。

 「生きていてもつらいだけだから、です」

 「……何かあったのだな。もし良ければ話を聞かせてくれないか」

 母が亡くなってから初めてだった、人に優しくしてもらったのは。

 もしかして素直になれば何かが変わるだろうか。

 (ううん、変わらなくてもいい)

 結果がどうであれ、ただ伝えたかった。

 この胸に抱えている孤独、悲しみ、苦しみを。

 わかってほしいとまでは言わない。

 純粋に『話したい』と思った。

 「どうして、こんなわたしに優しくしてくださるのですか」

 俯いていた顔を上げて問いかけると枢は小さく笑った。

 「何故だろう。昔から君みたいな人を見ていると放っておくことが出来ない性格なのかもしれない」

 相談相手が俺なんかで良ければ、と最後に付け加えると深藍色の瞳に射抜かれる。

 拒絶しようとしていた気持ちが揺れ動いたような気がして胸を両手で抑える。

琉生は落ち着かせるように息を吐き出すと、秘めていた真実をすべて枢に明かしたのだった。