久しぶりに通った小学校の校舎が増えていた。
車でサッと通りかかった程度だ。中までキチンと見えたわけじゃない。
私が通っていたのはかれこれ6年も前のことになる。あの時より綺麗になった真っ白な校舎は、私が通っていた時の倍近くはあったように思う。増築されるという話は風の噂で聞いていたけれど、あんなに大きくなっているとは思わなかった。
私の家を挟んで南に中学校と駅が、北にあの小学校がある。中学にあがってからはたまに通りかかることもあったけれど、高校に入学してから電車を使っての通学になったため、小学校の方面へはめっきり行かなくなっていたのだ。
6年も過ごした場所なのに、忘れるのは一瞬のように思う。実際、小学校の記憶なんてものは曖昧そのもので、私の中に今あるほんの少しの記憶さえ本当かどうか定かではない。
けれど、小学四年生の時にみんなで大切に世話をしていたウサギ小屋の位置だけは何故か今でもハッキリと思い出せる。私は動物が好きだったし、ウサギの世話をするのも大好きだった。月に一週間くるウサギ当番が毎回楽しみだったことも、ウサギに持って行く野菜を母親にねだった事も、何故だかハッキリと覚えているのだ。
今の小学生も私と同じなのだろうかと思いを馳せた時、当時の校舎がまぶたの奥にセピア色にうつった。
私の記憶が正しければ、大好きだったあのウサギ小屋は、増築された校舎によって消えていた。
これも風の噂で聞いたことだ。小学校の校舎が増えることによってウサギ小屋が取り壊されると。
聞いたのはいつだったか。それも曖昧だけれど、最近の話ではないように思う。
その頃私は順調な高校生活を送っていたのだろう。部活に勉強に恋愛に。噂で流れてきた母校のウサギ小屋など気にすることもしなかった。たぶん、母親から聞いたのだろうけれど、その時の私の返事は「ふうん」とか「そうなんだ」とか、そんな素っ気ないものだったに違いない。
今現在の私がこんなことを気にするのもどうかと思うのだけれど。
たまたま久しぶりに母親と買い物に出かけたことによってみかけた新しい校舎を見て思ったのだ。消えたウサギ小屋の中のウサギたちは、一体どこへ追いやられてしまったのだろうかと。
現在の日本で少子高齢化が問題視されているのは知っている。けれど私の住む町ではそれとは反対に、元々山だった土地を開拓して、そこに家を建てた人たちがたくさん越して来た。当然人口は増えたし、その分こども達の人数も増えたのだ。
町の発展だと、大人たちが言うのを聞いて育ってきた。
私が幼い頃遊んでいた林や竹やぶは新しい家が建った。そういえば、竹やぶの中にタケノコを取りに行った時、時たまクジャクのような鳥に出くわしたことがある。小さかった私は勝手にあの鳥をクジャクだと思い込んでいたけれど、本当はなんという名前の鳥だったのだろうか。
冬に雪が積もると駆け出して行った原っぱにはアパートが建った。ヘビが出るからと学校の先生に行くのを止められたこともある。かわりに、綺麗に整備された公園が何個もできた。
たくさんの木々にとまっていた鳥たちは、今は電柱にとまっている。夕方空を見上げると、鳥たちが群れになって飛んでいる時間がある。私の母親はそれを「鳥の時間」と呼んでいて、私も幼い頃からその時間をそう呼ぶようになっていた。
今思えば、だ。今思えば、あのクジャクも、あのヘビも、あの鳥たちも。大好きだったウサギ小屋のように、どこかへ消えてしまったし、居場所を変えられたのだ。
私が気が付かないうちに、たくさんの命の居場所が、人間の居場所へと変化していた。人間が息をする町へと変化していた。そしてそれを当たり前のように受け入れて、私は生きてきたのだ。



