思えばサチは昔から少し変わった子だった。
 誰もいない公園のブランコをじっと見つめていたり、教室のひとつ空いた席にそっと鉛筆を置いたり、花びらをひとつひとつ川に流したり。時にはひとりでどこかへ行って、こちらへ帰ってくるときには背の方へと手を振っていた。もちろんそこには人影はない。
 中学生に上がる頃には、サチは周りから距離をとられるようになっていた。
 誰もいない教室の角に向かって話しかけたり、授業中ひそひそと小声で独り言を言う。時には笑いながら、時にはむっとして、時には涙を流していた。サチのそんな変わった言動を、周りはひどく気味悪がった。
 けれども転機は突然訪れるものだ。
 高校生になったサチはみるみる背が伸びて髪を伸ばした。本人曰く切るのが面倒になっただけとのことだ。それでも見た目を変えるのには十分すぎる要件だろう。
 元々白かった肌と整った顔立ちを、伸びた身長ときれいなストレートの黒髪が助長した。地元から少し離れた高校に入学したことも重なって、サチは『気味の悪い』存在から、『ルックスが良くて手を出せない高嶺の花』へと変わった。もちろん、変わったのはサチの身長と髪の長さ、そして周りの印象だけではあるが。



「また告白されたの、サチ」
「告白?」
「連絡先聞かれてた」
「見てたの」
「まあね」
「聞かれただけだよ」
「ふうん、教えたの?」
「まさか。携帯持ってないし」

 昼放課、屋上。
 サチは毎日ここへやってきて躊躇いもなく横でお弁当をひろげる。周りから好奇な目で見られることはなくなったけれど、友達をつくることは中々難しいらしい。

「今時携帯もってないのなんてサチくらいじゃない」
「そう? なくても困らない」

 背中まで伸びたストレートの黒髪が風にさらわれてサラリと揺れる。きめの細かい雪のような肌と、まつげの長い二重の目。サチの容姿はとても整っている。これはお世辞抜きにそう思う。

「でも、連絡聞かれたの入学してからこれで何回目?」
「さあ、覚えてない」

 それは覚えてないくらいの回数を重ねているということだ。しかも全員異性。

「サチは興味ないんだね、男とか、恋とか」
「……男とかカンケイない」

 これだけ整った容姿をして、恋だのなんだの騒ぐジョシコウセイとは正反対に、異性─────どころか人間という物に興味を示さない、それがサチ。所謂カノジョは、無性愛者なんだと思う。

「変わってるね、サチって」
「うん、よく言われる」

 変わり者のレッテルを貼られた小中時代を過ぎて、何故か周りから好意的な目を向けられるようになった今の状況に、サチはうまく馴染めないでいるようだ。
 人の意見や見方、印象なんて、ほんの少しの出来事で変わってしまうもの。サチはその典型例だ。

「でもさ、気をつけてよ」
「気をつける?」
「好意って時々ひとを傷つける」
「好意、か」
「サチにはわからないかもしれないけど」
「誰かを大切に想うということ?」
「ううん、もっと、好意って自分本位なものだよ」

 言葉の意味が伝わったか、伝わっていないか、その真意は定かではない。僕の言葉にふうん、と軽い返事をしたサチは、お弁当の卵焼きを頬張った。サチの母親が作る卵焼きは絶品だ。食べたことはないけれど、サチがそれを口に入れたとたんわかりやすく表情をゆるませるのは確かだから。

「そういえば」
「ん?」
「最近だれかに付けられてる」
「え」
「これも自分本位な好意の一種?」
「その通り、だね」

 やれやれと肩をすくませる。高校に上がって異性から恋的対象になってしまったせいで、こういったことが時々おこる。直接サチに告白したり、連絡先を聞いたり、そんなものはまだかわいいことだ。
 たちが悪いのはもっと静かに影からやってくるもの。静かに遠くから見つめている視線や、陰でたたかれる軽口、そして表に出さない熱烈な恋情。そういうものは、綺麗なものとはまるで正反対に位置している、と僕は思っている。

「何もされてないから、いいんだけど、ね」
「だめだよ、もっと危機感もって」
「うーん、」
「女の子って、理不尽に傷つけられちゃうことがあるんだよ」

 サチの長い黒髪や、義務付けられたスカートと白いカッターシャツに、傷をつけるようなこと、僕は絶対にさせないけれど。

「じゃあ、コーイチが、いつも見てて」
「できるだけ、見てるけどさ」
「うん」

 昼放課が間もなく終わる知らせのチャイムが鳴る。サチはその音とともに教室へと戻る。僕もまた、サチの後ろをついて歩くのだ。



 異変が起きたのはその日の帰りだった。
 帰りのHRが終わってクラスメイト達が部活に向かったり帰路につく中、同じように帰り道へと向かうサチの後ろを歩く人がいる。それだけでは別段おかしくはないけれど、仲間を引き連れ、談笑しながら明らかにサチの後姿を目で追っている。
 彼の名前は佐々木、違うクラス。サッカー部期待の星である彼の容姿はそこそこ整っていて、冗談で人を笑わせることが得意なようだ。今日はサッカー部が休みの日。気にしすぎかと思われたが、どうやらそうでもないらしい。
 気づかれないように彼らの後ろを歩いていた僕の耳に、前を歩く彼らの笑い声が聞こえてくる。

「菱沢さんって後姿だけでもそそるよなー」
「あのスカートの長さが逆にいい」
「あーどうにかしてめくれないかな、アレ」
「菱沢さんと同じクラスのやつに聞いたけど、いつもひとりでいるらしいよ?」
「俺はそういうの結構タイプ」
「わかる、そういう女子こそ落としたいよな」

 菱沢。サチの苗字だ。
 佐々木を中心にして、同じサッカー部の男子が3人ほど。笑いがおこる。話がはずむ。盛り上がる。
 ─────女の話。女子の話。女の子の話。

「てか見ろよ、あれ、陸上部」
「あーもうすぐ大会だからユニフォーム着てるんじゃん」
「あれいいよなー、上も下も短くて」
「てか陸上部の〇〇かわいくね?」
「かわいくねーよ、あれは胸がでかいだけだろ」
「おれは菱沢さんくらいがちょうどいいわ」
「てかあいつ陸上やってるくせに足太すぎじゃね」
「わかるわ、俺は無理」
「だったら〇〇のほうがちょうどいいよな」
「あーえっろい身体してるよなー」

 わらって、指をさして、目線を送って、他人を評価する。馬鹿にする、蔑む、性的に搾取する、優劣をつけ、人を笑いものにする。
 下品で、しょうもない、男子高校生の日常に、僕は時々吐き出しそうになる。
 何気ない会話のなかで、常に潜んでいる。悪意のない、決めつけられた、男と、女、という区分。平等という言葉を信じている人間はきっとこの世界に存在しない。

「菱沢さん落としたら俺ら男子の英雄だよな」
「佐々木ならいけるって、一発かましてこいよ」
「いやそれは買い被りすぎだって」
「つまんねー、誰かいけよな」
「目凝らしたら下着透けるかも」
「お前ヤベー、それちょっと興奮するヤツ」
「そんなことしねえで堂々といかね?」
「でも携帯とか持ってないらしいよ、連絡先聞いても誰も教えてもらえてないって」
「いまどき携帯持ってないとか嘘っしょ。俺ら全員でいけば教えてくれそうじゃね?」
「あー複数人のがいきやすいよな」

 佐々木を筆頭に、にやりと笑いながらサチの方へと歩くスピードを早める。複数人、いちばんたちが悪い。
 もう黙って聞いてはいられない。
 僕もスピードを上げてサチの方へと急ぐ。佐々木たちを追い越して、手を伸ばす。

「サチ─────」
「菱沢さーん」

 伸ばした腕は宙を舞う。発した声は佐々木のそれにかき消される。振り向いたサチは驚いて僕を見た。
 佐々木は躊躇いもなくサチの肩に手を触れる。
 サチ以外に、僕の姿は見えていない。

「あ、え、っと、」
「突然ごめんね、俺2組の佐々木って言うんだけど」

 躊躇いもなくサチの肩に触れるその手をどうにかしてどかしてやりたい。けれど僕の手は佐々木の手を、サチの肩をすり抜ける。触れられない、どうしたって、どうやったって。

『サチ、逃げなよ』

 僕の言葉に反応するのはサチだけだ。人気のない階段下。体格の良いサッカー部4人に囲まれただけでも威圧感は膨れ上がるだろう。卑怯だ、とおもう。
 サチは僕の方を見てうん、と小さく言う。それを自分へ向けてだと思ったのか、佐々木は笑った。

「ねえ、連絡先交換してよ」
「……携帯持ってない、ので」
「嘘でしょ? 今時持ってない子なんていないって」
「いや、本当に、持ってないから、」
「じゃあ連絡先はいいから今から俺らと遊ばない? カラオケとか行こうよ」

 強引に手を引く佐々木と、それを面白おかしく見ている3人が、ひどく気味が悪かった。サチは明らかに嫌そうな顔をして、手を振り払おうとするけれど敵わない。
 平等じゃない。力の強さも、背の高さも。敵わない相手を前にするこわさを、彼らはなにも知らないのだろう。

「きょうは、むりです、」
「今日はってことは、明日ならいいの?」
「明日もむりです」
「そんなにダメ? 部活とかやってないでしょ。たまには誰かと遊ぼうよ」
「いい、そういうの、望んでない、ので」
「へー、菱沢さんって本当変わってるんだね」

 スッと手を放す。僕はそれに安堵して息を吐く。赤くなったサチの手首に触れたくて、泣きそうになる。
 無力にもほどがあるよ、この身体。
 先ほどの態度とは打って変わって、飽きたような表情を見せた佐々木とその取り巻きが「遊んでくれないならいーや」と言って帰っていった。自分に興味のない相手への態度にはその人の本性がでると言うけれど、あながち間違ってはいない気がする。

「サチ、ごめん、何もできなかった」
「ううん、姿が見えただけでも安心したよ」

 こうやって校舎の中で話すのは、高校に上がってから極力避けていたけれど、いまは仕方がないだろう。
 また独り言を言う変な子、と言われてしまうかもしれない。ごめんね、サチ。ぜんぶ僕のせいだ。

「手、大丈夫?」
「うん、大したことないよ」
「大したことあるよ……」
「あの人たち、コーイチが今日言ってたやつ、かな」
「今日言ってたやつ?」
「自分本位の好意」
「うん、そうだね、その通りだ」

 なんでもなさそうなふりをして、少しだけ手足が震えていること、僕は気付いてる。サチは案外脆くて弱い。ううん、きっと、サチだけじゃない。人は時々、大小関わらず、人の悪意ない好意に傷つくことがある。

「コーイチはいつも見守ってくれてるね」
「いつもは近くにいられないけどね」
「……どうして私のそばにいてくれるの?」
「サチがいつも1人でいるからだよ」
「コーイチって、死ぬ前もこうやって誰かのこと守ってたんでしょ」
「……そんなことも、あったかな」

 理不尽に傷つけられて、居場所をなくしたこの世界で一番愛おしい女の子のことを、僕はずっと忘れないだろう。そして、彼女とよく似たサチのことを、身体を亡くしても尚見守り続けている。

「帰ろう、サチ」
「うん、ねえ、コーイチ」
「うん?」
「髪、切ろうかな、明日」
「……ショートもきっと似合う」
「だといいけど」

 サチの手を握った。もちろん握ったつもりなだけで、実際に触れることも、熱を感じることもできない。

「ねえコーイチ、人を好きになれないって、悲しいことかな」
「悲しくなんかないよ、全員同じなわけがないんだからさ」
「そうかな。わたしがもっと人に興味があったら、さっきの人たちにも寄り添えていたかもしれない」
「……馴染めない中で生きていくのは、難しいね」
「うん、わたしも、そうおもう」

 触れられないサチの手を握りながら、明日には短くなってしまうその綺麗な黒髪を目に焼き付ける。
 僕はいつかの日本史の授業のことをなんとなく思い出して、ひどく泣きそうになった。けれども隣にいるサチは僕に向かってわらっている。
 馴染めない世の中で、ひっそりと息をしている僕やサチ。
 遠くで部活動の音が聞こえた。校舎の外には淡いオレンジ色をした夕焼けが迫る。並んで歩いている。サチの横を歩いている。けれども影はひとつしかない。
 今頃わらっているだろう。酷ければサチのことを悪く言っているかもしれない。彼らは傷つけることを恐れない。寄り添い方を探そうとするサチとは違う。


 何もできない。やさしくありたい。誰も傷つかず傷つけない世界であって欲しい。そんな叶わない願いを抱いて、僕は今日も安らかに、眠りにつくのだろう。




【異国の森で眠る羊】Fin