「そろそろ学校へ行ったら?」

 母さんからその言葉が出たのは本当に突然のことだった。僕が学校に行かなくなった日こそ声を荒げて怒ったものの、部屋に閉じこもっていても小言ひとつこぼさなかった母さんがいきなりどうしたのかと僕は耳を疑った。
 夕飯はクリームシチューだ。目の前に並べられたフランスパンは固く、シチューに浮かんだニンジンはデコボコだけれど綺麗なオレンジ色をしている。

「どうしたの、突然」
「そろそろつまらないだろうと思って」
「つまらない?」
「一日中家にいても、やることなんてないでしょう」
「それは……」
「最近つまらないって顔に出てるわよ。新しいことでも始めて見ればいいじゃない」

 笑いもせず、母さんはそう言いながらオレンジ色のニンジンをスプーンですくい上げて口へと運んでいた。父さんはあたたかいミルクが入ったマグカップを手にとって、僕の方なんて見なかった。
 新しいこと。学校へ行くこと。新しいことなんかじゃない。再び始めることだ。

「……今更だよ」
「ええそうね」
「そうねって……」
「何事も今更なのよ。母さんと父さんが結婚したのだって、長く付き合っている中で"今更"っていう時にプロポーズされたのよ。ねえ、父さん」
「そんなこと忘れた」

 ふふ、と母さんがやっと笑った。僕は母さんのことを見ていた。父さんはおもしろくなさそうにフランスパンをちぎっていた。

「でも……行ったらまた、嫌になるかもしれない」
「嫌ならまたやめればいいのよ。一度顔を出して見て無理なら家に帰ってくればいい。だってここがあなたの居場所なんだから。そうでしょ?」

 母さんは僕のことを見なかった。さぞ当たり前のことでも言うようにそう話して、今度はデコボコのジャガイモを頬張っていた。
 僕はそれに何も答えないで、ゆっくりとニンジンを口に運んだ。料理が苦手な母さんの切ったニンジンは固かった。けれど不味くはない。不味くはないのだ。





 次の日、僕はいつも通り夕方に自分の部屋を出た。裏庭に行くといつも通り麦わら帽子をかぶったアンが芝生に座り込んでいた。今日はアリの列をじっと眺めていたらしい。

「アン」

 名前を呼ぶと、アンはやってきた僕の方に顔を向けてにいっと笑った。ふわふわのくせ毛、色あせた茶髪、ゆるりと結んだおさげ、ちょこんとのった麦わら帽子。今日のワンピースは黄色で、白い靴下と薄汚れたスニーカーを履いている。

「アン、僕さ」

 アンの隣に座り込みながら、きのうの夜から考えていたことが口をついて出ていた。無意識だった。

「今までずっとアンに嘘をついてた」

 かくしきれないかくしごとだった。
 アンは本当に気づいていなかっただろうか。僕が本当は学校へ行っていないこと。誰よりも一番弱いこと。
 アンは僕の方を向かなかった。

「本当はずっと、学校になんて行っていなかった。かっこ悪くてずっと、アンに言えなかった。嘘ついてて、ごめん」

 アリの行列が小さな穴に吸い込まれて行く。それを見ながら、僕の言葉は止まらなかった。

「……でも、明日から」
「ガッコウ、行く?」

 突然発せられた言葉に顔を上げると、アンがこっちを見ていた。困ったように笑っていた。笑っていないといけないと思っているのだろうか。アンはいつもわらっている。笑いながら震えている。笑いながら、呼吸をしている。

「……学校、行こうと思う」
「そっか」

 アンの肩は震えていた。瞳はゆらゆらと揺れて、必死に口角を上げているのがわかった。必死に笑っているのがわかった。

「アン」
「じゃあもう、おしまいだ」
「おしまいって」
「アンはいらない、ね」
「いらなくなんてない、アン」
「ねえ、」

 アンの目に涙がたまっていることはわかった。けれどそれを消してこぼさないように上を向いて、アンが瞬きをするのも躊躇うように僕の頰へと手を寄せた。僕はその手のひらに自分のそれを重ねる。
 初めてだった。アンが僕に触れたのも、僕がアンに触れたのも。

「だいすきだよ、がんばってね」

 ─────人の温もりを痛いと思ったのは初めてだった。
 離れていく温度が名残惜しい。すり抜けていく指先がひどく恋しい。けれど瞬きをした瞬間、伸ばした僕の手は宙を舞った。目の前にアンはいなかった。かわりに麦わら帽子がちょこんと芝生に置き去りにされていた。
 頰にひとつぶ涙の雫が垂れているのを知ったのはそれから随分と後だった。僕は夕暮れの裏庭でひとり佇みながら静かに涙を流していた。
 こうなることを心のどこかでわかっていて、選択したのは僕の方だったのに、どうしてこんなにも空しい気持ちになるのかわからなかった。アン、きみは、妖精か、幽霊か、幻か、または─────僕の幻想か。
 置き去りにされた麦わら帽子が風で飛んで行った。僕はそれを見つめて、アンの手のひらが置かれていた自分の頰にそっと手を寄せる。

 ─────だいすきだよ、がんばってね』

 アン、僕は決してタマゴを手で潰してしまうようなことなんてしない。あの小さな膜の中にいのちがあったように、僕の中にいたアンを消してしまったりなんかしない。アン、きみは、きみだけはどうか、わらっていて。
 僕と過ごした時間はきみにとってどんなものだっただろう。雨上がりの光る水溜り、朝露で濡れたシロツメクサ、穴の空いた落ち葉、触れると溶けてしまった雪。
 アンきみは、きみだけは、どうか笑っていて。この先僕が頑張れなくなっても、また戻ってきてしまうことがあっても、踏み出す瞬間にきみがいたことは絶対に忘れない。絶対にだ。
 ちいさな穴の空いた麦わら帽子をそっと拾い上げる。それを優しく撫でながら、僕は暗くなり始めた空に向かって呟く。

 ─────どうか元気で、アン。


【指先にかすめた麦わら帽子の君 完】