きみは僕を変えられないし、僕にきみを変えられるほどの技量はない。
そんなこともう心の中で随分と前からわかっていたし、僕なりに君を大事にする努力だってしているつもりだった。
ずっと続くなんてそんなことはないって、心の何処かではちゃんとわかっていたつもりだったけど、本当に離ればなれになるとも思っていなかったのかもしれない。
だからきっとこんなにも哀しいんだろう。
君がいなくなったからじゃない。僕自身がとても情けなくて涙がでる。君のせいじゃない。
最後まで君に心を揺さぶられていたなんて事実は無根にしてしまいたいから、この涙は自分自身に向けてだと言っておく。誰に向けての言い訳なのかわからないけれど、そういうことにしておく。
朝、昨日当たり前のように僕のとなりで眠りについた君の姿はなかった。
代わりに残されていた「サヨナラ」の文字と、僕が1年前に君にあげた僕の部屋を開ける愛のカタチを見て、僕はいろんなことが終わったんだな、と思った。
僕の首筋に残る真っ赤な痕が、君の意地悪さを物語っているみたいだな。サヨナラを言うつもりだったのなら、どうして君は昨日僕の部屋に来たんだろう。
どうして僕の首に腕を回したりなんかしたんだろう。どうして僕の首筋に唇を這わせたんだろう。どうして、あんなにも切なそうに僕の名前を呼んだんだろう。
なあ、どうして、僕の心も、持って行ってくれなかったんだよ。
◇
「なあ、おまえ、大丈夫かよ」
手元が滑って店の食器を割った。もう2年も前からお世話になっているバイト先の居酒屋で、時給がいいからとそれだけの理由でずっと続けている。
「ああ、……悪い」
「別に俺はいいけど、オーナーに見つかったら叱られんぞ。幸い厨房の中だったから客に見られなくてよかったけど。早く片付けろよ」
僕より3ヶ月だけこのバイトの先輩である同級生の言葉に頷きながら、割れたガラスの破片を拾った。
落としたクランベリーのデザートの匂いが鼻をかすめた。赤いソースを拭きながら、まるで僕と君みたいだと思った。
君はこの店の角の壁に隠れた2人席がお気に入りで、決まって僕のシフトがあるときにやってきていた。
お酒に弱いはずの彼女が此処にやってきていたのは、この店のクランベリーを使ったデザートがお気に入りだったからで、死角になるあの席でバイトの僕とこっそりキスをするためじゃなかったんだろう。
赤いソースを全部拭き取ったとき、僕の首にある痕も消えたんじゃないかと思ってトイレへ駆け込んだ。
鏡に映った自分の、襟で隠れた首筋に残された赤い痕を見てなぜかホッとして、君は僕にこんな思いをさせたくてこんなものを残していったのかと思った。
あまりに残酷で、君は酷い奴だな。
視界が揺れて、体の中の物を全て吐き出した。苦い味と咳と嗚咽が漏れて、それを水に流したとき、いろんなことが、呆気ないものだと思った。
◇
僕は多分、世間で言うところの出来そこないだ。
社会に取り残された、バイトの稼ぎと親の仕送りだけでなんとか生きてるような、そんなクソみたいな奴。
20歳になって大学を辞めた。せっかく苦労して入ったのに、僕には行く意味を見出せなかった。
酒と女とタバコには気をつけろって、上京するとき親父が言った。本当にその通りだった。僕はタバコは吸わなかったけど、酒に溺れたし、女が好きだった。
アホみたいだった。アホみたいに遊んだ。僕は周りの奴らよりそれなりに顔立ちがいいみたいで、寄ってくる女はわんさかいた。僕はそれを、端から抱いた。
君に出逢ったのは、大学をやめて3ヶ月くらいした頃。僕はまだ20歳3ヶ月で、君はまだ20歳4ヶ月だった。
そういえば、あの日僕が夜の街で君を見た時、暗闇の中で一際目立つ赤い口紅に惹かれたんだった。
僕が声をかけた時、君は泣いていた。夜の街の片隅で、赤い唇を震わせながら、静かに涙を流していた。
あの夜泣いていた理由を僕は聞かなかったし、君も言おうとはしなかったね。
僕らはその時初めて出会ったのに、まるで熟したクランベリーが弾け飛ぶみたいに熱いキスをした。暗闇は僕らを隠していたし、君が僕を求めていたし、僕は君に一目惚れだった。理由なんて、そんな簡単なことだった。
もっとも、今思えば、あの時声をかけたのが僕じゃなかったら、君は違う奴とそういう関係になっていたんだろうけど。
僕と君の関係ってなんだった?
今更こんなことを問うのは無駄だとちゃんとわかっているよ。ケータイの番号もラインのIDも変わっていた君にこの先また会うことなんてもうないんだろうから、僕の中だけで聞かせてくれよ。
僕は君に好きだと言ったね。
何度も、何度も、手を繋ぐたび、抱きしめるたび、唇を合わせるたび、体を重ねるたび。
君はそんな僕に目を細めて笑っていたよな。私も好きだよ、って照れて笑う君が可愛くて、僕は何度も何度も君に好きだと言っていたんだよ。
『本当は、小説家になりたいんだ』
初めて僕の夢を打ち明けた時、君は驚いていたけど、決して馬鹿だとは言わなかったね。
『そっか。じゃあ、夢のために一つを捨てたんだね。それって素敵』
大学を辞めたこと、攻める奴や呆れる奴は何人もいたけど、こんな風に言う人は誰もいなかったよ。
僕はその日初めて君の前で泣いた。
君は僕の涙について何も聞かなかったし、僕も何も言わなかった。でもきっといろんなことが君にはわかっていて、僕はそんな君に甘えていた。
夢なんて大それたことを、この歳になって話す僕のことを、君は一切笑わなかったな。ただひとつ、泣きながら話す僕の頭を撫でながら、『女遊びは程々にね』ってジョークを飛ばした。
君に出会ってから、君以外の女の子とは連絡すらとらなくなったことを知っている筈だから、あれはジョークだったんだろう。もしくは僕の過去に対する嫌味だったんだろうか。
◇
ガチャリ、と。開けた僕のアパートに君の姿はなかった。ついでに言えば部屋は真っ暗だったし、君の匂いさえももう残っていない。
吐いた僕を見て、店長が今日は帰れと言った。
いつもなら深夜までのシフト。すいませんと呟いて、僕の存在価値ってなんだろうって思った。
首筋に手を添えた。
手袋もしないで歩いていたせいで僕の指先は凍るくらい冷たくて、君が昨日の夜唇を這わせたその場所が溶けていくみたいだった。
「いつか結婚しよう」とか「ずっと一緒にいよう」とか。そんな簡単な言葉をニンゲンはすぐに吐くけど、それをちゃんと実行している奴の方が少ないって僕らは知っている。
SNSで友人カップルがそう言って、その投稿を数ヶ月後に消すのを見てふたりで笑ったことがあったな。「こいつらの一生はたった半年か!」なんて。僕らもきっと誰かに笑われているよ。ずっと、なんて誰が考えた言葉だろう。
なあでも、馬鹿げたことだって、阿呆らしいことだって、そんなことちゃんとわかっていても、あの時は本気でそう思っていたんだよ。
君とずっと一緒にいたいと、思っていたんだよ。
こんな僕を君は笑うかい?
この玄関に君の靴がなくて、二人で買った食器はもう意味がなくて、置いてあった君の荷物は綺麗に消えていて、なあ、一体いつから、君は僕から消えようとしてた?
この赤い痕が消えてしまったら、君の痕跡がもうすべてなくなってしまうよ。なあ君は、こんな僕を笑うかい。こんなにも酷い別れ方をされても尚君を欲している僕を、君は笑うかい。
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きみは僕を変えられないし、僕にはきみを変えるほどの技量はない。
僕たちはいろんな事に目を背けて一緒にいた。そんなこと、もうわかってた。
でも、それでいいんじゃないかと思っていたんだよ。恥ずかしいな、今更何を言ったって遅いけど。僕らは僕らのまま、やっていけるのかと思っていた。僕のこんなダメな部分も、全部受け入れてくれるんじゃないかと思っていたんだ。だってあの日、君が僕に素敵だと言ったから。
君は僕に愛想を尽かして出て行ったのかな。
それとも、僕のことが本当は好きじゃなかったんだろうか。
ああ、なんでもいい。もうなんでもいい。全部消えてしまえばいい。君も、僕も、あの店のクランベリーも、君が残していった僕の中にある君の記憶も。
「……っ、」
冷たいひんやりとした僕の指を、再び焼けるように熱い君の痕へと這わせる。溶けていく。全部、じりじりと、溶けていく。
僕なりに君のことが好きだったよ。でも君はそうじゃなかった。ただそれだけのこと。
夢を追いかけることを言い訳にして、いい加減に生きている僕に君は気づいていたんだろう。そんな君に僕は気づいていたよ。気づかないふりをしたかったんだよ。
君が残していったこの痕の意味を僕は何度もこの先考えるよ。意味なんてないのかもしれないこの赤い痕をなぞって涙を流す男のこと、どうか忘れないで頭の片隅にでも残しておいて。
何処にいるのかも何をしているのかもわからない君に向けて。滲む視界の中僕は部屋に駆け込んで、自室の机の中からペンと新品のキャンパスノートを取り出した。
僕の涙がボールペンのインクを滲ませて、ノートの紙はぐちゃぐちゃになったけれどもうこの際なんでもいいだろう。
小説家になりたい、だなんて大それた夢を君は笑わずに聞いてくれたね。いつか君がこの物語を手に取った時、ほんの少しでも後悔してくれたらそれほど嬉しいことはないよ。
すべて消えていたはずの君の荷物。僕の机の引き出しに入っていたあるはずのない君の口紅。
あの日つけていたあの真っ赤な口紅を、わざわざここに入れておくなんてさ。君が去っていった後のことまで、君には全部お見通しってことか。ああ本当に、僕は愚かだ。
僕を変えれない僕のこと、消えることで変えた君をのこと、残された赤い痕の意味を僕は勝手に想像してこれからも生きていくよ。
【赤いサヨナラは僕に似合わない】Fin.