◇
「まーたおまえか、ハルヤマア」
「ゲ、まーたヤマちゃんか」
「なにがヤマちゃんだ、山下大先生だろハルヤマア!」
かかとが踏まれてペタンコになった上履きを全力で踏みしめてわたしはスカートを翻す。周りにいる女の子よりもずっとずっと短いそれがめくれあがってパンツが見えたらどうしよう、なんて言っている暇もないのだ。
生徒指導係のヤマちゃん─────こと山下大先生はとにかくしつこい。スカートが短いだとか髪色が明るいだとかカラコンは禁止だとか、言い出したらきりがない。私は毎日できるだけヤマちゃんとは顔を合わせないように生活しているんだけど、今日は運悪く朝から遭遇してしまった。
廊下を走って、渡り廊下も走って、階段を駆け上がる。まだ下からヤマちゃんが「まてハルヤマ!」と叫んでいるので、仕方なくいつもの社会科資料室へと逃げ込んだ。
「ちょっとかくまって、古田センセ!」
「またおまえか、春山」
扉を開けて素早く閉める。たくさんの本棚が並んだ壁横、掃除道具入れの中に慣れた手つきで忍び込む。それを呆れたように見つめるのは、社会科担当の古田先生だ。
私が掃除道具入れの扉を閉めたのと、社会科資料室の扉が再び開いたのはほぼ同時だった。ガラリと大きな音を立てた瞬間、ヤマちゃんが大声で「ハル……」とハルヤマの途中までを言いかけて踏みとどまる。
古田先生の姿が目に入ったからだ。
「ああ古田先生いらしたんですか、すいませんね、いきなり開けてしまって」
「大丈夫ですよ。僕もまだ出勤したばかりですから」
「ところでハルヤマ─────春山千明、見てないですかね?」
「また春山ですか。今日は見てませんねえ」
「そうですか、ありがとうございます。それではまた朝礼で」
古田先生よりも20歳以上年上だというのに、ヤマちゃんは意外と礼儀正しくて律儀な人だ。年下の教員にもきちんと敬語を使って敬意を払う。そこが憎めないところでもあるんだけれど、そこを利用してしまってる自分もいる。
ヤマちゃんが出て行ったのを確認したあと、私はゆっくりと掃除道具入れから身を出した。
「ありがと、センセ」
「山下先生も気づいてるんだろうけどなあ」
「どーだか。古田センセの演技いつもうまいし」
窓際に設けられたデスクに向かいながら、古田センセーは「それはどうも」とそっけない返事をする。
ヤマちゃんに追いかけられて困ったとき、私は大抵いつもここへ逃げ込んでくる。古田センセーがいるかどうかは五分五分くらい。センセーは大抵、私が追いかけられているのを助けてくれる。
「それで、今日は何したの」
「何したのって、人聞きの悪い」
「山下先生だって何かなきゃ怒らないよ」
「今日は本当に何もしてないって。ただ……2日前の頭髪検査は黒スプレーして逃れたけど、今日はこの通り、完全に茶色いからね」
「スカートも短いし?」
「それはご愛嬌」
茶髪にピアス、メイクと短いスカート、人と違うところなんてそれだけ。
遅刻もしない、欠席もしない、早退もしない。毎日きちんと学校に来て、みんなと同じ授業を受けている。でも、見た目がみんなとかけ離れているだけで、周りからのバッシングはかなり大きい。
「規則だからなあ、春山」
「……アンタが好きにしたらいいって言ったんでしょ」
「こら、先生と呼びなさい先生と」
「古田センセーのせい」
「俺のせいにされたら、教師失格だなあ」
そこでやっと、古田センセーはくすくす笑う。全然教師失格なんかじゃないよ、センセー。
だって、好きなものを好きでいればいいって言ってくれたのはセンセーなんだもん。
「……わたしってそんなに変かな?」
「どこが変だと思うの?」
「みんなが守ってる規則、破ってるし」
「破っていいって言ったのは俺だからなあ」
「ちゃんと覚えてるじゃん」
「もちろん、教師だからね」
古田センセーはよくわからない理論を並べるのが得意だ。高校三年生になってもまだ、人の言葉を全部読み取るのは難しい。
◇
古田センセーと出会ったのはちょうど一年前くらい。まだわたしがみんなと同じ髪色で、みんなと同じ丈のスカートをはいていた頃。
その頃好きだった雑誌の表紙を飾ったモデルの女の子が、綺麗な綺麗な髪色をしていた。ピンクがかった綺麗な茶髪。その雑誌がわたしはたいそう気に入って、通学時間の電車の中も、放課の時間も、授業中も、隅々まで見逃さないように読み込んだ。
そんな時、現代社会の授業後、今まで全くと言っていいほど関わりのなかった古田先生に呼ばれたのだ。
「放課後、社会科資料室にきてくれる?」って。
当時真面目を絵に描いたような生徒だった私は、センセーに呼び出されたことがとにかく怖かった。その日の放課後、恐る恐る社会科準備室の扉を開けると、古田センセーは『あの雑誌、お気に入り?』と単刀直入に聞いてきた。
『すいません、授業中に読んでて、反省してます……』
『はは、反省? なんで?』
本当に不思議そうに『なんで?』と問いかけてきた古田センセーに私は拍子抜けしてしまった。なんで、って。授業中に余所事をしていたんだから、怒られるに決まっていると思ったのだ。
『怒ってる、んですよね?』
『あれ、怒ってるなんて言った?』
『いや、言ってないですけど……』
センセーが怒っていないのなら、どうしてこんなところに呼び出したのか甚だ疑問だった。その頃はまだ、身だしなみ検査で引っかかったことも、テストで赤点を取ったこともなかったからだ。
『あの雑誌の何が好きなの、春山』
『えっ……』
古田センセーは私のクラスの副担任だ。年齢は二十代前半、見た目もそれ相応。現代社会の授業と、たまに担任がいない時のホームルームで顔を合わせるくらい。個人的に話したことは一度もなかった。
『ほら、この間進路希望調査出したろ』
『ああ……』
『白紙で出したの、春山だけだったよ』
また高校二年生だというのに、今のうちから卒業後の進路を考えろだなんて馬鹿げてる。そう思って書かなかった─────いや、書けなかった進路希望調査を、担任だけでなく副担任の古田センセーまで見ているなんて知らなかった。
『すいません……』
『いや、別に責めてないよ。それに、無理に書くものじゃないからね』
『そうですけど……』
『それより、あの雑誌の、何がそんなに好きだったの、春山』
そこに話が戻るとは思ってもいなくて、私はびっくりしてしまう。だってそんなこと、古田センセーにはどうだっていいはずなのに。
『……髪色綺麗だなあ、って。好きなお洒落をして、メイクをして、髪を染めて……綺麗だなあって、単純にそう思ったから……』
『ああ、春山は髪、染めてないもんな』
こくりと頷く。うちの学校は年に数回身だしなみ検査があって、その度に髪を染めてないか、メイクをしていないか、ピアスの穴を開けていないかチェックされる。馬鹿みたいに、みんな同じように列に並んで。
それでも、先生の目を盗んで髪を染めている子は少数だけど確かにいる。身だしなみ検査の時だけ黒スプレーをして、普段は他の人よりも茶色い髪を弄びながら。
『生き方は人それぞれだぞ、春山』
『どういう意味ですか?』
『綺麗だと思うなら、真似してみればいい』
『えっ……でもそしたら、校則に引っかかります』
『決められたルールを守ることだけが正解とは、先生は思わないな』
まさか〝先生〟という立場の人にそんなことを言われるだなんて思ってもいなかった。古田センセーはにっこり笑って、『すきなことが見つかったら、進路希望調査を白紙で出さなくてもよくなるかもしれないし、ね』と付け足した。
今思い返せば、きっと忙しい担任の代わりに、副担の古田センセーが進路希望調査を白紙で出した私にアドバイスをするようなつもりだったんだろう。でも思いの外わたしには古田センセーの言葉は重く響いた。だってそれは、『変わっていい』と誰かに背中を押されたことと同じだったんだ。
変わることは案外簡単だった。
スカートを折り曲げて、髪を染めて、ピアスホールを片耳あけた。まつげを真っ直ぐ伸ばすマスカラと、赤すぎないリップをつけたら戦闘の合図。─────でもたったそれだけ。
外見を変えただけで、周りの人の評価も、見る目も、あっという間に変わった。変わってしまった。
◇
「古田センセーって変わってるよね」
「え? なんで?」
センセーが不思議そうに私を見る。チラリと時計を見て、ホームルームが始まるまでまだ時間があると確認した。わたしはセンセーの机の横に用意されたパイプ椅子に遠慮なく座る。
誰のために用意されたものなのかは知らない。初めてここに来た時からそれは存在してたから。
「だって、センセーは私がこんな格好してても怒らないじゃん」
「怒る理由がないからなあ」
「校則破ってるのに?」
「まあ、ある程度ルールは守ってほしいけどね」
「それは建前でしょ」
「はは、セーカイ。本音は好きなことすればいいと思ってるよ」
そんな教師失格のような言葉を言いのけながら、ひとさし指をそっと自分の唇にあてて「内緒ね」と笑う。
高校三年生にもなって、古田センセーが副担でもなくなって。完全に私とセンセーの繋がりなんて何もなくなってしまったのに、こうやって時々ヤマちゃんから逃げる私をかくまってくれるセンセーはすごく偉大だ。それに、私のどうでもいい話に、いつもこうやってちゃんと耳を傾けてくれる。
「センセー、実はさ。……進路希望調査、まだ書けてないんだ、わたし」
「へえ」
「へえって……」
「でも春山、成績悪くないだろ?」
「まあ悪くはないよ。でも、みんなみたいに夢もないし、やりたいこともないし、結局こんな風に見た目だけなりたい自分に慣れても、中身が空っぽなんだ、わたし」
「じゃあ戻るの? 前の春山に」
「それは……戻らない」
「はは、うん、春山はそれでいいんじゃない?」
「何それ」
「変わらないでいてよ、今のままで」
変わらないでいてよ、なんて。
変わっていい、とわたしの背中を押したのはセンセーなのに。
泣きそうな顔をしていた。いつも余裕そうに笑っているセンセーの表情があまりにも切なそうで、わたしの心臓が脈だつ。
ううん、きっと泣いていたのかもしれない。センセーの心が、泣いている気がしたんだ。
「そろそろホームルーム始まるんじゃない? 春山」
センセーがそう言った瞬間、表情はいつもの余裕そうな笑顔に戻る。時計を確認するとたしかにそろそろホームルームが始まる時間だった。教室に戻らなければ遅刻扱いになってしまう。
はーい、なんてわざと明るい返事をして、ゆっくり席を立つ。そのまま社会科資料室を出たけれど、センセーからはそれ以上言葉をもらえることはなかった。
本当は知ってる。だけど知らないふりをしている。センセーの机の上に飾られた、清楚で綺麗な女の人の写真のこと。
◇
古田センセーについて知っていることはほとんどない。
例えば、センセーの年齢は非公開らしい。高校2年のいちばん最初のホームルーム、自己紹介をしたセンセーは『古田 晃です。年齢は非公開。担任よりは若いです』と言ってクラス中の笑いをとった。
その時はみんな、笑いを取るだけだと思っていた。けれど、センセーは今現在─────私が高校3年生になった今も、年齢を明かしていないのだ。
見た目は二十代。年もきっとそれ相応だとは思う。
誕生日、血液型、すきな食べ物、きらいな食べ物。趣味や経歴も─────答えろと言われたらどれもわからない。
ただ、センセーの笑った顔はなんだかすきだ。背筋はいつも少しだけ曲がっていて、細く華奢な身体には白シャツがとてもよく似合う。くせ毛の黒髪は他の先生たちよりも随分と長い。目にかかる前髪を揺らしながら、センセーは私をバカにしたようにけらけらとよくわらう。
わたしが見た目を変えても、センセーだけはわたしに対する接し方を変えなかった。
恋じゃない。憧れじゃない。だけど確かに古田センセーはわたしの中でトクベツで、知りたいようで知りたくない人。
ずっと、わたしの前を歩いていてほしいひとだ。
◇
放課後、わたしは山ちゃんに職員室前の廊下に呼び出されていた。今朝、追いかけられていたことについてだろう。
「春山、おまえは成績も悪くないし授業態度もしかりだ。けどな、その見た目はそのすべてを台無しにしてるんだぞ、わかってるか?」
「はあ」
「気の抜けた返事だな、本当にわかってるのか? 今年は受験も控えてるし、いくら成績が良くても周りはおまえを評価してくれなくなるんだぞ」
本当にわかってるのか、なんて言われたって。
放課後の職員室前、長机に向かって座らされたわたしは山ちゃんと向き合って話を聞いていた。たしかに山ちゃんの言っていることはきっと正しくて、この社会を生きていくのに当たり前の選択をさせてくれようとしていて。
わかってる。わかってるけど。
人と違うことが、誰かのルールを外れることがそんなに悪いことなのか私にはわからない。個性を持つことが大事だと、自分を持つことが大切だと、そんなことを教えるくせに私たちをルールで縛る学校が理解できない。
「山ちゃんはさ、」
わたしが突然声を出したので、山ちゃんは長々話していた言葉を止めた。
「わたしがちゃんと規則を守ったら、未来が見えてくると思う?」
「……未来?」
「未来っていうか、進路っていうか、さ」
真っ白なまま、書けなかった進路希望調査を思い出す。2年生のはじめとおわり、そしていま。ずっと、ずっと、私の明日は見えないでいる。
「春山がどういう道に進みたいか俺にはわからんが、いらない敵はつくらないほうがいい。違うか? おまえに行きたい道が出来た時、できるだけそこにたどり着くのを手伝ってくれる人がいた方がいいだろう」
「今の私じゃ、ダメなの?」
「……俺や古田先生がゆるしても、世間は認めてくれないだろうな」
びっくりした。なんとなく気づいてはいたけれど、山ちゃんはやっぱり、古田センセーが私の容姿についてなにも言わないでいてくれるのを知っていたんだ。
「春山は、何になりたい? 何がしたい?」
「……」
答えられなかった。
何になりたいとか、何がしたいとか、そんな明確な答えがあるならとっくにそれに向かって歩いてる。わたしにはそんな類のものが一切なくて、進路希望調査も、自分が想像する未来も、真っ白なままだ。
キラキラしたアイシャドウとか、パープルピンクの髪の毛とか、潤った艶のあるリップとか。そういうものに憧れて、焦がれて、手を伸ばした。
けれどそれだけだ。変わったのは外見だけ。誰より自由に生きてるように見えて、本当は誰よりずっとずっと縛られて、囚われてる。中身はずっとずっと変わらない。ううん、きっと変わりたくないと思ってる。
大人になるために捨てなきゃならないものが多すぎて、いっそのこと大人になることをやめれたらって、ずっとずっと。
「山下先生」
何も答えることができなくて、スカートの裾をぎゅっと握ったのとほぼ同時。向かい合って座る私と山ちゃんの上から、聞き覚えのある声がした。
「古田先生……どうなさいました?」
山ちゃんの声に、ゆっくり顔を上げる。そこには、にこりと笑った古田センセーが立っていた。
「あとは僕から話をしときますから、今日はこのくらいにしておいてやってください」
「いや、でも……」
「お願いします、この通り」
びっくりした。
だって、古田センセーが山ちゃんに向かって、深く頭を下げたから。
「やめてください古田先生、わかりましたから……頭上げてください」
焦って立ち上がった山ちゃんに、古田センセーは勢いよく顔を上げてニヤリと笑った。その瞬間、ああこれも作戦だったのかとわたしはセンセーを感心してしまう。
「それじゃ、連れて行きますね」
そのまま古田センセーがわたしの手首を掴んで歩き出す。え、という声を発する時間もないくらい。振り返ると驚いた顔をして山ちゃんが口をあんぐりと開けたまま固まっている。
ごめんね山ちゃん、山ちゃんがわたしのために言ってくれているのもわかっているけど。
掴まれた手首は何故だか熱く感じる。古田センセーは、社会科資料室に着くまでその手を一度も離さなかった。
◇
「ちょっと……」
社会科資料室についた途端、大きな音をたてて扉を閉めたのと同時に、センセーは私の手を離した。思わず口から出たのは嫌そうな低い声。自分でもかわいくないなあと思ってしまう。
センセーがあの場から私をここへ連れてきてくれたこと、本当はすごくうれしいのに。
「随分嫌そうだなあ、せっかく救ってあげたのに」
「いや、そんなことないけど……」
「山下先生に怒られる前に、俺から指導しないとな」
「え、指導……するの?」
当たり前だと言わんばかりに、センセーは私をいつものパイプ椅子へと手招いた。このまま逃してくれる気はさらさらないらしい。
「俺はね、正直生徒の身だしなみとかこの学校のルールとか心底どうでもいいと思ってる」
「……知ってる」
向かい合って座った先、センセーは苦笑いしながら「そっか」と視線をそらす。
「でもな、社会に出たら必ず理不尽なルールや好奇な目に晒されることなんて当たり前の話なんだよ、春山」
「そんなの……」
「人と違うっていうのは個性にもなるけど、言い方を変えれば協調性がないってこと。それをよく思わない奴っていうのは必ずいる」
でも。センセー、あんただけは、私が変わること、背中を押してくれた。今の私のままでいいって言ってくれた。
それはウソだった? 全部、私を喜ばせるために言ってたの?
「……あんただけは、味方でいてくれるって、思ってた」
「いつでも味方だよ、でもずっとじゃない」
「ずっとじゃないって、何?」
「例えば春山が卒業して、俺や山下先生の手を離れたら、もう守ってやることは出来ないんだよ」
「そんなの、守ってくれなくたって、1人で生きていける」
「1人で生きていけると思ってる人間がいちばん弱いんだよ。誰かに頼ることを知らない」
「なにそれ……矛盾してるよ」
唇がふるえた。
1年前、自分の世界を変えたのはセンセーなのに。色のない毎日を、光のない日常を、抜け出せたと思っていたのに。
気づけばまた私は暗いトンネルの中にいたの?
みんなが未来に向かって歩いているのを、いつもいつも後ろから追いかけてる。笑って、頷いて、適当にやり過ごして。
けれど本当は知ってたんだ、私なんて置いてけぼりで、この世界は変わっていくこと。永遠なんて存在しないこと。
本当はずっとわかってたんだよ。
でもね、センセー、変わらないでと言ったのはあんただったよ。変わっていいと背中を押したのは、あんただったよ。
「……俺ね、双子の妹がいるんだ」
その言葉にびくっとして顔を上げる。ずっと掴んでいたスカートの裾はしわくちゃになってしまった。
「それは……この、写真たての?」
バレてたか、とセンセーは乾いた声で笑った。ずっと気づいていて聞けなかった、この綺麗な女の人のこと。
「もうきっと二度と会うことなんて出来ないだろうけどね」
伏せ目がちにそう呟いて、そっとその写真たてを手に取る。その指先は心なしか震えていた。
私は何も言うことができなくて、この話が私にどう関係あるのかなんてわからないけど、センセーの中にあるもの全部、知りたいと思ってしまっていて。
「……どうして?」
「消えたんだよ、家族から、世間から、あいつの周り全部の人たちと縁を切って、1人で旅立った」
「どういうこと?」
「元々器用な奴でね。勉強や運動はどれも人並みくらいだったけど、芸術関連に関してあいつは同世代の中で群を抜いて才能があった」
センセーは一切こちらを見ようとしなかった。その代わりに、私はセンセーから視線を離そうとはしなかった。
「音楽や美術はもちろんだけど、あいつがいちばん興味を持ったのが映像関連だった。写真も撮るし、映像もつくる。学生の頃、あの年齢でこんなにいい作品が作れるなんて、って割と注目されてた」
「それなのに……消えたの?」
「問題はSNSだった。今の時代、誰でも自分ことを発信できる時代だからね。けれど、人と違う道を歩むことを決めたあいつを妬んだ輩が大勢いたんだ」
才能に嫉妬して、一般人の群れを出た妹は社会の闇を見た、と。
SNSで浴びせられる顔の見えない誹謗中傷、根拠のない噂、過度な好意、その他諸々。段々と弱っていくその姿が、痛々しくて、と。
「見てられなかったんだ、壊れていく自分の片われを。誰よりも応援してたし、誰よりも俺がいちばんあいつの才能を認めてたはずなのに、気づけば反対側の人間になって、こっちに戻ってこいと手を引いてたんだ」
そのままで、変わらないでいてくれと泣くほど妹の才能に憧れていたのは俺の方だったのに、いつの間にかずっと一緒にいることを拒んで、責め立てた。
……そう続いたセンセーの声は、いつものそれよりも随分と弱々しく情け無いものだった。
「正直自分でも、何が正解かなんてわかんないんだ、こんな教師でごめんって本当に思うよ。でもな、春山、おまえが変わることに対して背中を押した俺は絶対に嘘じゃない。嘘じゃないんだ。でもわかっただろう、変わり続けていることが、周りから後ろ指を指されることだって」
センセーがこっちを見た。そのゆらゆらとした瞳に、グッと何かが込み上げてくる。
─────高校2年、自分の好きなように容姿を変えた。
キラキラした毎日が待っていると思っていた。自分の好きなことを貫いて、人と違ったように生きることが、すごいことなんだって思ってた。
でも実際は、どこか息苦しかった。
誰にも認めてもらえなくて、ただ少し容姿が違うだけ、ルールから抜けただけ、あとは何も変わっていないのに、全部を否定するみたいに周りの人間は私を遠ざけた。
変わることは簡単だった。
けれど、それをずっと続けていくことの方が、変わらないでいることの方がきっとずっとずっと難しいことだったんだ。
「俺はね、否定するつもりはないんだ。むしろ人と違うことをするってこと自体、賞賛すべきことなんだと思ってる。でも同時に、それで潰れていった人のことも知ってるからこそ、春山の選択を手放しで見ていることはできないんだよ」
潰れた、のかな。センセー、本当に、センセーの妹は、そうなのかな。
「……妹さんは今何を?」
「わからないよ、探そうともしてない。すべてと縁を切って、あいつは自分の道を選んだんだ」
「……名前は?」
「……古田ナツメ」
─────フルタ ナツメ。
私は咄嗟にスマホを取り出す。その名前を急いでタップして検索すると、たくさんの作品たちが出てきた。そのどれも、学生時代のものだ。
ゆっくりとそれを下へスクロールしていく。
そしてわたしは、あるひと作品に目を奪われる。
それは、煌めいた夕日の中で、女の子がこっちを見ている写真だった。思わず指先が震えて、スマホをただみつめることしかできない。
「……センセー、わたし、この写真の女の子知ってる。このメイクの仕方も、髪の色も、同じ」
「……え?」
「わたしが、最初にずっとずっと見てた、あの雑誌の表紙を飾ったモデルなの」
─────既視感とはこういうことか。
「あの表紙とは全く違う写真だけど、だけど、似てる、すごく、撮り方が似てるんだよ」
「何言って……」
センセーの言葉を遮るように、私は1年前私が釘付けになっていた雑誌を検索する。何月号だっただろうか、あの表紙の写真を撮ったのは誰だったんだろうか。
小さなスマホの画面の中で指を滑らせて、滑らせて、─────そして。
「……見つけた」
私が釘付けになったあの雑誌の表紙を撮ったクリエイター。私はゆっくりとそのプロフィールをなぞってゆく。
名前はJuju、本名と本人写真は非公開。女性。誕生日は19××年8月20日、国籍は日本、現在は主に海外で活動を続けている。
「……センセー、誕生日は?」
「誕生日って……19××年、8月20日」
─────アタリだ。
それに、ナツメは英語にすると「jujube」、つまりJujuという名前は自分の本名から取ってるんだ。
私はJujuと名乗るクリエイターが今までに作り出してきた作品たちを開いて、スマホをセンセーの方へと向けた。
「ねえ、この写真や映像たち、なにか感じるものあるんじゃないの、センセー」
「………」
釘付けになっていた。私のスマホをゆっくりと手に取り、震える手で順番にスクロールしていく。
人間の癖なんてきっとそう簡単には直らないんだろう。学生のまだ未熟だった頃の作品しか見たことがなくたって、ここに並ぶ作品たちが自分の妹のものだって、一番近くで見てきたセンセーならきっとわかるだろう。
「どうして……」
「縁を切って、消えて、誰も自分のことを知らない場所で、1から歩いてたんだね。センセーの妹は、誰より強かったんだね」
センセーの目から涙がひとつぶ、またひとつぶ、静かに流れていくのを見ていた。
センセー、わたし、いま、わかった気がするよ。
ずっと大人になんてなりたくないと思ってた。
自分のなりたい自分でいることが強さだと勘違いしてた。周りに溶け込んで生きていくのが億劫で、なりたい自分を捨てて大人になるくらいならいっそなことならなくてもいいじゃないかって、思ってた。
でもきっと、認められないことが怖かっただけなんだ。
大人になるにつれて見えなくなるものがこわかった、自分自身の存在理由が消えてしまいそうでこわかった、私はこうして生きていくんだって、強がってたんだ。
変わることが悪いんじゃない。みんなと違う自分は悪いことなんかじゃない。それを自分自身が認めて、受け入れて、誇りにして、生きていくんだって。
「センセー、わたし、決めた」
声が出せないセンセーは、目元を右手で抑えながら頷く。それが精一杯な返事だったんだろう。
「私、自分を変えてくれたこの雑誌に関わることがしたい。どうやって関わっていくかはまだわかんないけど、でも、いま、はっきり自分のビジョンが見えたよ」
なにも見えなかった将来のこと、追いかける何かは、きっと自分の中にずっとずっとあった。
「……この容姿をさ、元に戻そうとは、私思わない。理由ができたから」
理由なく変わった自分と、理由ができたからこそ変わらないでいる選択を、誰でもない私が受け入れるんだ。
「センセー、2度目の変わるきっかけをくれて、本当に、ありがとう」
「いつでも、……おれが背中を押した人たちは、おれよりも強かったな」
弱々しくそう言ったセンセーが、目を赤くして笑う。手にしたスマホから見えた妹さんの作品たちは、画面越しからでもキラキラ輝いて見えた。
「まーたおまえか、ハルヤマア」
「ゲ、まーたヤマちゃんか」
「なにがヤマちゃんだ、山下大先生だろハルヤマア!」
かかとが踏まれてペタンコになった上履きを全力で踏みしめてわたしはスカートを翻す。周りにいる女の子よりもずっとずっと短いそれがめくれあがってパンツが見えたらどうしよう、なんて言っている暇もないのだ。
生徒指導係のヤマちゃん─────こと山下大先生はとにかくしつこい。スカートが短いだとか髪色が明るいだとかカラコンは禁止だとか、言い出したらきりがない。私は毎日できるだけヤマちゃんとは顔を合わせないように生活しているんだけど、今日は運悪く朝から遭遇してしまった。
廊下を走って、渡り廊下も走って、階段を駆け上がる。まだ下からヤマちゃんが「まてハルヤマ!」と叫んでいるので、仕方なくいつもの社会科資料室へと逃げ込んだ。
「ちょっとかくまって、古田センセ!」
「またおまえか、春山」
扉を開けて素早く閉める。たくさんの本棚が並んだ壁横、掃除道具入れの中に慣れた手つきで忍び込む。それを呆れたように見つめるのは、社会科担当の古田先生だ。
私が掃除道具入れの扉を閉めたのと、社会科資料室の扉が再び開いたのはほぼ同時だった。ガラリと大きな音を立てた瞬間、ヤマちゃんが大声で「ハル……」とハルヤマの途中までを言いかけて踏みとどまる。
古田先生の姿が目に入ったからだ。
「ああ古田先生いらしたんですか、すいませんね、いきなり開けてしまって」
「大丈夫ですよ。僕もまだ出勤したばかりですから」
「ところでハルヤマ─────春山千明、見てないですかね?」
「また春山ですか。今日は見てませんねえ」
「そうですか、ありがとうございます。それではまた朝礼で」
古田先生よりも20歳以上年上だというのに、ヤマちゃんは意外と礼儀正しくて律儀な人だ。年下の教員にもきちんと敬語を使って敬意を払う。そこが憎めないところでもあるんだけれど、そこを利用してしまってる自分もいる。
ヤマちゃんが出て行ったのを確認したあと、私はゆっくりと掃除道具入れから身を出した。
「ありがと、センセ」
「山下先生も気づいてるんだろうけどなあ」
「どーだか。古田センセの演技いつもうまいし」
窓際に設けられたデスクに向かいながら、古田センセーは「それはどうも」とそっけない返事をする。
ヤマちゃんに追いかけられて困ったとき、私は大抵いつもここへ逃げ込んでくる。古田センセーがいるかどうかは五分五分くらい。センセーは大抵、私が追いかけられているのを助けてくれる。
「それで、今日は何したの」
「何したのって、人聞きの悪い」
「山下先生だって何かなきゃ怒らないよ」
「今日は本当に何もしてないって。ただ……2日前の頭髪検査は黒スプレーして逃れたけど、今日はこの通り、完全に茶色いからね」
「スカートも短いし?」
「それはご愛嬌」
茶髪にピアス、メイクと短いスカート、人と違うところなんてそれだけ。
遅刻もしない、欠席もしない、早退もしない。毎日きちんと学校に来て、みんなと同じ授業を受けている。でも、見た目がみんなとかけ離れているだけで、周りからのバッシングはかなり大きい。
「規則だからなあ、春山」
「……アンタが好きにしたらいいって言ったんでしょ」
「こら、先生と呼びなさい先生と」
「古田センセーのせい」
「俺のせいにされたら、教師失格だなあ」
そこでやっと、古田センセーはくすくす笑う。全然教師失格なんかじゃないよ、センセー。
だって、好きなものを好きでいればいいって言ってくれたのはセンセーなんだもん。
「……わたしってそんなに変かな?」
「どこが変だと思うの?」
「みんなが守ってる規則、破ってるし」
「破っていいって言ったのは俺だからなあ」
「ちゃんと覚えてるじゃん」
「もちろん、教師だからね」
古田センセーはよくわからない理論を並べるのが得意だ。高校三年生になってもまだ、人の言葉を全部読み取るのは難しい。
◇
古田センセーと出会ったのはちょうど一年前くらい。まだわたしがみんなと同じ髪色で、みんなと同じ丈のスカートをはいていた頃。
その頃好きだった雑誌の表紙を飾ったモデルの女の子が、綺麗な綺麗な髪色をしていた。ピンクがかった綺麗な茶髪。その雑誌がわたしはたいそう気に入って、通学時間の電車の中も、放課の時間も、授業中も、隅々まで見逃さないように読み込んだ。
そんな時、現代社会の授業後、今まで全くと言っていいほど関わりのなかった古田先生に呼ばれたのだ。
「放課後、社会科資料室にきてくれる?」って。
当時真面目を絵に描いたような生徒だった私は、センセーに呼び出されたことがとにかく怖かった。その日の放課後、恐る恐る社会科準備室の扉を開けると、古田センセーは『あの雑誌、お気に入り?』と単刀直入に聞いてきた。
『すいません、授業中に読んでて、反省してます……』
『はは、反省? なんで?』
本当に不思議そうに『なんで?』と問いかけてきた古田センセーに私は拍子抜けしてしまった。なんで、って。授業中に余所事をしていたんだから、怒られるに決まっていると思ったのだ。
『怒ってる、んですよね?』
『あれ、怒ってるなんて言った?』
『いや、言ってないですけど……』
センセーが怒っていないのなら、どうしてこんなところに呼び出したのか甚だ疑問だった。その頃はまだ、身だしなみ検査で引っかかったことも、テストで赤点を取ったこともなかったからだ。
『あの雑誌の何が好きなの、春山』
『えっ……』
古田センセーは私のクラスの副担任だ。年齢は二十代前半、見た目もそれ相応。現代社会の授業と、たまに担任がいない時のホームルームで顔を合わせるくらい。個人的に話したことは一度もなかった。
『ほら、この間進路希望調査出したろ』
『ああ……』
『白紙で出したの、春山だけだったよ』
また高校二年生だというのに、今のうちから卒業後の進路を考えろだなんて馬鹿げてる。そう思って書かなかった─────いや、書けなかった進路希望調査を、担任だけでなく副担任の古田センセーまで見ているなんて知らなかった。
『すいません……』
『いや、別に責めてないよ。それに、無理に書くものじゃないからね』
『そうですけど……』
『それより、あの雑誌の、何がそんなに好きだったの、春山』
そこに話が戻るとは思ってもいなくて、私はびっくりしてしまう。だってそんなこと、古田センセーにはどうだっていいはずなのに。
『……髪色綺麗だなあ、って。好きなお洒落をして、メイクをして、髪を染めて……綺麗だなあって、単純にそう思ったから……』
『ああ、春山は髪、染めてないもんな』
こくりと頷く。うちの学校は年に数回身だしなみ検査があって、その度に髪を染めてないか、メイクをしていないか、ピアスの穴を開けていないかチェックされる。馬鹿みたいに、みんな同じように列に並んで。
それでも、先生の目を盗んで髪を染めている子は少数だけど確かにいる。身だしなみ検査の時だけ黒スプレーをして、普段は他の人よりも茶色い髪を弄びながら。
『生き方は人それぞれだぞ、春山』
『どういう意味ですか?』
『綺麗だと思うなら、真似してみればいい』
『えっ……でもそしたら、校則に引っかかります』
『決められたルールを守ることだけが正解とは、先生は思わないな』
まさか〝先生〟という立場の人にそんなことを言われるだなんて思ってもいなかった。古田センセーはにっこり笑って、『すきなことが見つかったら、進路希望調査を白紙で出さなくてもよくなるかもしれないし、ね』と付け足した。
今思い返せば、きっと忙しい担任の代わりに、副担の古田センセーが進路希望調査を白紙で出した私にアドバイスをするようなつもりだったんだろう。でも思いの外わたしには古田センセーの言葉は重く響いた。だってそれは、『変わっていい』と誰かに背中を押されたことと同じだったんだ。
変わることは案外簡単だった。
スカートを折り曲げて、髪を染めて、ピアスホールを片耳あけた。まつげを真っ直ぐ伸ばすマスカラと、赤すぎないリップをつけたら戦闘の合図。─────でもたったそれだけ。
外見を変えただけで、周りの人の評価も、見る目も、あっという間に変わった。変わってしまった。
◇
「古田センセーって変わってるよね」
「え? なんで?」
センセーが不思議そうに私を見る。チラリと時計を見て、ホームルームが始まるまでまだ時間があると確認した。わたしはセンセーの机の横に用意されたパイプ椅子に遠慮なく座る。
誰のために用意されたものなのかは知らない。初めてここに来た時からそれは存在してたから。
「だって、センセーは私がこんな格好してても怒らないじゃん」
「怒る理由がないからなあ」
「校則破ってるのに?」
「まあ、ある程度ルールは守ってほしいけどね」
「それは建前でしょ」
「はは、セーカイ。本音は好きなことすればいいと思ってるよ」
そんな教師失格のような言葉を言いのけながら、ひとさし指をそっと自分の唇にあてて「内緒ね」と笑う。
高校三年生にもなって、古田センセーが副担でもなくなって。完全に私とセンセーの繋がりなんて何もなくなってしまったのに、こうやって時々ヤマちゃんから逃げる私をかくまってくれるセンセーはすごく偉大だ。それに、私のどうでもいい話に、いつもこうやってちゃんと耳を傾けてくれる。
「センセー、実はさ。……進路希望調査、まだ書けてないんだ、わたし」
「へえ」
「へえって……」
「でも春山、成績悪くないだろ?」
「まあ悪くはないよ。でも、みんなみたいに夢もないし、やりたいこともないし、結局こんな風に見た目だけなりたい自分に慣れても、中身が空っぽなんだ、わたし」
「じゃあ戻るの? 前の春山に」
「それは……戻らない」
「はは、うん、春山はそれでいいんじゃない?」
「何それ」
「変わらないでいてよ、今のままで」
変わらないでいてよ、なんて。
変わっていい、とわたしの背中を押したのはセンセーなのに。
泣きそうな顔をしていた。いつも余裕そうに笑っているセンセーの表情があまりにも切なそうで、わたしの心臓が脈だつ。
ううん、きっと泣いていたのかもしれない。センセーの心が、泣いている気がしたんだ。
「そろそろホームルーム始まるんじゃない? 春山」
センセーがそう言った瞬間、表情はいつもの余裕そうな笑顔に戻る。時計を確認するとたしかにそろそろホームルームが始まる時間だった。教室に戻らなければ遅刻扱いになってしまう。
はーい、なんてわざと明るい返事をして、ゆっくり席を立つ。そのまま社会科資料室を出たけれど、センセーからはそれ以上言葉をもらえることはなかった。
本当は知ってる。だけど知らないふりをしている。センセーの机の上に飾られた、清楚で綺麗な女の人の写真のこと。
◇
古田センセーについて知っていることはほとんどない。
例えば、センセーの年齢は非公開らしい。高校2年のいちばん最初のホームルーム、自己紹介をしたセンセーは『古田 晃です。年齢は非公開。担任よりは若いです』と言ってクラス中の笑いをとった。
その時はみんな、笑いを取るだけだと思っていた。けれど、センセーは今現在─────私が高校3年生になった今も、年齢を明かしていないのだ。
見た目は二十代。年もきっとそれ相応だとは思う。
誕生日、血液型、すきな食べ物、きらいな食べ物。趣味や経歴も─────答えろと言われたらどれもわからない。
ただ、センセーの笑った顔はなんだかすきだ。背筋はいつも少しだけ曲がっていて、細く華奢な身体には白シャツがとてもよく似合う。くせ毛の黒髪は他の先生たちよりも随分と長い。目にかかる前髪を揺らしながら、センセーは私をバカにしたようにけらけらとよくわらう。
わたしが見た目を変えても、センセーだけはわたしに対する接し方を変えなかった。
恋じゃない。憧れじゃない。だけど確かに古田センセーはわたしの中でトクベツで、知りたいようで知りたくない人。
ずっと、わたしの前を歩いていてほしいひとだ。
◇
放課後、わたしは山ちゃんに職員室前の廊下に呼び出されていた。今朝、追いかけられていたことについてだろう。
「春山、おまえは成績も悪くないし授業態度もしかりだ。けどな、その見た目はそのすべてを台無しにしてるんだぞ、わかってるか?」
「はあ」
「気の抜けた返事だな、本当にわかってるのか? 今年は受験も控えてるし、いくら成績が良くても周りはおまえを評価してくれなくなるんだぞ」
本当にわかってるのか、なんて言われたって。
放課後の職員室前、長机に向かって座らされたわたしは山ちゃんと向き合って話を聞いていた。たしかに山ちゃんの言っていることはきっと正しくて、この社会を生きていくのに当たり前の選択をさせてくれようとしていて。
わかってる。わかってるけど。
人と違うことが、誰かのルールを外れることがそんなに悪いことなのか私にはわからない。個性を持つことが大事だと、自分を持つことが大切だと、そんなことを教えるくせに私たちをルールで縛る学校が理解できない。
「山ちゃんはさ、」
わたしが突然声を出したので、山ちゃんは長々話していた言葉を止めた。
「わたしがちゃんと規則を守ったら、未来が見えてくると思う?」
「……未来?」
「未来っていうか、進路っていうか、さ」
真っ白なまま、書けなかった進路希望調査を思い出す。2年生のはじめとおわり、そしていま。ずっと、ずっと、私の明日は見えないでいる。
「春山がどういう道に進みたいか俺にはわからんが、いらない敵はつくらないほうがいい。違うか? おまえに行きたい道が出来た時、できるだけそこにたどり着くのを手伝ってくれる人がいた方がいいだろう」
「今の私じゃ、ダメなの?」
「……俺や古田先生がゆるしても、世間は認めてくれないだろうな」
びっくりした。なんとなく気づいてはいたけれど、山ちゃんはやっぱり、古田センセーが私の容姿についてなにも言わないでいてくれるのを知っていたんだ。
「春山は、何になりたい? 何がしたい?」
「……」
答えられなかった。
何になりたいとか、何がしたいとか、そんな明確な答えがあるならとっくにそれに向かって歩いてる。わたしにはそんな類のものが一切なくて、進路希望調査も、自分が想像する未来も、真っ白なままだ。
キラキラしたアイシャドウとか、パープルピンクの髪の毛とか、潤った艶のあるリップとか。そういうものに憧れて、焦がれて、手を伸ばした。
けれどそれだけだ。変わったのは外見だけ。誰より自由に生きてるように見えて、本当は誰よりずっとずっと縛られて、囚われてる。中身はずっとずっと変わらない。ううん、きっと変わりたくないと思ってる。
大人になるために捨てなきゃならないものが多すぎて、いっそのこと大人になることをやめれたらって、ずっとずっと。
「山下先生」
何も答えることができなくて、スカートの裾をぎゅっと握ったのとほぼ同時。向かい合って座る私と山ちゃんの上から、聞き覚えのある声がした。
「古田先生……どうなさいました?」
山ちゃんの声に、ゆっくり顔を上げる。そこには、にこりと笑った古田センセーが立っていた。
「あとは僕から話をしときますから、今日はこのくらいにしておいてやってください」
「いや、でも……」
「お願いします、この通り」
びっくりした。
だって、古田センセーが山ちゃんに向かって、深く頭を下げたから。
「やめてください古田先生、わかりましたから……頭上げてください」
焦って立ち上がった山ちゃんに、古田センセーは勢いよく顔を上げてニヤリと笑った。その瞬間、ああこれも作戦だったのかとわたしはセンセーを感心してしまう。
「それじゃ、連れて行きますね」
そのまま古田センセーがわたしの手首を掴んで歩き出す。え、という声を発する時間もないくらい。振り返ると驚いた顔をして山ちゃんが口をあんぐりと開けたまま固まっている。
ごめんね山ちゃん、山ちゃんがわたしのために言ってくれているのもわかっているけど。
掴まれた手首は何故だか熱く感じる。古田センセーは、社会科資料室に着くまでその手を一度も離さなかった。
◇
「ちょっと……」
社会科資料室についた途端、大きな音をたてて扉を閉めたのと同時に、センセーは私の手を離した。思わず口から出たのは嫌そうな低い声。自分でもかわいくないなあと思ってしまう。
センセーがあの場から私をここへ連れてきてくれたこと、本当はすごくうれしいのに。
「随分嫌そうだなあ、せっかく救ってあげたのに」
「いや、そんなことないけど……」
「山下先生に怒られる前に、俺から指導しないとな」
「え、指導……するの?」
当たり前だと言わんばかりに、センセーは私をいつものパイプ椅子へと手招いた。このまま逃してくれる気はさらさらないらしい。
「俺はね、正直生徒の身だしなみとかこの学校のルールとか心底どうでもいいと思ってる」
「……知ってる」
向かい合って座った先、センセーは苦笑いしながら「そっか」と視線をそらす。
「でもな、社会に出たら必ず理不尽なルールや好奇な目に晒されることなんて当たり前の話なんだよ、春山」
「そんなの……」
「人と違うっていうのは個性にもなるけど、言い方を変えれば協調性がないってこと。それをよく思わない奴っていうのは必ずいる」
でも。センセー、あんただけは、私が変わること、背中を押してくれた。今の私のままでいいって言ってくれた。
それはウソだった? 全部、私を喜ばせるために言ってたの?
「……あんただけは、味方でいてくれるって、思ってた」
「いつでも味方だよ、でもずっとじゃない」
「ずっとじゃないって、何?」
「例えば春山が卒業して、俺や山下先生の手を離れたら、もう守ってやることは出来ないんだよ」
「そんなの、守ってくれなくたって、1人で生きていける」
「1人で生きていけると思ってる人間がいちばん弱いんだよ。誰かに頼ることを知らない」
「なにそれ……矛盾してるよ」
唇がふるえた。
1年前、自分の世界を変えたのはセンセーなのに。色のない毎日を、光のない日常を、抜け出せたと思っていたのに。
気づけばまた私は暗いトンネルの中にいたの?
みんなが未来に向かって歩いているのを、いつもいつも後ろから追いかけてる。笑って、頷いて、適当にやり過ごして。
けれど本当は知ってたんだ、私なんて置いてけぼりで、この世界は変わっていくこと。永遠なんて存在しないこと。
本当はずっとわかってたんだよ。
でもね、センセー、変わらないでと言ったのはあんただったよ。変わっていいと背中を押したのは、あんただったよ。
「……俺ね、双子の妹がいるんだ」
その言葉にびくっとして顔を上げる。ずっと掴んでいたスカートの裾はしわくちゃになってしまった。
「それは……この、写真たての?」
バレてたか、とセンセーは乾いた声で笑った。ずっと気づいていて聞けなかった、この綺麗な女の人のこと。
「もうきっと二度と会うことなんて出来ないだろうけどね」
伏せ目がちにそう呟いて、そっとその写真たてを手に取る。その指先は心なしか震えていた。
私は何も言うことができなくて、この話が私にどう関係あるのかなんてわからないけど、センセーの中にあるもの全部、知りたいと思ってしまっていて。
「……どうして?」
「消えたんだよ、家族から、世間から、あいつの周り全部の人たちと縁を切って、1人で旅立った」
「どういうこと?」
「元々器用な奴でね。勉強や運動はどれも人並みくらいだったけど、芸術関連に関してあいつは同世代の中で群を抜いて才能があった」
センセーは一切こちらを見ようとしなかった。その代わりに、私はセンセーから視線を離そうとはしなかった。
「音楽や美術はもちろんだけど、あいつがいちばん興味を持ったのが映像関連だった。写真も撮るし、映像もつくる。学生の頃、あの年齢でこんなにいい作品が作れるなんて、って割と注目されてた」
「それなのに……消えたの?」
「問題はSNSだった。今の時代、誰でも自分ことを発信できる時代だからね。けれど、人と違う道を歩むことを決めたあいつを妬んだ輩が大勢いたんだ」
才能に嫉妬して、一般人の群れを出た妹は社会の闇を見た、と。
SNSで浴びせられる顔の見えない誹謗中傷、根拠のない噂、過度な好意、その他諸々。段々と弱っていくその姿が、痛々しくて、と。
「見てられなかったんだ、壊れていく自分の片われを。誰よりも応援してたし、誰よりも俺がいちばんあいつの才能を認めてたはずなのに、気づけば反対側の人間になって、こっちに戻ってこいと手を引いてたんだ」
そのままで、変わらないでいてくれと泣くほど妹の才能に憧れていたのは俺の方だったのに、いつの間にかずっと一緒にいることを拒んで、責め立てた。
……そう続いたセンセーの声は、いつものそれよりも随分と弱々しく情け無いものだった。
「正直自分でも、何が正解かなんてわかんないんだ、こんな教師でごめんって本当に思うよ。でもな、春山、おまえが変わることに対して背中を押した俺は絶対に嘘じゃない。嘘じゃないんだ。でもわかっただろう、変わり続けていることが、周りから後ろ指を指されることだって」
センセーがこっちを見た。そのゆらゆらとした瞳に、グッと何かが込み上げてくる。
─────高校2年、自分の好きなように容姿を変えた。
キラキラした毎日が待っていると思っていた。自分の好きなことを貫いて、人と違ったように生きることが、すごいことなんだって思ってた。
でも実際は、どこか息苦しかった。
誰にも認めてもらえなくて、ただ少し容姿が違うだけ、ルールから抜けただけ、あとは何も変わっていないのに、全部を否定するみたいに周りの人間は私を遠ざけた。
変わることは簡単だった。
けれど、それをずっと続けていくことの方が、変わらないでいることの方がきっとずっとずっと難しいことだったんだ。
「俺はね、否定するつもりはないんだ。むしろ人と違うことをするってこと自体、賞賛すべきことなんだと思ってる。でも同時に、それで潰れていった人のことも知ってるからこそ、春山の選択を手放しで見ていることはできないんだよ」
潰れた、のかな。センセー、本当に、センセーの妹は、そうなのかな。
「……妹さんは今何を?」
「わからないよ、探そうともしてない。すべてと縁を切って、あいつは自分の道を選んだんだ」
「……名前は?」
「……古田ナツメ」
─────フルタ ナツメ。
私は咄嗟にスマホを取り出す。その名前を急いでタップして検索すると、たくさんの作品たちが出てきた。そのどれも、学生時代のものだ。
ゆっくりとそれを下へスクロールしていく。
そしてわたしは、あるひと作品に目を奪われる。
それは、煌めいた夕日の中で、女の子がこっちを見ている写真だった。思わず指先が震えて、スマホをただみつめることしかできない。
「……センセー、わたし、この写真の女の子知ってる。このメイクの仕方も、髪の色も、同じ」
「……え?」
「わたしが、最初にずっとずっと見てた、あの雑誌の表紙を飾ったモデルなの」
─────既視感とはこういうことか。
「あの表紙とは全く違う写真だけど、だけど、似てる、すごく、撮り方が似てるんだよ」
「何言って……」
センセーの言葉を遮るように、私は1年前私が釘付けになっていた雑誌を検索する。何月号だっただろうか、あの表紙の写真を撮ったのは誰だったんだろうか。
小さなスマホの画面の中で指を滑らせて、滑らせて、─────そして。
「……見つけた」
私が釘付けになったあの雑誌の表紙を撮ったクリエイター。私はゆっくりとそのプロフィールをなぞってゆく。
名前はJuju、本名と本人写真は非公開。女性。誕生日は19××年8月20日、国籍は日本、現在は主に海外で活動を続けている。
「……センセー、誕生日は?」
「誕生日って……19××年、8月20日」
─────アタリだ。
それに、ナツメは英語にすると「jujube」、つまりJujuという名前は自分の本名から取ってるんだ。
私はJujuと名乗るクリエイターが今までに作り出してきた作品たちを開いて、スマホをセンセーの方へと向けた。
「ねえ、この写真や映像たち、なにか感じるものあるんじゃないの、センセー」
「………」
釘付けになっていた。私のスマホをゆっくりと手に取り、震える手で順番にスクロールしていく。
人間の癖なんてきっとそう簡単には直らないんだろう。学生のまだ未熟だった頃の作品しか見たことがなくたって、ここに並ぶ作品たちが自分の妹のものだって、一番近くで見てきたセンセーならきっとわかるだろう。
「どうして……」
「縁を切って、消えて、誰も自分のことを知らない場所で、1から歩いてたんだね。センセーの妹は、誰より強かったんだね」
センセーの目から涙がひとつぶ、またひとつぶ、静かに流れていくのを見ていた。
センセー、わたし、いま、わかった気がするよ。
ずっと大人になんてなりたくないと思ってた。
自分のなりたい自分でいることが強さだと勘違いしてた。周りに溶け込んで生きていくのが億劫で、なりたい自分を捨てて大人になるくらいならいっそなことならなくてもいいじゃないかって、思ってた。
でもきっと、認められないことが怖かっただけなんだ。
大人になるにつれて見えなくなるものがこわかった、自分自身の存在理由が消えてしまいそうでこわかった、私はこうして生きていくんだって、強がってたんだ。
変わることが悪いんじゃない。みんなと違う自分は悪いことなんかじゃない。それを自分自身が認めて、受け入れて、誇りにして、生きていくんだって。
「センセー、わたし、決めた」
声が出せないセンセーは、目元を右手で抑えながら頷く。それが精一杯な返事だったんだろう。
「私、自分を変えてくれたこの雑誌に関わることがしたい。どうやって関わっていくかはまだわかんないけど、でも、いま、はっきり自分のビジョンが見えたよ」
なにも見えなかった将来のこと、追いかける何かは、きっと自分の中にずっとずっとあった。
「……この容姿をさ、元に戻そうとは、私思わない。理由ができたから」
理由なく変わった自分と、理由ができたからこそ変わらないでいる選択を、誰でもない私が受け入れるんだ。
「センセー、2度目の変わるきっかけをくれて、本当に、ありがとう」
「いつでも、……おれが背中を押した人たちは、おれよりも強かったな」
弱々しくそう言ったセンセーが、目を赤くして笑う。手にしたスマホから見えた妹さんの作品たちは、画面越しからでもキラキラ輝いて見えた。



