「卒業生が入場します———」

 指揮者がタクトを振った瞬間、しんみりとした恒例の入場曲が流れ始める。うちの高校の吹奏楽部はかなり強いらしいけれど、わたしは音楽初心者なのでよくわからない。
 体育館用の上履きは少し窮屈で足のつま先が曲がって収まる。こんなにも寒いのにセーターもタイツも着用不可なんて絶対におかしい。いくら卒業式といえど、だ。
 震える指先をなんとか抑えながら、後ろ扉から列になって入場してくる卒業生たちを順番に見てゆく。いつもは下ろしているセミロングをわざわざ2つ結びに結んだせいで、首もとまでスースーするのが気になるけれど、今はとりあえずそれどころではないんだ。
 ———あ、いる。
 3年C組の前から2番目。阿久津って珍しい苗字だけれど、頭文字が あ のおかげで前の方にいる先輩を見つけやすかった。
 卒業生だっていうのに腰履きのゆるいズボン。学ランのボタンは今日こそきちんと一番上まで止められているものの、いつもは最低でもみっつは空いている。セットしたようなしてないようなくせ毛の髪と、今日が卒業式だなんで思わせないような眠そうな表情。先輩はいつも、少しだらしない。
 そんなだらしない先輩だけれど、絶対に背中はきちんとまっすぐ伸びている。いつもグランドを走っていた時と同じその背中を見て、わたしはちょっとだけホッとした。
 気だるそうな先輩の、まっすぐ伸びた背中が私にとって、とても眩しかったこと。きっと誰も、知らない。
 先輩が在校生の間を通り抜けて、舞台前に設置された卒業生用のパイプ椅子に座った。私の目線はずっと先輩を追いかけていて、我ながら馬鹿だなあとおもう。
 先輩のまっすぐ伸びたあの眩しい背中を、あと何回見ることができるんだろう。先輩のくせ毛が重力に逆らって上を向いているのは寝癖なのかセットしたからなのかどっちだろうって、一日中考えていたあの頃の自分は、今の私の気持ちなんてこれっぽっちもわからないんだろうな。
 先輩にもう会えなくなるためのこの数時間を、想像すらしていないんだろうな。

「———卒業証書、授与」

 舞台前に並んだ卒業生が、一斉に立ち上がる。この日のために何度か練習したんだろう、それなりに揃った後ろ姿を右から左へと順番に見てゆく。
 綺麗に整えられた黒髪の羅列。その中で、いつも太陽の下を走っていた先輩の髪の毛は焼けて色あせたせいで少しだけ茶色い。そして、今日もやっぱり先輩のくせ毛は健在だ。
 あんなにだるそうに歩いていたくせに、誰よりも真っ直ぐに伸びた先輩のあの背中を、見ているひとがここにいること。……先輩、知ってる?

「答辞。卒業生代表、———」
「はい」

 優等生だったであろう生徒会長の名前が呼ばれて、覇気のない返事が会場中に響く。長々語られるであろう学校生活とこの先の将来のこと。毎年、興味のないことだって眠気を抑えながら聞いていた。
 でも、今年は違う。今年は全然、違う。
 もっともっと、時間が長引けばいいのに。卒業生の言葉も、在校生の言葉も、いつもは長くてかったるい校長先生の話も、もっともっと。
 ずっと続いてくれたらいいのに。ずっとずっと終わらなければいいのに。
 そしたら、私は、大好きな先輩のあの背中を、ずっと見ていられるのに。

「———卒業生が退場します」

 長くも短くもない、中途半端な長さの高校の卒業式を、今更ながらに憎む。小中の時のように、もう少し長くてもよかったのに。
 お決まりの卒業ソングを歌う先輩の背中は少しも揺れなくて、周りも思わず泣きそうになっていた卒業生の言葉には少しだけ身を縮めた。
 そんな先輩の背中が、本当はちょっとだけ寂しそうなこと。私、ずっと見てたから知っているよ。
 また、会場の隅に位置した吹奏楽部の指揮者がタクトを振る。一斉に息を吸い込む音が聞こえて、体育館中の酸素がぜんぶ吸い込まれちゃったんじゃないかと思う。

「3年C組」

 よく知らない3年の担任がそう言った瞬間、先輩のクラスは全員退場するためにこちら側へと回れ右をする。きゅって小さな上履きの音が吹奏楽の演奏に混ざった。
 流れてくる音楽が涙を誘うのは、毎年よく聞く卒業式鉄板ソングだからなのかな。それとも、先輩がこちらを向いたせいで、きちんと顔が見れたからかな。
 もう冬も終わるのに、焼けた先輩の肌が、揺れた先輩の瞳が、こんなにも私の胸を揺さぶること、先輩、知ってますか。
 腰履きのゆるいズボン。珍しく一番上まで止められたボタン。色あせた茶髪。焼けた黒い肌。まっすぐ伸びた、背中。
 先輩。……先輩。
 いつもグランドを駆ける、誰よりも綺麗なフォームで走る、先輩のことが、私。いつも気だるそうに不真面目なのに、部活の時だけ真剣な目をする先輩が、私。……私ずっと、好きでした。先輩の走る姿が、私の、憧れでした。
 卒業しないで。……先輩。本当はもっと、先輩に近づきたかった。先輩みたいになりたいですって、あの人より茶色い瞳を見ながら言いたかった。
 臆病な私は、それすらできなかったけれど。
 退場してゆく先輩を目線だけで追う。その瞬間、先輩がちらりと、こっちを向いた。
 ああ、もう、無理だ。
 我慢していた涙がボロボロこぼれ落ちてくる。隣で拍手していた友達もビックリして、小声で「大丈夫?」なんて聞いてくるけれど、そんなこと気にしてる場合じゃなくて。
 たった一瞬。ほんの一瞬。秒数にしたら1秒にも満たない時間。
 先輩がわたしを見た。目があった。最後の最後、先輩が卒業してしまうこの時に。たったそれだけのこと。でもわたしにとっては、涙が出るくらいしあわせなこと。
 先輩。……先輩。わたしがこんなにも先輩のことを想っていたこと、先輩は知っていますか。
 もう最後かもしれない先輩の制服姿を、この目に焼き付けておきたくて。ずっとずっと、私の中に残しておきたくて。止まらない涙を拭うこともせずに、まばたきが勿体無いって思うくらい、先輩が去っていく背中をずっと見つめる。ずっと、ずっと、見ていた先輩の背中を。
 先輩。私、先輩から卒業するから。だから、今だけ。今だけ心の中で、言わせてください。そしたらもう、この涙ともさよならするから。


 ……先輩、ずっと、好きでした。



【わたしたちは卒業する】