「ミイ」

 愛猫のミイが病気にかかったのは一週間前だ。いや、病気だと発覚したのはたった一週間前だった。
 呼吸が少し早いというただそれだけの、ちょっとした不自然さ。歳も歳だしなあと、母親とミイを病院に連れて行った。問題ないですよ、なんていう期待した返事は返ってこないで、かわりに返ってきたのは神妙な顔をした獣医師の、重たい言葉だった。
 心臓の病だと。おまけに腎臓も悪いと。
 私はその時、やけに冷静だったように思う。心配そうな母の顔を見て、どうしてそんな顔をするんだろうとさえ思っていた。だって、ミイが死ぬはずがないのだ。だって、ミイは生きているのだ。ミイは、息をしているのだ。
 たった一週間前の話だ。ほんの一週間。されど一週間。
ミイにとっての最期の一週間は、いったいどんなものだっただろう。
 ミイの状態は日に日に悪くなっていった。ほんの数日前まで、いつものように生活していたはずなのに。ソファの上で気持ちよさそうにお昼寝をして、お腹がすくと家族の誰かにねだりに来て。私が自室で勉強していると、まるで見せびらかすかのように部屋のベットに飛び乗って眠りだした。猫は上から人を見下ろすのが好きらしい。私の高いベットから、私のことを見下ろして楽しんでいたのかもしれない。なんて性格の悪い猫だ。でもそんなところも可愛くて仕方がなかった。
 高校の卒業式があったのは3日前だ。私はあまり高校というシステムを好きになれなかったので、卒業はどちらかというと嬉しいイベントだった。
 けれどやはり、人と人の別れに寂しさを感じるのだ。
 どれだけ意地を張っていても、関わった人たちと離れ離れになるというのは案外くるものがあるらしい。


 ミイがいなくなってしまったと、今でもまだ信じることが出来ないでいる。
 ほんの一時間前だ。一日入院して、家に帰ってきた。私と母の顔を見るなり鳴いた。動けない足を必死に動かそうとして。
 遠く離れて住んでいる兄が帰ってきてから、ミイは息を引き取った。元々兄が飼いだした猫だったのだ。もしかしたらミイは、兄の帰りを待っていたのかもしれない。

 この一週間、何度ミイを病院に連れて行っただろう。3回、4回。病院嫌いのミイは、行く度にストレスを抱えていたに違いない。私たちでさえ触るのを嫌がるような性格なのだ。まして知らないようなたくさんの人間に、検査だからと言って体を触られるのなんて嫌に決まっている。
 それでも、助けたいという一心で、私たちはミイを病院に連れて行っていた。
 昨日の夕方から今日の夜にかけて。ミイは管で繋がれて息をしていた。酸素が多く取れる部屋にいれられて、点滴をしながら、ミイは苦しそうに生きていた。ほんの一週間前まで自由に動いていた体はヘタリと横たわる事しか出来なくなっていて、もう自分でトイレに行くこともご飯を食べることもできなかった。
 弱るのは一瞬なのだ。命が消えていくのはほんの一瞬のことだった。

 管で繋がれて生きていた一日と、私達家族と過ごした数時間だったら、ミイにとってどちらが幸せだったのだろう。
 確かに、ミイの時間は伸びたのかもしれない。酸素と水と栄養を与えられて、小さな部屋にしまわれながら、ミイの時間は一日延びたのかもしれない。
 けれど、ミイはその間ずっと独りだったのだ。
 いつも母の後ろを追っていた。母だけは触っても嫌がらなかった。そんな大好きな母にも会えず、たった独りで小さな部屋にいれられていた。生きるために。息をするために。私たちの、生きてほしいという勝手なエゴで。
 現在の医療技術は本当に必要だろうか。私たちは、口のきけないミイの意志を尊重することが出来ない。ミイにとって延びた時間が苦しい時間だったのなら、本当に助けるということに意味があったのだろうか。
 あのウサギ小屋や、クジャクやヘビや、たくさんの鳥たち。そして、ミイ。
 自然に生きているはずの命たち。本来ならば自分たちで居場所を見つけ、そこに住み、自然にこの世界を去っていく命たち。
 人間の生活は信じられないほど豊かになっただろう。家が出来て、お店が建って、公園ができて、電柱が立って、医療技術が発達した。私たちはそれに当たり前のように甘えて、本来あるべきはずの生命を見落としながら生きている。
 綺麗事だと、自分でもそう思う。自分こそ、人間がすべてを支配したような世界に甘えて生きているくせに、と。ミイの時間を苦しいものにしたくせに、と。
 ただ、ただ、涙を流すことしかできないことを心から悔しく思う。私が今こうして生きているかわりに、消えていった命があることに、涙が出てしょうがないのだ。

 ミイは幸せだっただろうか。
 一緒に過ごした13年間は無駄じゃなかっただろうか。
 この世界がどんなに歪んでいて、人間がどれだけ理不尽な生き物なのか、私たちは気づいているようで気づいていないのかもしれない。
 ミイは世界で一番かわいかった。
私の記憶がある限りミイは一緒にいた。
元気に走り回っていたミイも、テレビ台からうちの家具の中で一番背丈の高い棚に飛び移っていたミイも、天井裏に隠れていたミイも、太ってそんなことが出来なくなったミイも、全部全部、覚えている。

「世界で一番かわいいね。どうしてミイはこんなにかわいいんだろう」

 そんな私の口癖を、ミイは覚えているだろうか。
言い過ぎて、家族に「毎日言ってるじゃん」とあきれられるほどだった。
 私の18年の人生の中で、13年も一緒にいたのだ。
 ミイは私の家族で、私の姉妹で、私のハンブンみたいなものだったのだ。
 ミイ。ミイ。ミイ。
 つらい思いをさせてごめんね。早く気づいてあげられなくてごめんね。病院は怖かったよね。何度も何度も連れて行ってごめんね。その分の時間を、一緒に過ごせばよかったね。もっともっと、抱きしめたかったんだよ。ミイをなでてあげたかったんだよ。そうしたらきっとミイは嫌がるんだろうけど、私はそんなミイをぎゅっとして、かわいいねかわいいねって言ってあげたかったよ。大好きだって、もっと何度も何度も伝えればよかったね。

 人間の60%は水で構成されているらしい。犬も60%。猫は70%なんだとか。

 この世の生物は大抵70%前後の水分で構成されている。私も、あの子も、あの動物たちも、ほとんどが水なのだ。水に生かされて私たちは生きている。人間も、動物も、変わらないのだ。ただほんの少し、人間に知能があっただけで。

 いなくなったミイの体はモノになった。
重力に逆らえなくなって、ぐにゃりとしていた。時間がたって固まるまで、死んだ動物はぐにゃりと柔らかいのだそうだ。私は見たことが無いけれど、きっと人間もそうなのだろう。生きているのとそうでないのとでは、こんなにも違うのかと思わされる。魂が抜けるというのは、あながち間違っていないのかもしれない。それくらいにミイの体はただの物体に、物質になってしまった。

 なくなったウサギ小屋のウサギは、学校側が飼い主を募って、それぞれ違う生活を始めたのだと後から聞いた。
 人間にとっての正解と彼らにとっての正解が違うことは明らかだけれど、まだどこかで生きているウサギたちは今幸せなのかもしれない。
 管で繋がれて延びた時間が、ミイにとってどんな時間だったのかはわからない。もしかしたら、私たちと居る時間よりも、管で繋がれながら一秒でも長く生きていたほうがよかったのかもしれない。ミイにとってどちらが幸せだったのか、私たちには正解を導き出すことが出来ない。
 けれど、これだけは言える。
 誰よりも、何よりも、私たち家族はミイのことが大好きだった。世界で一番、きみがかわいかった。太っていて不細工な顔をしながら寝ていることも多かったけれど、私たちにとって、私にとってかけがえのない存在だった。
 ミイのかわりはどこにもいないし、ミイはミイだ。私たちの大好きな、ミイだ。
 私は、ミイと過ごせて幸せだったよ。
 ミイは触られるのも抱っこされるのも嫌いだったね。
 でも、ひとりになるのはもっと嫌いだったね。
 家に誰もいないと思ってよく鳴いていたね。
 私が二階から顔を出すと、なんでもないみたいに眠りについたね。
 家族が旅行にいっていないとき、普段はこない私の布団の上にのって寝ていたね。
 ミイが本当はさみしがりやだってこと知ってるよ。
 本当は誰かと一緒にいたいことも知っているよ。
 ねえ、ミイ。ごめんね。たくさんごめんねがあるよ。
 でもそれ以上に、たくさんのありがとうがあるよ。

 人間が動物に与えられるのは、きっと愛なんじゃないだろうか。この歪んだ世界に、理不尽な人間に、たったひとつ与えられているのは、きっと無償の愛なんじゃないだろうか。

 もっと世界を愛していきたい。
 もっと人間を信じていきたい。

 きみを一生忘れないように、きみを愛したことを誇りに思って、私はこの世界で生きていこうと思う。きみがいないこの世界をめいいっぱい、愛で満たしていこうと思う。

 愛をこめて
 世界で一番大切なきみに
 この物語を贈る


【ウォーターライフ】完