食後、時生は、小春にそっと肩を叩かれた。

「時生さんや」
「はい!」
「午後は、澪様のお昼寝の時間でのう。私が見ておるから、時生さんは少し休んでな」
「えっ、で、でも、僕はお世話を――」
「そんな、つきっきりでは疲れてしまうだろうに。いいんだよ。ゆったり、ゆったり」

 目尻の皺を深くして、小春が優しい声を放つ。このような対応を受けたことはなく、常に働かされるか罰を受けていた時生は、胸をギュッと掴まれたような、切ない気持ちになった。

 見れば真奈美も渉も頷いている。礼瀬家の人々はなんて温かいのだろうかと、涙腺が緩みそうになった。

「……はい」
「うんうん」

 頷いてから、小春が澪を見た。

「ほれ、澪坊っちゃん。行きますぞ」
「はーい。絵本、読んでくれるだろ?」
「そうしましょうかね」

 こうして澪と手を繋ぎ、小春が出て行った。見送っていると、真奈美がお皿を下げ始めたので、慌てて時生はそちらを見る。

「手伝いましょうか?」
「あら? いいのよ。これは私の仕事なんだから。その分、きちんとお給金を頂いていますからね。あ、勿論お休み時間も貰っているのよ?」

 楽しげに笑った真奈美の声に、おずおずと時生は頷く。
 すると渉が、時生を見た。

「今から八百屋兼万屋の鴻大(こうだい)さんが食料を持ってきてくれるから、台所に運ぶのを手伝ってくれないか?」
「こらぁ! 渉!」
「なんだよ? 俺一人じゃ重いんだよ、アレ。大体、俺は書生なんだぞ? 荷運びをするの、おかしいだろ!」

 真奈美と渉のやりとりに、慌てて時生は声を挟む。

「やらせて下さい。ぼ、僕、僕でよければ!」

 すると二人が顔を見合わせた。そしてどちらともなく笑顔になった。

「優しいのね、時生さんは」
「それでこその男だよな? うんうん。行くぞー!」

 こうして渉と共に、時生は勝手口へと向かった。台所脇の小さな戸の前に立って少し死すると、大きなノックの音が響いてきた。

「お、来たみたいだな。はーい!」

 渉が声をかけると、扉を開く。そこには、長身で大柄の、二十代後半くらいの青年が立っていた。腰から下にかけて紺色の布を巻いていて、そこには白字で、『鴻大屋』と書かれている。白く小さな波線のような記号が、その横に描かれている。黒い短髪をしており、目の形は少々つり目の大きな瞳をしている。渉を見て笑ってから、鴻大は時生をまじまじと見た。

「ん? 新顔だな。こちらは?」
「今日から入った、時生さんだ」
「そうか。宜しくお願いします。俺は、鴻大(あきら)と言って、この礼瀬様のお宅に、食料や酒を卸してる八百屋兼万屋だ」

 精悍な顔立ちの鴻大は、そう言ってから楽しそうに笑い、背後に振り返る。

「よし、じゃあ、運んできます。渉くんは、荷下ろしを手伝ってくれ」
「分かってるよ。じゃ、俺はここまで運ぶから、時生さんは、そこの棚とか台とかに上げていってくれ。細かい分類は真奈美がやるから、適当でいいからな!」
「はい!」

 こうして時生は、野菜や酒を、勝手口の前から、そばの台所の棚などへ運ぶ手伝いをした。細い体で力が元々あまりないのだが、必死で運んでいく。すぐに玉のような汗が浮かんできたが、お世話になっているお返しを少しでもしたいという想いから、必死に頑張った。それに高圓寺家でも、重い荷物を運ばせられることは何度もあった。時に取り落とせば、折檻を受けることも珍しくはなかったので、細心の注意を払って運んだ。

 三十分ほどして、全てを運び終えると、鴻大が帰っていった。
 それを見送ってから、渉が時生の運んだ品々を見る。

「適当でいいって言ったのに、完璧に分類してる……! 時生さん、すごいな!」
「そ、そうかな? そんな事はないと思うけど……」

 そこへ真奈美がやってきた。

「あら! 整理整頓までしてくれたの? 本当に助かる。渉にはこんな気の回し方は出来ないものね。時生さん、ありがとう!」
「うん。俺には無理」
「貴方はもうちょっと気を遣いなさいよ」

 二人にそのように賞賛されて、時生は困惑しつつも、役に立ったようだと嬉しくなった。ホッとしながら小さく笑うと、二人が時生を見る。

「丁度お茶の時間だし、一緒に休みましょうか。お饅頭があるのよ」
「お、いいな、真奈美! ほら、行きましょう、時生さん!」
「は、はい!」

 このように、三人で使用人が主に休憩で使う和室へと向かい、畳の上に座って、緑茶の入る湯飲みを前にしながら、饅頭を味わったのだった。