あなたの隣が私の居場所です

 数ある国の中の一つ、佐久穂国(さくほのくに)では、農民、町民、武士と身分関わらず国民全員が人間を超越した力ーまじないーを使うことができた。

 そして、国を治める国主一族は奇跡と呼ばれる力を扱うことが可能だった。

 国主は若き息子の才能に期待し、まだ四十になっていないにも関わらず、国主の座を息子である神楽(かぐら)に渡した。

 国は安定し、平和の世となる中、国主の心配ごとは神楽にはまだ嫁がいないことだった。

 その理由はただ一つ。

 神楽が表情を動かすことが無く、必要以上のことを話さないからだ。

 この状況を何とか打破しようと、国主一族は一つの御触れを出した。

 それは身分関係なく、神楽の表情を僅かでも動かした者を正室にするというー。
 「神楽(かぐら)様、香取家から詩織(しおり)様がいらっしゃいました」

 「入れ」


 詩織と呼ばれた少女はくぐもった声の主がいる襖の中へ足を踏み入れた。

 大広間には一人の若い男性が座って、左右にはこの男性に仕えているだろう家臣が腰を下ろして値踏みするかのように見ていたが、詩織は全く気にせず、むしろ、

 (ものすごく広い......!)

 今自身が置かれている状況を全く見ていないかった。


 「そなたが詩織か?」


 上座に座る神楽の声で周囲を見るのを止めて、その場で跪いた。


 「はい。詩織と申します、領主様。......あの私に何か御用ですか?」


 その瞬間、声には出ていないが、この場にいる者全員が『え?』と目が点になってしまった。

 右に他の文官と共に座っている詩織の父親だろう男は手で顔を覆っていた。


 「そなたはこの場が何か聞いていないのか?俺の正室候補として面会に来たんじゃないのか?」

 「私は正室候補として呼ばれたのですか。てっきり、領主一族に何かあるのではと思ってしまいましたが、杞憂でしたか。てっきり成人しか参加できない武道大会に私も参加できるという知らせかと思っていたのですけど」


 (まさか、大会ではないなんて......)

 詩織の整った眉が残念そうに下がっていた。


 「どうして、この場で武の話が出るのだ?」

 「え?普通でしょう?」


 詩織はどうして神楽がこのように言うのか分からなかった。

 頬に手を当てて首をかしげると肩に髪がさらりと絹糸のような髪が触れた。


 「普通なわけないだろう!詩織、この場では基本的に俺の正室となるために女子(おなご)達はこぞって得意なことや趣味を話すのだが.........」

 「では、武に関することですね」

 「いや、なんでそうなる。琴とか裁縫だろう」

 「琴に裁縫ですか......」


 詩織は神楽から視線をそっと外した。

 琴や裁縫は武家の女性として必要な教養の一つでできて当たり前なのだが、

 (指、動くかな)

 できるかどうか怪しかった。

 昔、母親に妹と一緒に教えられたのだが、興味なんてなく、最低限度できるようになると止めてしまった。


 「......もし良かったら、教えようか?」

 「遠慮しておきます」

 「武官と一緒に鍛錬できると言ったら?」

 「よろしくお願いいたします、領主様」

 「こちらこそ、よろしく、詩織」


 あっさりと折れて目先のことに飛び込んだ詩織を見て、不安を感じるのと同時にこれから始まる毎日を想像して全く動かなかった表情が僅かに緩んだ。

 このことに、


 「神楽様の表情が動いたぞ!」

 「これで正室は決まりましたね!」

 「詩織様、ありがとうございます!」


 両脇に座る家臣一同はお祭り騒ぎのように騒ぎ出した。

 一部の者は詩織に感謝して崇めているが、詩織はにこにこしてこの場にいた。

 詩織の長い睫毛に縁どられた瞳を軽く閉じて微笑するする姿は聖女のようにも見えるが、これが思考を放棄している顔だと分かるのは果たしてこの場に何人いるのだろうか?

 後日、佐久穂国(さくほのくに)に正室が決まったと御達しが来た。
 詩織(しおり)の家、香取(かとり)家は代々優秀な文官や側仕えを輩出してきた歴史ある名家だった。

 そんな家で今、


 「まさか、詩織が選ばれるなんてな......」


 家族会議が開かれていた。

 文官として前国主に重宝された父、藤郷(ふじさと)が頭を抱えるほどのことが起きていた。


 「どうやって辞退いたしましょう?」


 前国主の正室で領主の母に仕える母、小牧の方も頭を悩ました。

 領主の正室に選ばれることは大変名誉なことであるが、藤郷や小牧は辞退したかった。


 「姉上、神楽様の正室として嫁ぐのですよね?」

 「私が良く分からないうちにそうなりましたね」


 神楽の妹に仕える妹の双葉の質問に詩織は答えた。

 両親が辞退したい理由。

 それは詩織が考えることをしないからだ。

 文官も側仕えも学が必要で教養を広く深くする必要がある。

 それなのに、詩織は勉強ができなかった。

 それだけではない。

 教養や礼儀作法もできなかった。

 読み書きや最低限の礼儀作法は幼い頃叩き込まれたので、辛うじてできる。

 そんなことよりも、体を動かすことが好きだった。

 考える時間、琴を弾く時間、手の指先まで神経を使う時間を全て鍛錬にあてていた。


 「姉上ったら......。わたくしが姉上の嫁入り準備をしましょう」


 詩織の分も血を継いだ双葉は苦笑しながらも、詩織の準備を手伝ってくれることになった。

 手伝いといっても嫁入り道具のほとんどを任せることになるが。


 「わたくしもやりますよ。嫁入りの準備は母親がするものですからね。それに詩織に任せたら、必要最低限の物しか持って行かないでしょうから」

 「ありがとうございます、母上、双葉」

 「では俺が結婚式に関する準備をしておこう。詩織は嫁入り修業をやってもらいたいたいが、庭で鍛錬をしてくれ」


 詩織は興味がない分野の物覚えが大変悪い。

 嫁入り修業なんてさせたら、普通の倍は確実にかかってしまう。

 時間がない今、藤郷は嫁入り修業よりも手間がへる鍛錬を選んだ。


 「かしこまりました!」


 詩織はそんな藤郷の思惑なんて知らずに、勢いよく部屋から出て行った。
数ある庭で唯一何もない場所。

詩織は鞘からそっと刀を抜くと、柄に力を籠める。

基本的にまじないに呪文は不要。

強く思うことで具現化する。

(刀に力を......!)

詩織が願うことで、刀身に見える白い模様である刃文が青くなっていく。

軽く一振りすると淡い青の光が舞い空へと消えていく。

光を見届けると軽く瞼を下ろして瞳を閉じる。

ゆっくりと長く息を吐くことで雑念が消えて剣技に集中できる。

ゆっくりと瞳を開けると、目には見えぬ敵に向かって刀を構えた。

一歩ずつ横にずれる時も相手の目を見る。

そして、動きを止めた瞬間に刀を振るう。

まじないの効果で剣は軽くなっているので振りやすい。

そして、相手が動いても対応できるように構える体勢、斬新をきめる。

打ち終わった後、相手を威圧することを想像すると分かりやすい。

基本となる剣技の形を練習することで実践でも冷静に対応できる。

動きを確認するように九本の形を終えると、楽にして体を伸ばした。


「うーん!一旦休憩したら、走りこむか」


ただ体を解しただけの休憩を終えると詩織は刀を納めて外へ駆け出して行った。
 屋敷の門を出ると世界が変わる。

 人々の喧騒が聞こえて、町民が市を開いていた。

 道歩く者は詩織よりも質素で薄汚れた着物を身にまとっているが、その中には姿勢が整い過ぎた者もいた。

 姿は町民や農民に誤魔化しても、育ちの良さがにじみ出ていた。


 「あら、詩織。噂の中心人物がこんなとこにいるだなんて」

 「別に良いじゃないですか。それこそ、徳様は仕事放棄ですか?」


 詩織を見つけてこちらに寄って来た徳は双葉の同僚で神楽の妹姫の護衛をしていた。

 護衛をする者は主からの命以外で別のことをしてはいけない。

 だが、今の徳は完全にお忍びで市にやって来た者だった。


 「まさか。今日は午後から休みよ。それよりもどうやって神楽様を射抜いたの⁈香取家の姫が神楽様の正室になるって文様から聞いてびっくりしちゃった」


 文様と呼ばれた方は双葉と徳が仕える神楽の妹君である。


 「どうやってって言われても、話していたらそうなりました」

 「詩織は相変わらずね。もう少し、他のことに興味を持ったら?」


 徳は詩織がこの手のことに興味がないことを知っていた。

 なんせ勉強嫌いな詩織に武の道を与えたのは徳なんだから。

 詩織の家が文官の家だとしたら、徳の家は武官の家。

 領主一族の指南役や数々の伝説を生みだした将などを多く輩出してきた家である。

 見目麗しい徳も槍を持つとその辺にいる男どもよりも敵を一掃させるほどの実力はあった。


 「私は武の道、徳に剣技一筋なので」


 そう言う詩織の頬は赤く、恋煩いをする乙女になっていた。

 視線を落としてそう呟く様は歩く者を振り向かせるほどの力があったが、思っているのは男ではなく、剣技。

 見た目と中身が合っていない残念美少女である。


 「ほんとにぶれないわね。そんな詩織だから神楽様もときめいたのかしら。それにしても、詩織。城に上ったら気を付けた方が良いわよ。どこにでも納得していない者はいるから。揚げ足を取られないようにね」

 「肝に銘じます」

 「でも、詩織のことだから刀で簡単にあしらうのでしょうね」

 「その手がありましたか!」


 基本的に城の中では道場以外武器の使用は禁止である。

 しかし、正当防衛なら許されるので、何者かに襲われても対応することはできる。


 「ではいつでも相手との対応ができるように今から鍛錬してきますね!それでは失礼いたします」


 そう言い残して先程歩いた道を戻っていく姿を徳は見送るしかできなかった。
 透き通た青空が満ちる日、詩織が城に上る日がやってきた。


 「くれぐれも神楽様に失礼のないようにな」

 「きちんとお仕えするのですよ」


 両親は国主一族に辞退を求めたが、叶わず、せめて側室にとお願いしたが、それも却下された。

 勉学が最低限にしかできない詩織を神楽に嫁がせるのは不安しかないが、嫁として送り出さないといけなかった。


 「姉上がいなくなるのは寂しいですね......」


 いつも詩織を呆れたり苦笑している双葉は、詩織と似ている顔に浮かぶ笑顔が僅かに曇っていた。

 嫁ぐことは幸せなこと。悲しそうにしてはいけないと頭では分かっているのに、感情はまだ追いついていないのだろう。

 普段が詩織よりもしっかりして大人のように見える双葉も年相応に見える。


 「もうそんな顔をしないで。また城の中で会えるでしょう?」


 双葉を安心させるように頭をなでる詩織の姿はまさに慈悲深き聖女の如し。

 普段は中身と見た目が合っていない残念美少女だが、この姿を見てしまうとどちらが本当の姿なのか見る者を惑わした。

 肉刺だらけで皮膚が厚い手はとても年相応の女性の手ではない。

 強さを求めて努力し続けている証だ。


 「そう、ですね。姉上、幸せになって下さいね」

 「貴方もね。父上、母上、双葉には良い縁をお願いします。双葉は私と違って教養も深いのできっと多くの男から求婚されてしまうね」

 「姉上!私のことはいいですから!ほら、お城で神楽様が待っているのでしょう。行ってらっしゃい」

 「はいはい。では、行って来ます」

 「はいは一回よ」


 母の小牧の小言を後ろで聞きながら、詩織は十五年お世話になった屋敷から離れた。

 今日は珍しく小袖姿だった。

 この時代、身分関わらず女性は小袖を着ていた。

 その理由は、袖口が比較的小さく体に合うように作られているため動きやすかったからだ。

 一般的には麻や木綿が主流だが、詩織が着ている小袖を使っていた。

 城を中心として囲むように武家屋敷があるので、すぐに城へ辿り着いた。

 直ぐに城門が開き、先日通った道を歩いていくと


 「こちらが大広間でございます。神楽様がお待ちです」


 と言われる詩織の目の前ではあの日と同じ豪奢な襖があった。

 ここまで連れて来てくれた者に軽く頭を下げて、襖の前でつま先を上げた状態で正座をした。


 「失礼いたします」


 部屋の中へいる者に一声かけると右手を引手にかけて三寸ほど開けると、今度は右手を襖の立縁(親骨)に沿って開いた隙間に入れて体の中心まで襖を開ける。

 反対の手をそっと添えて体が入る程度まで開けると、正座に直して一礼する。

 (体が動いて良かった)

 襖の開け方はできるまで閉じ込められたので、体に沁みついていた。

 顔を上げると

 (皆様勢ぞろいですね......)


 神楽だけではなく、前国主にその正室と文がいた。


 「藤郷や小牧の方が辞退を願っていたからどんな子が来るかと思ったけど、随分と礼儀がしっかりしている子だね。やはり香取家の姫だけあるね」

 「藤郷殿や小牧は公私をしっかり分けているので、中々子どもの情報が集まらなくて、どんな義娘が来るのか楽しみにしていました」

 「わたくし、兄しかいなかったので、詩織様が来てくれて嬉しいです!」

 「これからよろしくお願いいたしますね」


 にこりと優雅に微笑む姿は知的に見えるが、外見だけであることをこの場では誰も分からなかった。


 「詩織、これから末永くよろしく頼む。それと部屋を見たら、早速勉強だ」

 「え⁉お勉強ですか.........」


 詩織は視線を下げると、それだけで悲しみに憂いる儚げな美少女となる。


 「神楽、もう少し詩織優しくしなよ。せっかく来てくれたんだから」

 「そうですよ。神楽、最初に行うのは城を案内することですよ」


 両親から苦言をされた神楽は不満げに息を吐くと、


 「......城を案内したら、直ぐに勉強だ」

 「勉強はするのですか?」

 「当たり前だろう。詩織がどれほどの知識があるのか知らないと、教えられないからな」

 「嘘でしょう......」


 (お勉強なんて無理ですよ......)

 涙目になってしまうと、さすがの神楽も声が狼狽えた。


 「お、おい泣くな。そうだな......ご褒美を付けよう。ほら言っただろう。もし、合格したら、城での稽古を許すと」

 「ほんとですか!では、早速神楽様、お願いします!」

 「あ、ああ」


 表情がころころと変わる詩織に驚きつつも神楽は千夜のお願いを了承してしまった。

 詩織が想像以上であることをこの時はまだ知らなかった。
「では早速、詩織、華道は分かるか?」


生暖かい視線が向けられる大広間を出ると神楽に連れられて一つの部屋に入った。

そこには詩織とは無縁な巻物や書物が壁の棚に入ってあった。


「華道、ですか?」


(きっと道が付いていると思いますが、それ以外は分かりませんね)

こてんと首をかしげていると、


「まさかだと思うが、華道を知らないのか?あそこの床の間に飾ってあるのが華道の作品で、見たことないか?」


神楽は驚きが含まれた声を発した。

神楽が指した床の間には掛け軸とその脇に豪快な花が生けられていた。


「それなら見たことがあります。よく母上や双葉がしていましたね」


言葉に言わなくても伝わるだろう。

詩織は華道の道を歩いていないと。


「茶道はどうだ?」

「お茶碗のような焼き物で飲んだことがあります」

「歌学は?」

「か、かかぐですか?」


(なんでしょうか?武器の一種でしょうか?)

詩織は検討外れなことを考えているが、歌学とは和歌についての知識を深めて理論を整理する学問。

詩織が遠い昔に忘れ去ったものである。


「詩織、琴以外に弾ける楽器はあるか?」

「どうでしょうか?」


面会時の様子から琴と裁縫はできないことは感じたので他の楽器ならと神楽は思ったが、答えは一緒だった。

まさかこれほどできないとは思っていなかっただろう。


「詩織、読み書きはできるよな?」


読み書きは身分問わずできて当たり前のこと。

でもこれまでの詩織の回答から武家の女性としての教養が皆無なことが分かったので、つい聞いてしまった。


「できますよ。できないと兵法を読むことはできませんから」


自信満々に詩織は答えたが、これは普通であることをご存じだろうか?


「兵法は読むのか?」

「はい!実践で役に立ちますからね」

「物語や随筆は」

「読んだことないです」


家にはあるが、一度も開いたことがなかった。


「......詩織の香取の血はどこへ行ったんだろうな?」


兵法を嗜んでいるのでもしかしたらと聞いてみたが、駄目だった。

文官や側仕えの家に生まれながらもこれほど武に偏っているとは......。


「きっと双葉に流れたのでしょうね。双葉は優秀ですから」


(私の妹は凄いのですよ!)

詩織よりも年下なのに領主の妹に仕えている双葉は姉として誇りだった。


「文に仕えている侍女か」


ようやく顔と名前が一致する。

周りをよく見ていて、くるくると動く様は香取家の血を濃く受け継いだと言われても納得してしまう。

香取家の血を妹に渡した詩織は武の道へ行ったことも。


「そなたは妹である双葉を恨んだりしないのか?」

「どうして恨むのです?」


急にそんなことを聞いてきた神楽に詩織は戸惑ってしまう。


「いや、何でもない。では、まず、歌学から始めよう。まず、和歌は分かるよな」


神楽は話を直ぐに変えて、畳の横に置いてある書を一つ手に取った。


「えっと、歌ですよね」


それ以上の確たる知識は湧いてこなかった。

(季語があったような気がするけど、でも季語がない歌もあった気がするし......)


「......まずはそこからだな」


目があちらこちらに動く詩織に本気で呆れながらも、神楽は書を見せた。

詩織のあまりのできなささに頭を抱えたが、今まで感じたことのないほど穏やかな時間が過ぎていた。
 「これで、今日は終わりだ」


 城へ来て何日か経ったある日、詩織は勉強から解き放たれる合図を聞いて、


 「では、鍛錬してきますね!」


 すぐに部屋から出ようとしたが、待ったをかける人物がいた。


 「駄目だ。今日は文がやって来る日だ。昨日言ったはずだが、覚えていないのか?」


 目の前に座る神楽は何故か詩織の予定を知っていた。

 (神楽様は私の予定までご存じなんですか。これで、私が覚える必要は無さそうですね)

 知識の面を夫である神楽に全て頼ることを決めた瞬間だった。


 「そうでしたね」

 「そうでしたねって......。詩織、おそらく文は君を知的な人と思っているだろう。話しの話題もきっと教養が試されるものばかりだ。この数日でいくらか叩き込んだが、全く知識は足りない。分からないことが来たら、流せ。いいな?」


 言葉はきついが詩織のことを思っているのは伝わった。

 不器用な優しさを身にしめながら、詩織は


 「はい。流すのは自信があるので、大丈夫です!」


 心配かけまいと答えたが、神楽は頭に軽く手を当てた。

 何故だろう?


 「......そうだな。詩織は見た目だけで誤魔化せるのだからな。これで脳筋とは残念過ぎるな」

 「それほどでも」

 「いや、褒めてないから。ほら、ここを片づけるぞ。もう文が」

 「義姉上、いらっしゃいますか?って私ったらすみません」


 神楽の言葉が言い終わらない内に、文が来てしまった。

 二人でいたことに文は何か感じたのだろう。

 申し訳なさそうに部屋から出ようとするところを神楽は止めた。


 「いや、大丈夫だ。女子の話に俺はいらないからな。文、詩織を頼んだ」

 「兄上が女性のことを考えるなんて不思議ですね。任せて下さいな」


 文が神楽を見送ると詩織の方を向いて頭を下げた。


 「義姉上、兄上に嫁いでいただきありがとうございます。いつも人を排斥する雰囲気が漂っていた兄上があれほど穏やかになるなんて、妹として兄の変化が嬉しいのです」

 「頭を上げて下さい。私は何もしていませんよ。むしろ神楽様にはお世話になりっぱなしです」


 今日だって神楽から華道について教わったばかりだ。

 昨日は琴で、その前は茶道。

 付きっきりで教えてもらっている詩織は何も返していなかった。


 「兄上が誰かのお世話をすることなどないのですよ。兄上は常に忙しくて、わたくしも構ってもらったことなどあまりないのですよ」

 「そうなのですか⁈」


 あの面会時、神楽は詩織に教えると確かに言っていたはずだ。

 初対面の人に学を教えるほどお人好しな方だと思っていたが、どうやら違うらしい。


 「ええ。あの、義姉上と双葉は仲が良いのですか?」

 「「え⁉」」


 詩織と文の後ろで控えている双葉の声が揃った。


 「仲は良いと思いますよ。双葉は優秀な側仕えですので」


 詩織は神楽と同じように答えた。

 兄妹揃って聞くとは、何かあるのだろうか?

 (でも、その答えはきっと双葉が見つけてくれるでしょうけど)


 「姉上......!わたくしも姉上のことは尊敬してますよ。止まることなく、更なる境地に向かって努力する様はわたくしにはできませんから」


 姉が難題を吹っかけてきたことには知らず、双葉ははにかみながら姉に対する賞賛を送った。

 普段はほとんど褒めない双葉の言葉に詩織は大興奮だ。


 「双葉!そんなこと思っててくれたの!私、もっと頑張るから!」


 (武の道を!)

 強くなるために早く城の鍛錬に参加したい。

 そのためには神楽からお免状を貰わないといけないが、本気になった今、直ぐに取れるだろう。


 「剣以外にもその頑張りを分けて下さいね」

 「こう見えても、今、茶道と華道と歌学と礼法を学んでいるのですよ」

 「まあ!姉上がお勉強だなんて......!きっと、父上も母上も喜ぶでしょうね」


 これまでの態度から両親や双葉は詩織の勉強は諦めていた。

 しかし、詩織が勉強をするようになったと双葉は涙ぐむほど喜んでいた。

 妹でこれなら両親はどれほど喜ぶだろう。


 「少し羨ましいですね。わたくしは兄上とこのような会話をしたことがないので」

 「文様......」

 「文様は神楽様のことを慕っているのですよね?」

 「はい。兄上に褒められるために知識を深め、礼法は指先まで意識していますし、師からお免状もいただきました」


 (さすが、領主の姫様......)

 勉強から逃げて武に走った詩織とは大違いである。


 「ですが、これは努力さえすれば誰にでもできること。わたくしには兄上のようなまじないの才能がないのです。きっと、わたくしが弱いから兄上は見る価値ないと関わらないのでしょうね......」


 弱々しく微笑んだ文の顔にはもう諦めと葛藤を映していた。

 自分では否定しても現実は変わらない。

 諦めたら楽になれるのに、諦められない。

 (こんなになるまで文様をほっといたのですか......!)


 「可愛らしい文様を放置するなんて許せません!私が神楽様に伝えてきます!」

 「義姉上?」

 「文様、少々お待ちください。双葉、文様のこと頼んだよ」

 「かしこまりました。いってらっしゃい、姉上」


 これから何が起こるのか予想がつく双葉は姉を送り出した。

 詩織は襖を出て、目的の地へと足早に向かった。
 「あの双葉、義姉上は大丈夫なの?」


 何も状況を知らない文は側近の双葉にそう問いた。


 「大丈夫ですよ。姉上はきっと神楽様を呼びに行ったのでしょうね」

 「兄上、ですか⁈どうして?」

 「神楽様と文様の関係を直すため、でしょうね、きっと」


 確たる証拠はないが、きっとそうだろう。

 香取詩織という人物はそういう人間だ。

 双葉がお手上げなことも姉の詩織は本能と感情に従って突拍子もない行動で全てを解決してきた。

 (きっと姉上なら大丈夫)


 「わたくし達の仲を変えても、義姉上には全く利がありませんよ?」

 「姉上は利なんて気にしませんよ」


 気にするというよりも、詩織は利なんて考えていない。

 ただ助けたいという感情だけで、いろんなことに首を突っ込んでいるのだから。

 当然ながら、詩織は事務関連は全くできないので、一手に率いるのは双葉であった。

 詩織が動くせいで双葉は目を回すほどの忙しさに覆われるが、そんな日々も楽しさを感じてしまう。

 (なんとなく神楽様が姉上を選んだ理由が分かってしまいます)

 常識や教養など知らない詩織との日々は尋常ではないほどの忙しさを与えてくるが、それ以上に退屈しない毎日がやってくるのだ。

 詩織が嫁いだせいでもうこんな日が来ることはないと思ってしまうと悲しくなってしまうが、顔には表さない。

 その時、襖が開く音がした。


 「詩織から緊急事態だと呼び出されたのだが、何があったんだ?」

 「緊急事態なのは神楽様と文様の関係ですよ」


 襖から入って来たのは、詩織と神楽だった。

 神楽の顔は無表情だったが、詩織のことを見つめていた。

 (姉上がこれほど愛されていると分かっただけで十分......)

 双葉は側仕えらしく雑念を排した詩織と似ているその顔に笑みを浮かべた。