彼女の名前はアンと言う。
人より随分と茶色く褪せた髪色をして、おさげに縛った頭の上にちょこんと麦わら帽子をのせている。かぶっているんじゃない、のせているのだ。そして毎日違うワンピースを着て僕の前に現れる。時には白、時には黄色、時には青のワンピースだ。
アン、と僕が呼ぶといつも彼女は無邪気な顔をして笑う。僕の家の裏にある原っぱにしゃがみ込んで、時にはシロツメクサを摘み、時には四葉のクローバーを探し、時にはダンゴムシをじっと見つめている。
アンは僕を見るなりいつもパッと表情を変え、白い歯を見せながら笑う。目じりが垂れてしわができる。僕はそんな白い彼女の頰と潤った目を行ったり来たりきながら見つめて、やれやれと隣に腰を下ろしてやる。
毎日のように僕はそうやってアンの名前を呼び、アンの隣に座り、アンと同じようにシロツメクサを摘み、四葉のクローバーを探し、ダンゴムシを見つめた。その間アンとは随分とたくさん話をした。何色のワンピースが一番お気に入りだとか、おさげに結ぶコツだとか、麦わら帽子に実はちいさな穴が空いていることだとか、そんな類の話だ。アンは笑いながら僕に会話を投げかけ、僕はまたやれやれとそれに答えてやる。
僕の家は森に囲まれた丘の上に建っている。赤い屋根と白い壁で出来た洋風建築だけれど、建てられたのはもうずっと前だと聞いている。祖母は確かヨーロッパかどこかの国の人だったんだと。その名残もあってか僕の髪色や瞳の色も他の人よりも随分と色素が薄い。
そんな僕の家の裏庭にアンがやってくるようになったのは、もう三年以上前のことだ。ある日突然、僕が学校から帰ってくると麦わら帽子をかぶったアンがいた。その日は白いワンピースを着てシロツメクサを摘んでいた。冠をつくるの、と初対面の僕に笑いかけ、丁寧にその茎を編んでいた。
その日から、アンは僕が学校から帰ってくるといつも裏庭に顔を出すようになった。一年中麦わら帽子をかぶり、長い髪をおさげに結んでいた。ワンピースは半袖と長袖のものがある。春は桜を見つめ、夏は蝉の鳴き声に耳を澄まし、秋は落ち葉を踏みしめて、冬は吐き出した息の白さをわらった。
アンはいつも、ふと目を離したすきにいなくなる。そしてそれはいつも突然だ。1日1時間ほどしか僕の前に現れない。妖精か、幽霊か、はたまた守護霊か。アンが何者なのか、どこからやってきてどこへ帰っていくのか、どうして毎日ここへやってくるのか、僕は何も知らない。
「ねえ、タマゴ」
ふと、今日も横にいるアンがそう呟く。今日は一番お気に入りの白いワンピース。初めて出会った日からアンはずっと変わらない。
「タマゴ?」
「蝶のタマゴ」
葉の裏に見つけたちいさなタマゴを指差して、にいっとアンは笑った。やがてこのタマゴからイモムシが生まれ、綺麗な蝶になって羽ばたいていくことは確か小学生の理科か何かで習った気がする。
このタマゴが本当に蝶になるのかどうかはわからない。まるっとした、黄ばんだ白色。こんな小さな膜の中に生命がいるとは到底考えられない。僕の指に少しちからを入れれば潰れて消えてしまうのだろう。なんて呆気なく脆い命なのだろう。
アンはタマゴを見ている僕の方を一瞬見て、それからそれがくっついた葉を丁寧に戻した。考えていることがバレてしまったんじゃないかと思ってどきりとする。
「きょう、学校はどうだった?」
ふいにアンがそう言って僕を見た。
アンは笑っている。いつものように、にいっと白い歯を見せながら。
「今日は……ふつう。家庭科で、みそ汁を作った」
「へえ、みそしる!」
「にぼしから出汁をとるんだ」
「ニボシ」
僕の言葉を反復して、アンはキラキラと目を輝かせる。まるで初めて聞いた言葉のように、カタコトのような発音をして。
「アンは魚がキライだったな」
「うーん、ニンジンはキライ」
「ニンジンと魚じゃ大違いだよ、アン」
クスクスと僕が笑うと、アンもつられて可笑しそうに笑う。その揺れる細い肩を見て思う。出会った時と変わらないままの華奢な身体。背丈も髪の長さも笑い方も麦わら帽子も、アンは何も変わらない。変わっていくのはいつも僕だけだ。
アンと出会ってから変わったことがたくさんある。僕の背はあれから10センチ以上伸びた。声は低くなり、キライだったニンジンが食べられるようになった。100メートル走のタイムが上がった。読める漢字が増えた。
そしていつからか、僕は学校に行くのをやめた。
明確な理由があったわけじゃない。けれどいつも水の中にいるみたいに息をするのが苦しかった。時々突然泣いてしまうこともあった。それは寂しさなのか怒りなのか自分でもよくわからない感情だった。周りに合わせるのはひどく疲れた。
学校へ行かなくなってから、僕は家に引きこもるようになった。そして、アンがやってくる夕方、そっと家の裏庭へ出る。学校へ行っていないことをアンに言うのはやめた。なんだかかっこ悪いと思ったからだ。
アンは時々こうして僕に学校のことを尋ねてくる。それはきっとアンも学校に行っていないからなのだろう。直接聞いたわけじゃないけれど、なんとなくわかっていた。
僕は架空の『学校での話』をアンに話した。作り話は得意だった。一日中家にいる間、今日は何をしたことにしようと頭の中でぐるぐる考えるのが好きなのだ。
アンが笑ってくれるのが嬉しかった。どこにもない居場所ができたようで。
「他には? どんなことをしたの?」
ウキウキとアンが僕にそう尋ねる。僕は一度うーんと考えるそぶりを見せてから、布団の中で考えていた今日の出来事を話す。
「そうだな、体育でサッカーをしたよ」
「サッカー!」
「僕がクラスで一番うまかったんだ」
「クラスで、いちばん!」
「パスもドリブルもシュートも、僕が一番うまかった。先生にも、何度も褒められた」
アンが目を輝かせて僕を見た。そして「すごい!」とわらう。この瞬間が好きだった。まるで自分の存在を認めてもらえているようで嬉しかった。
「ねえ」
「ん?」
「サッカー、したい」
「え?」
「サッカー、わたしも、したい。おしえて」
そういえば僕の裏庭にはサッカーボールではないけれど薄汚れたピンクのゴムボールが置いてあった。アンはそれを知っていたのだ。蹴るには柔らかすぎると僕が一度断ると、大丈夫だからお願い、とアンが珍しく駄々をこねる。仕方がないので薄汚れたそのボールを拾い上げて、ぼくは蹴ったこともないサッカーボールを思い浮かべながら芝生の上にそれを置いてみた。
「どうやって蹴るの?」
「それは、こうやって」
適当に脚でボールを蹴ってみる。軽くて柔らかいせいもあるだろう。けれど思った以上にボールは変な方向へと飛んでいった。芝生の上をコロコロと転がって。
「あそこを狙ったのね」
「ああ、そうだよ」
「ドリブル、は?」
何もわかっていないアンは嬉しそうに手を叩く。そして僕が蹴ったボールを拾いに走り出す。白いワンピースの裾がゆらゆらと揺れて、麦わら帽子は風に揺られて落ちてしまいそうだった。
ドリブルは、とアンが笑いながら駆けてくる。柔らかいゴムボールはアンのちからで少しだけ潰れてしまっていた。彼女は意外とちからがあるらしい。
走ってきたせいでアンの呼吸は少し早く、額には汗をかいていた。それでも笑いながら僕にボールを差し出し、ドリブル!と元気に言った。
ドリブルなんてしたこともないのに、下手なことを言ってしまったと後悔する。あまりにもアンが目を輝かせているので、僕は渋々そのボールを受け取った。
仕方なくテキトウにボールを操ろうと足が触れた瞬間、入れた力が強すぎたのかボールがまたどこかへコロコロと飛んでいってしまう。アンは不思議そうに僕を見る。恥ずかしくなって下唇を噛むと、アンはなんでもないみたいに笑ってまたボールを取りに走った。あんな薄汚いボール、どこへ行ったってかまわないのに。
「ドリブル!」
さっきのが失敗だったと、僕の顔を見てわかったのだろう。アンがまたうれしそうにボールを抱えて走ってくる。
夏前の、まだ暑くない春の終わり。吹く風は心地よく、緑の葉は青々と色鮮やかに茂っている。
「アン、今日はもう帰ったら」
「えっ?」
さわさわと揺れる木々の葉っぱを見つめながら僕がそう言うと、アンは驚いたように口をぽかんとあけて固まった。無理もない、だって初めてこんなことを言ったのだ。
クラスで一番うまかったなんて、嘘も甚だしい。アンにはかっこ悪いところを見せたくなかった。出会ったときからずっとそうだ。アンは僕に対して、知らないことを教えてくれるすごい存在のような眼差しを向けてくるのだ。そんなアンを裏切りたくなかった。同時に、頭の中で描いていたことができない自分がひどく情けなかった。
「まだ帰りたくないよ」
「もう帰れ」
「どうして? アン、わるいことした?」
「ちがう、でも、帰れ」
「アン、いらない?」
「いらないとかそういうことじゃない、今日はもう、遊ぶ気分じゃない」
「そっか」
ぽつりと呟いたアンの声はちいさく、かすれた息の音がした。しばらく下を向いていたけれど、ぐっと顔を上げるともうそこにはアンの姿はなかった。いつものように、気配も足音もなく消えていった。
◇
その日からアンは僕の顔色を窺うようになった。今までなんとも思わなかった沈黙が重くなって、僕が疲れた顔をすると今まで以上に必死に笑いかけて来る。そして帰り際、いつもアンは僕に『アン、いらなくない?』と眉を下げて聞くのだった。
僕は変わってしまったアンに幾度となくため息をついた。けれどそれもアンにとったら不安の一種なのだろう、僕が無意識にため息を吐くたびに必死に笑う。その笑顔はひどく虚しかった。僕が知っているアンの笑顔ではなかったからだ。
毎日夕方、決まった時間になると外へ出て行く僕について両親は何も言わなかった。というより、気づいていないのだろう。共働きでほとんど家にいないふたりにとって、僕は空気のような存在なのだと思う。
そんな僕に笑いかけてくれるアンの笑顔が、心の底からすきだった。唯一僕に寄り添ってくれるのがアンだった。だからこそ、こんなにも空しいのだろう。
アンに嘘をつかなくてはならないこと。
アンがつくり笑いをするようになったこと。
アンにとって、僕も寄り添える存在であれたらよかった。うまくいかない日に見た虹のような、あるいは日の差したベランダのような、そんな存在だったのならよかった。
けれどアンにとって僕はそうではなくなってしまったのかもしれない。
同時に僕にとってアンも、そうなのかもしれなかった。



