家から歩いて五分もかからない距離にある小さな公園。その公園には毎日たくさんの小学生が集まり賑わっている。
いつもより三十分ほど遅く公園に行くと、入り口の真横のベンチに一人で座っている人がいるのに気がつく。顎より少し長めのさらさらな髪の毛に真っ白な肌をしたその子は、ひざに置いたランドセルを机代わりにして絵を描いている。
「ねえ、こんなところでなにしてるの?」
いつもならすぐに遊び始めるが、初めて見るその姿が気になって思わず声をかけてしまう。声をかけられたその子は肩をびくりと震わせゆっくりと顔を上げる。
「えっと……」
顔を上げたその子のぱっちりした目が、不安からか、もしくは緊張からか少し潤んでいる。
「俺、かなと。君はなんていうの?」
「……りつき」
できるだけ優しく怖がられないように名前を聞くと、りつきと名乗る。きれいでかわいらしい名前だねと伝えると少し照れたように笑ってくれた。
「りつき、いつもは公園にいないよね?」
「うん。今日は家の鍵を忘れちゃって」
話を聞くと、いつもは母親が家にいるのだが今日は用事でいないのだという。五時過ぎには帰ってくるからそれまで家の近くのこの公園で待っているのだと。
「みんなあっちで遊んでるけど、混ざらないの?」
広場のほうを指さすと、その先ではいつも一緒に遊んでいる友達たちが走り回っている。見知ったメンバーは男女関係なく、今日は鬼ごっこをしているようだ。
「僕、体動かすの苦手で……」
困った表情を見せたりつきは再び手元に視線を落とした。公園といえば体を動かす遊びばかりだった俺にとっては想像もしなかった返答で驚く。そして、少し興味が湧いた。
「そっか。じゃあ、俺も一緒に待ってようかな」
「僕は一人で大丈夫だから、気にしないでいいよ」
「遊具も鬼ごっこも飽きてきてたんだよな。そんなことより、りつきのこと教えてよ!」
実際、毎日同じような遊びばかりでつまらなく感じ始めたころだった。そんな中で初めて出会った気になる存在のことをもっと知りたい、そう素直に思った。
「そっか。うん、お話しよ!」
初めて見たりつきの花が咲いたような笑顔に、自分の顔が熱くなるのを感じる。顔の熱を冷ますように手で風を送りながらりつきの隣に腰を下ろす。
「今、何時だろう」
りつきと話し始めてからしばらく経ったころ、りつきは母親の帰宅を待っていると話していたことを思い出す。りつきは同じ学校に通っていて、同い年だということが分かった。クラスは別でお互いを知らなかったが、それをきっかけに話が弾みたくさんお互いのことを話した。
公園の時計を見るとちょうど長針が真上を向き、午後五時を告げるチャイムが鳴り始めた。
午前五時を告げるスマホのアラームが鳴り響く。重い身体を気合いで起こし枕元のスマホを手に取るといくつかのメッセージが届いている。その中から一通、よく知る相手からのメッセージをタップする。
『中間テストはどうだったんだ』
深夜に送られていたこのメッセージには絵文字も何もついていない。たまにしか顔を合わせることのない息子に、よくもまあこんなにぶっきらぼうなメッセージが送れるものだと初めのころは思っていたが、今はなにも感じない。画面を少しスクロールすれば同じようなメッセージしか残っていない。伸びをしながら毎度変わらない返信をする。
『一位』
一言送るとスマホの電源を落とし、顔を洗って机に向き合う。自分以外誰もいない静かな家で、参考書とノートを開きペンを持つ。中学生のころから当たり前と化した朝のルーティンは、慣れてしまえば苦ではない。むしろ、余計なことを考えなくて済む時間――のはずだった。
今日はやけに頭が働かず、時間だけが過ぎていく感覚に襲われる。いつもより睡眠時間が短いからだろうか。あるいは、今日見た夢のせいだろうか。
「りつき、だっけ……」
夢に見たのは小学二年生の秋ごろの出来事だったと思う。あの日、五時のチャイムに合わせて二人で公園を出て帰路に就いた。帰る方向が一緒だからと肩を並べて歩き、家の前に着くと驚いたのを覚えている。自分の家の向かいに立つ一軒家、そこがりつきの家だったのだ。同い年くらいの家族が住んでいるらしいと聞いたことはあったがこれまでに会ったことはなく、まさかこんな形で知り合うとは予想できていなかった。二人して目を丸くし、その事実に笑っているとりつきの母親が帰ってきてそのまま手を振り別れた。
その日から、毎日一緒に登下校して、学校終わりに二人で遊んだ。学校ではたまにすれ違う程度。それでも学校が終わると公園で、もしくはりつきの家で一緒に過ごす時間が増えていき、当時の俺の一番仲のいい友達だったのではないだろうか。
しかし、そんな関係もいつの間にか終わってしまっていた。小学三年生に上がる前の春休み、いつも通りりつきの家の呼び鈴を鳴らすと出てきたのはりつきではなく母親がだった。「しばらく遊べないの、ごめんね」と悲しそうに言うりつきの母親に「じゃあいつ遊べるの?」と純粋に問いかけた。すると、「遊べるようになったらりつきから誘いに行かせるね」と困ったように言ってくれた。
りつきと過ごす時間がなにより心休まる時間だった俺は、何日も、何週間もりつきが来る日を待っていたが、そんな日が来ることはなかった。
後から知ったことなのだが、りつきは三年に上がると同時に転校したそうだ。春休みが終わるころ、向かいに大きなトラックが止まっていたのはそういうことだったのだと合点がいった。
その後、向かいの家にはりつきの親戚が住み始めたらしい。向かいの家を見ると明かりはついているのに、そこにりつきはいないということに違和感しかなく噓なのではないかと思った。一人で登下校して公園で友達と走り回る日々を繰り返し、やっとりつきがいないのは紛れもない事実なのだと実感した。なにか一言、教えてくれればよかったのにと思ったが、引っ越しの準備で忙しかったのだろうと今なら思うことができる。
「たったの半年、だったのにな」
秋から春を迎えるまでのたった半年間の出来事。小学二年生だった俺は今年高校二年生になったというのに、今更なぜ夢に見てしまったのだろう。
「一番笑えていた時期だからかな」
りつきと別れてから小学三年生になったころ、父の会社の経営が傾き始めた。難しいことがよく分からない子どもの俺でも大変だということは家の空気から感じた。
親の会社を継いだ父は元々家に帰らないことがあったが、その時期からあからさまにその頻度が上がった。久しぶりに夜中に帰ってきたかと思えば、母となにやら揉めて大声をあげているのが俺の部屋まで聞こえていた。
次第に会社は立て直し、これまで以上に拡大していったが両親の関係は悪くなる一方だった。幼いころ、二人が結婚したのは子供ができたからだと親戚が話しているのを耳にしたことがある。本当は結婚する気などなかったが母のお腹に俺がいると分かって入籍したと。
現在は、お互いに愛など冷めきってる関係だから深く干渉することもない。父はもう何か月も家には帰らず、会社の近くにマンションを借りている。当たり前に暮らすには十分すぎるほどのお金を振り込み、たまに連絡が来るだけ。母はそれをいいことに家へ男を連れ込んだり、夜中に出かけたり好き放題している。父は気づいているのだろうが、なにも口出さないということはどうでもいいということなのだろう。俺に対しても、大きな問題を起こさず成績さえよければなんでもいいといった様子だった。会社の跡継ぎ候補としてしか見ていないため、それ以外には一切関心を持たれない。勉強だけ頑張ればよいということは、勉強が得意な俺にはそれほどの負担ではなかった。
「……もう、こんな時間か」
スマホを見ると六時半を経過していた。まったくペンの進まなかったノートと参考書を閉じてバッグに入れる。壁にかけておいた制服に着替えると髪をセットしてバッグを肩にかける。登校しようと玄関へ向かうと、ちょうど玄関の鍵の開く音がする。
帰ってきたか……
開いた玄関から酒に酔った母が男に支えられて入ってくる。そんな二人の姿を視界から削除するために急いで靴を履く。靴に足を入れるだけ、かかとを踏んだまま玄関を出て鍵を閉めると中からうっすらと話し声が聞こえてきた。扉を閉める直前、母を侮蔑するように見ると隣の男と目が合った気まずさから、逃げるように足を進める。
学校に着いたのはいつも通り七時を少し過ぎたころだった。この時間の学校はほとんど生徒はおらず、朝練をしている部活動生くらいだ。グラウンドで汗を流すサッカー部を横目に校舎に向かっていく。昇降口でサンダルに履き替え教室へ向かおうとすると、落ち着かない様子の生徒が視界に入ってくる。気にせず教室へ行こうとしたが困っている様子に、俺のほんの少しの良心が痛み見て見ぬふりができない。
「どーした」
背後から声をかけると驚く様子で素早く振り返る。足元を見ると学年で色分けされたサンダルは俺と同じ色をしている。見かけたことがない男子生徒は別のクラスなのだろうか。
「えっと、職員室に行きたくて」
「あー、こっち」
一学年五クラス前後の高校だが、その校舎は無駄に入り組んでおり、初めのころは教室を移動するのにも迷いそうになったものだ。彼は一年生ではないようだが、あまり学校に来ないだとか、方向音痴だとかで職員室がわからないということもあるだろう。彼の横を通り過ぎ、彼も続いて歩き出すのをちらりと横目で確認する。
「ここが職員室な」
昇降口から二分ほどゆっくり歩くと職員がまだらにいる職員室にたどり着く。
「じゃあ」
「ありがとうございました!」
軽く手をあげると大げさなほどに頭を深く下げ感謝されてしまった。用は済んだので今度こそはと教室に足を進める。まだ校舎に生徒は少なく、いつも通り静かな空間だ。
教室のドアを開けると目の前の光景に少しの違和感を覚える。いつも通り誰もいない、戸締りされたままの教室をまっすぐ歩いて自分の席に着く。窓際一番後ろの席が俺の席であるはずなのだが、その後ろに一つ他の列から飛び出した席が追加されていた。昨日まではなかったその席は昨日の下校後に設置したのだろう。
さっきのやつか
同じサンダルを履いて迷っていた生徒。状況的に彼が今日から転入してきたのだろう。新学期が始まり二か月が経過している中途半端な時期だなと思いながら、いつものように机に突っ伏し目を閉じる。寝不足の体はあっという間に睡眠に誘われた。