腹ペコ夢魔と片想いの私

我妻くん曰く、彼の遠い祖先が本物の夢魔で、彼自身は人間との混血らしい。
そのため幼いころは普通の人間として生活をしていたものの、思春期になったくらいから夢魔としての(さが)があらわになってきたのだそうだ。
普段は精気ではなく人間と同じものを食べて生きているけれど、夢魔が人間の食糧で栄養を摂るのはとても効率が悪く、四六時中何かを食べていなければ先ほどのような猛烈な飢餓感に襲われるのだという。
我妻くんがいつもたくさんごはんを食べているのに、まさかそんな理由があっただなんて。

「何度も言うけど、本当に悪かったよ。飢えすぎて無意識にあんたに手を出した」

「そっかぁ。災難だったね」

「のん気な返答だな。災難だったのはあんたの方だろ」

我妻くんが呆れたように眉根を寄せる。
たしかにあれは驚いたし苦しかったけれど、そこまで嫌悪感があったわけでもないし、私としては繰り返し謝ってもらうことでもないというのが本音だった。

「それはそうと、どうして普段からその精気っていうやつを喰べないの? いつも精気を摂取していれば、そんなふうにお腹が空いて苦しむこともないんでしょう?」

そもそも日常的に精気を得ていれば、彼の抱える問題はすべて解決できるはずなのだ。
それを頑なにしないのは、いったいなぜなのだろう。
話を聞いた上で当然のごとく感じた疑問を、率直に我妻くんへぶつける。
すると私の疑問を受け止めた彼は、鋭い眼光で私を射すくめた。

「もしもあんたが夢魔だったとしたらどうだ」

「えっ……?」

「腹が減ったら、好きでもない人間の体液すら啜りたくなるんだぞ? そんなの気持ち悪いだろ。俺はそんな浅ましい生き方はしたくない。昔のように、普通の人間として生きていたいんだよ」

それを聞いて、私はやっと彼の境遇の難しさに気づくことができていた。
毎日毎日お腹が減るたびに他人の体液を啜りたくなるなんて、人間としてのプライドがあるならばとても苦痛なことに違いない。
それにこれからも穏やかに生きていきたいのであれば、人ならざる者であるということを周囲に気づかれるわけにもいかないはずだ。

おそらく彼は夢魔として目覚めてから、ずっと苦しんできたのだろう。
そんなこと、少し考えれば分かるはずなのに、私はなんて浅はかな質問をしてしまったのか。
あまりにも軽率だった振る舞いを反省していると、我妻くんはまたもや自分を嘲るように笑った。

「まぁ、それで他人を襲うようじゃ世話ないけどな。あんたに迷惑をかけて、改めてこの生き方には無理があるんだって分かったよ」

我妻くんの瞳が悔しさを隠しきれないほどに揺れる。
心の底から夢魔としての本性を嫌悪しているのに、夢魔として生きていかなければならない。
他人事ながら、本当に難しい問題だ。
それなら偶然彼の秘密を知り得た私に、何かできることはないだろうか。
そう考えて、思いつくのはひとつだけだった。

「……ねぇ、我妻くん。私が我妻くんに精気を分けてあげようか」

「はぁ!?」

「もちろんこのことは誰にも言わないし、我妻くんが私でよければの話だけど」

小首を傾げながら、おそるおそる提案する。

これからも精気の摂取を拒否し続ければ、今日と同じことが再び起こってしまうかもしれない。
そのときがちょうど周囲にたくさんの人間がいるタイミングであったら、ちょっとした騒ぎでは済まないだろう。
ならば少し我慢をして、彼の正体を知った私から精気を摂取すれば、そんな最悪の事態だけは回避できるのではないかと考えたのだ。
するとまさかそんなことを言われるとは思っていなかったらしい我妻くんが、あからさまに目を剥いてこちらを見た。
驚きすぎたのか、なかなか声が出せないようで、唇だけがわなわなと震えている。

「……かっ、軽々しく言うなよ! それがどういうことなのか、あんたも分からないわけじゃないだろ!?」

「もちろん、ちゃんと分かってるよ」

「だったらなおさらタチが悪いな。興味本位かお人好しかは知らないが、安易に近づいてこようとするな。自分の身を滅ぼすだけだぞ」

ドスの利いた声で我妻くんが脅してくる。
しかし私はちっとも怖くはなかった。
もちろん彼の拒絶には、人間から精気を得ることへの嫌悪感が一番にあるのだろう。
けれどぶっきらぼうな物言いの中には、こちらへの気遣いもたしかに含まれていたのだ。

彼の優しさに気づいて確信する。
思っていたとおり、この人は悪い人ではないのだ。
やっぱり私、我妻くんと仲良くなりたい。
もっと彼のことをたくさん知りたい。

「あのね。私、好きな人がいるんだ」

続けて私がそう言うと、我妻くんは余計にわけが分からないとでも言いたげに頭を抱えながら項垂れた。
おかげで初めて見ることができた彼の旋毛に向かって、にっこりと微笑みかける。

「だけどその人はね、絶対私に振り向いてくれない人なの。それでも私は一生その人しか好きになれないと思うから、誰とキスをしたってどうでもいいし、それで我妻くんの役に立てるなら別に構わないよ」

私が大手を振って協力できる理由を話すと、我妻くんはおずおずと顔を上げた。
その表情には、ほんのわずかに期待の色も見える。
どうやら彼は今、人間の理性と夢魔の欲望というふたつの狭間で揺れているらしい。

「……あんたには関係ないことだ」

「もしもまたお腹が減って、別の人に同じことをしたらどうするの? そうならないためにも、やっぱり日常的に精気を摂取してた方がいいと思わない?」

「だからあんたには関係ない」

「ふぅん。そんなこと言うんだ」

けっこう強情な我妻くんに業を煮やして腕を組む。
ここまできたら奥の手を使うしかないだろうと、私は不敵に笑った。

「あーあ、私、あれがファーストキスだったのになぁ。それをあんなふうに奪われて、この先トラウマになっちゃうかも」

「ぐっ……」

「そう言えばさっき、我妻くんに倒されて背中も打ったんだった。あれは痛かったなぁ。痣になってるんじゃないかなぁ」

わざとらしく悲しい顔をしながら、良心が痛むような言い方をする。
おそらくだけれど、彼は見た目に反して人がいいところがあるのだ。
こんなふうに責められれば、きっと折れてくれるに違いない。
案の定、精神的に追い詰められた様子の我妻くんは、「クソッ……!」と悪態をついてからこちらを睨んだ。

「分かったよ。本当にいいんだな!?」

「うん、もちろん!」

私の目論見どおりに事が運び、してやったりとほくそ笑む。
そのまま上機嫌で立ち上がり、床についてしまっていたスカートを払っていると、我妻くんが何かを言いたげに私を見下ろした。

「どうしたの?」

「あんたの願いはなんだ」

「へっ?」

「これ以上、貸しばかりつくりたくない。俺にできることならなんでも叶えるから言え」
不遜な態度とは裏腹に、まるで神様のようなことを言う我妻くんが面白くて、私は思わず吹き出して笑った。
そんな私を胡乱な目で見た彼に向かって、勢いよく右手を差し出す。

「それじゃあ私と友達になってよ」

「はぁ?」

「私、我妻くんと仲よくなりたかったんだ。そうだ、あんたじゃなくて名前で呼んでほしいな。私の名前知ってる?」

「……瀬尾」

「名字じゃなくて名前の方だよ! もしかして覚えてないの? もう半年以上も同じクラスにいるのに!」

「わ、悪かったな」

私の勢いに気圧されたのか、我妻くんが怯んだように唇を引きむすぶ。
しかし思わず責めるように言ってしまったけれど、その実、私は嬉しく思っていた。
だって下の名前までは覚えられていなかったものの、あの我妻くんが、きちんと私の存在を認識してくれていたと分かったのだから。

我妻くんの世界に、私はすでに存在していた。
そんな些細なことがとても嬉しくて、私は無性に愉快な気持ちになった。

「私の名前は瀬尾結花。だから結花って呼んでよ。その方が仲良しっぽいでしょ?」

いっこうに私の手を取ってくれない我妻くんの右手を掴んで、ぶんぶんと縦に揺さぶる。

ずっと近づきたかったのだ。
他人を寄せつけたりしない、美しく孤高な一匹狼に。
まさかその願いが、こんなかたちで叶うとは思わなかったけれど。

しばらく呆気に取られ、私にされるがままになっていた我妻くんは、やがて我に返ると、すべてを諦めたように大きなため息を吐いた。

「気が向いたら呼ぶ」

「うん。私も至くんって呼んでいい?」

「好きにしろ。ってか、いい加減放せ!」

好き勝手に触れていた手を、うざったそうに振り払われる。
さすがに少し馴れ馴れしかっただろうか。
しかしおそるおそる見上げた先で、我妻くんは耳まで真っ赤に染めていた。
呆れたように顰めた顔も、やはりいつもと同じくらい綺麗で、私はいつまでも見つめていたいと思った。

凍てついた冬の朝。
こうして私は、夢魔のクラスメイトと友達になった。
思ったとおり今日はなかなか生徒が登校できず、ほとんど一日自習時間で終わるようだった。
今朝の一件からすでに落ち着きを取り戻したらしい至くんは、教室に入るなり無言で自分の席に着き、今は黙々と数学の参考書を解いている。
そんな彼とは対照的にまったく勉強に身が入らなかった私は、机の下でずっとスマートフォンを操作していた。

検索窓に入力している単語は、もちろん“夢魔”だ。
神話や伝承、物語や絵画など様々な検索結果が出てくる中で、ほぼ共通している夢魔の特徴は、“人の夢に入り込み、淫らな夢を見せて誘惑する”ということだった。
なるほど“夢魔”という名前だけあって、彼らは夢との関わりが深いらしい。

「ねぇ、至くんも人の夢の中に入れたりするの?」

放課後。
帰る支度をしていた至くんにこっそりと問うと、彼は「変な知識を取り入れやがった」とでも言わんばかりに顔を顰めた。

「……ああ。いちおうその能力はある」

「すごいっ! それじゃあ――」

「でも俺は他人の夢には入らない」

「ええっ、どうして? 夢に入ってお喋りでもできたら楽しそうじゃない?」

「夢の中に入るってことは、他人の夢を覗き見てしまう場合があるんだ。単純にプライバシーの侵害だろ」

至くんの眉間の皺が深くなる。
ファンタジックな話をしているはずなのに、彼の見解は妙に現実的だ。
人の夢に入れるだなんて、まるでおとぎ話みたいでわくわくするし、ぜひとも私の夢の中に遊びに来てほしいくらいなのに。
せっかくの素敵な能力を使わないなんて、なんだかとてももったいないと思うのだけれど。

「人間は夢の中では意識が曖昧になる。夢魔はそこにつけ込んで心を惑わし、精気を奪う生き物だ。俺は夢魔のそういう卑しい性質が嫌いなんだよ」

吐き捨てるように言う至くんの夢魔嫌いは、思っていた以上に根深いらしい。
怖そうな見た目に反して、やはり彼は真面目で潔癖なところがある。

それにしても、夢魔とは賢い生き物だ。
夢に至くんのようなかっこいい夢魔が出てきて、しかもその人に口説かれたりなんかしたら、誰だって舞い上がってしまうだろう。
それを利用して自分たちの糧を得ているとは。
けれど当の至くんがそんなふうに夢魔らしく人間を誘惑するところは、なんだか私にも想像がつかなかった。

「そんなことより、このあと暇か?」

「うん。特に予定はないけど」

「だったらこれから今朝とは別の方法で精気をもらいたい。あんたがそれに耐えられるようなら、今朝の話を受けさせてもらう」

「分かった。どこでやるの?」

「俺の家でよければ、そこで」

どうやら精気の受け渡しにはほかにも方法があるらしい。
しかしそんなことはどうでもよかった。
思いがけず至くんの家に行けることになり、私は自分の役割もそっちのけで浮かれてしまっていたのだ。



「おじゃましまぁす」

放課後になると積もった雪も綺麗に除雪され、私たちは難なく歩いて至くんの家に向かうことができた。
至くんが暮らすマンションは高校の最寄駅の北口から徒歩5分ほどの場所にあり、彼は見るからに高級そうな、しかも高層階の部屋に住んでいるようだった。

「ご両親は?」
「母親は仕事でほとんど帰ってこない。父親は顔も名前も知らないな」
その言葉どおり、玄関には幼いころの至くんと彼のお母さんであろう女性の、二人だけの写真が飾られていた。
至くんのお母さんは長い黒髪が印象的で、彼に似た少しキツめな顔立ちの、妖艶で美しい人だった。
彼の夢魔の血はこのお母さんからの遺伝らしい。
しかし至くんとは違い、夢魔らしく奔放で恋愛好きな彼のお母さんは、普段からいろんな男の人の元を飛び回っているため、あまり至くんには関心がないのだそうだ。

「こんな広いお家に一人だなんて、寂しくなったりしないの?」

「まさか。小さい子供でもあるまいし」

しんと静まり返った廊下を、至くんがなんでもない様子で進んでいく。
その背中をどこか神妙になりながら追っていると、あるひとつの部屋の前にたどり着くなり、彼は躊躇することなくその扉を開いた。

「飲み物でも取ってくるから、適当に座っててくれ」

「あ、えと、お構いなく」

通された部屋は極端に物の少ない、広々とした寝室だった。
どうやらここが至くんの部屋であるらしい。
シンプルなデスクとベッド、それ以外は少し大きめの本棚くらいしかない部屋の中をぐるりと見渡してみる。
かわいい文具やアクセサリーが好きで、ついつい物が増えてしまう私の部屋とは大違いの整理整頓された空間。
しかしそのがらんとした生活感のなさに、私はやはり寂しさを覚えてしまっていた。

この部屋の中で、至くんはいつも何を考えているのだろう。
夢魔としての悩みを一人で抱えて、心細くはなかっただろうか。

「座ってていいって言ったけど」

「わっ、ご、ごめん……!」

そうして部屋の真ん中で立ち尽くしていると、すぐに戻ってきた至くんに不審そうな目で見られてしまった。
彼は左腕にお茶のペットボトルを二本抱えており、その内の一本を私に差し出すと、ダークグレーのラグの上であぐらを組んで座った。
そんな彼を見習って、私もその隣に腰を下ろす。
手に持ったペットボトルは冷蔵庫から取り出したものなのかまだ冷たく、そう言えばこの部屋がとてもあたたかいことに気づいた。
きっと今朝、至くんが家を出る前にタイマーをセットしていったのだろう。

「どうした? 急に怖気づいたのかよ」

今さらながらあまりに非日常的すぎる状況に言葉を出せずにいると、黙り込んでいる私が珍しかったのか、至くんはこちらを覗き込むようにして小首を傾げた。
いつもと変わらない仏頂面だけれど、そこにかすかに心配そうな色が見える。
やはり彼は思っていた以上に心根の優しい人だ。
そんな至くんを間近で眺めながら、「やはり恐ろしく整った顔立ちをしているなぁ」と彼の心配を裏切るようなことを考えつつ、私は勢いよく首を横に振った。

「そんなわけないでしょ。男の子の家に来たのなんて初めてだから、ちょっと緊張してるだけ」

「無理強いするつもりなんてないから、帰りたければ帰ってもらっていいけど」

「大丈夫だって! せっかく友達になってもらえたんだから、ちゃんと役目は果たすよ」

自信を表すように拳で胸を叩いたものの、至くんはさして心が動いた様子もなく「ふぅん」と相槌を打つだけだった。
そもそも彼の方はまだ私をそこまで信用してはいないのだろう。
それならばこれから少しずつ信頼を勝ち取っていかなくてはと、私は能天気な自分を隠すように背筋を伸ばし、真面目を装ってから彼の方へ体を向けた。

「そう言えばさ、今日はぜんぜん間食してなかったみたいだけど、それってやっぱり私の精気を喰べたからなんだよね?」

まず初めに、私は今日の至くんを見ていて抱いた疑問を彼に投げかけてみた。
至くんは普段、休み時間のたびに食べ物を頬張っている。
それなのに、今日はほとんど何も口にはしていないようだった。
ならば一度のキスでいったい何時間ほど空腹を抑えられるのかと問うと、至くんは少しのあいだ考え込んでから私を見据えた。

「まぁ、キスで精気をもらえば半日くらいは持つな」

「そうなんだ。だったらもっとたくさん精気をあげられたら、その分長くお腹を満たせるってこと?」

「ああ。1回ヤらせてもらえれば、2、3日は何も食わなくて済むくらいの精気を取り込める」

「やっ、ヤら……!」

突然至くんの口から飛び出した赤裸々な言葉に、思わず閉口してしまう。
しかし私の脳裏には、すぐさま今日の自習中にスマートフォンで調べたあれこれが浮かんできていた。

夢魔とは人の夢に入り込み、淫らな夢を見せて誘惑する生き物だったはずだ。
それなら彼らの望む先が性行為だったとしてもなんの違和感もない。
むしろ“体液を啜って精気を得る”とは、主にそういうことを意味していたのだろう。
キスまでしか想定できなかった自分の幼稚な思考に今さらながら気づき、私は慌てて首を振った。

「で、でも私とはキスまでだからね! それ以上のことはさすがに――」

「当たり前だろ。はなからあんたにそんな期待はしていない」

焦る私を見て、至くんが呆れたように鼻で笑う。
どうやら彼の方は私が深く理解していないことに気づいていたらしい。
そのことにホッと胸を撫で下ろしていると、至くんの目がギラギラと光をまとったような気がした。
その目がみるみるうちに今朝見たばかりの金色の目へと変わっていく。
聞けば夢魔の欲望が高まるとき、彼らの目は金色に輝くらしい。

「今からあんたの肌に触れて精気を取り込もうと思う」

「肌……。体液からじゃなくてもいいの?」

「それが一番人間に負担がかからないだろうからな」

至くん曰く、体液から精気を得るより時間はかかるけれど、素肌同士で触れ合えば皮膚からも精気を得ることができるのだそうだ。
「悪いけど、上だけ脱げるか」と言って、至くんが自分の制服を脱ぎ始める。
制服のブレザーとセーター、ネクタイにシャツ、中に着ていた黒いインナーをするすると脱ぎ、あっという間に上裸になってしまった彼を見て、私も弾かれたようにブレザーのボタンに手をかけた。

「見ないようにするから、全部脱いだら服で前を隠して、俺に背中を向けてくれ」

「分かった」

至くんがそっぽを向いていることを確認して、着込んでいた制服をひとつずつ脱いでいく。
ブレザーとカーディガン、リボン、ブラウス、インナー、そしてブラのホックを外してすべての衣服を脱ぎ終えると、私は言われたとおり脱いだばかりのブラウスで胸から下を隠し、至くんに背中を向けた。
部屋の中はあたたかいとはいえ、素肌をさらせばわずかに肌寒さを感じる。
それにさすがの私も、男の子の前でこの格好になるのは少し気恥ずかしいものがあった。

「準備できたよ」

「ああ」

寒さと緊張で震えそうになる声をどうにか堪えながら至くんを呼ぶと、彼はそっぽを向いたまま返事をし、私の方へと近づいた。
おそらく至くんはバックハグで私の背中から精気を取り込もうと考えたのだろう。
しかしこれまでキスだのなんだの、あけすけにいろいろな話をしてきたけれど、ハグはハグで恥ずかしいものがある気がする。
「精気の受け渡しに副作用や後遺症のようなものは出ないと言われているが、もしも疲れたり怠くなったりしたらすぐに言ってくれ」

「うん。それじゃあやってみよ」

けれど今さら羞恥心を感じてなどいられない。
なにせこのことを提案したのは私の方なのだから。
そう思って勢いよく返事をすると、なぜだか至くんが私の後ろでため息を吐いた。

「至くん? どうかした?」

「俺が言えたことじゃねーけど、あんまり自分を安売りするなよ。ほんと危なっかしいな、あんた。将来詐欺にでも引っかかりそうだ」

「失礼な。これでもけっこう慎重な方なのに」

「どこがだよ。あっさり夢魔のことなんか信じるし、男の家に着いてきて、今は服まで脱いでるんだぞ。このまま何かされたらとか考えないのか」

「そんなこと考えないよ。私、至くんのこと信頼してるもん」

そちらこそこの期に及んで何を言っているのかと呆れていると、再び至くんのため息が聞こえた。

「今日までろくに話したこともなかったくせに、よくそんなことが言えるな」

「だって私、ずっと至くんのことを見てたからね」

そう、話したことはなかったけれど、入学式の日からずっと、私は至くんのことを見ていたのだ。
彼はたしかに目つきが悪くて無口で無愛想だ。
けれど授業はきちんと受けているし、休み時間ごとに何かを食べるその食べ方が綺麗だと思っていた。
大きな物音を立てているのは聞いたことがなく、いつも所作が落ち着いている。
怖そうな見た目だけれど、きっと真面目で穏やかな人なのだろう。

そんな予想を裏付けるように、彼は今日、何度も私を気遣う素振りを見せてくれた。
今の言葉だって、不用心に見える私を心配してくれたのだ。
だからこそ、彼は信頼に足る人だと私の直感が言っている。

「もしもこれで至くんに傷つけられたとしても、それは私の見る目がなかったってことだから、後悔したりなんかしないよ」

思っていたことを素直に告げると、後ろの至くんが息を呑んだ気配がした。
ややあって、「約束する」と掠れた声が響く。

「あんたを傷つけるようなことはしない。絶対に」

「やっぱり優しいね、至くんは」

からからと愉快な笑い声を上げると、そんな私とは対照的に、至くんは不服そうな様子で黙り込んでしまった。
それから彼の腕が躊躇いがちに伸びてきて、私を諌めるかのような強さでブラウスを握っていた両手ごと抱きしめられる。
先ほどまで笑っていたためか、さほど緊張はしていない。
それよりも背中に感じた体の熱さに私は驚かされていた。

これほどまでに体温が高いのは、彼が夢魔だからなのだろうか。
それとも男の子はみんな、こんなふうに体に熱を持っているものなのだろうか。

「好きなやつがいるって言ってたな」

あたたかさに包まれながら微睡みのような心地で思案していると、至くんは唐突にそんなことを言った。
どうして今その話をと、少し遅れて「うん」と返事をする。

「だったらそいつのことを考えていてくれ」

「どうして?」

「その方が甘くなるから」

それっきり、至くんは何も言わずに私を抱きしめ続けた。
どうやら恋をしている人間の精気は、通常の精気よりも甘く美味しくなるものらしい。
夢魔がわざわざ夢の中に入りこんでまで人間を誘惑するのには、獲物を恋に落とせば極上の精気を得られるという理由もあるのだろう。
どうせなら私も至くんに美味しく精気を喰べてほしいと思うけれど、とはいえこんな状態で彼以外の人のことを考えられるほどの精神的な余裕もなかった。
言われたとおりに好きな人のことを頭に思い浮かべようとするも、至くんの額がまるで甘えるように私の首筋に当たって、その感触に現実へと引き戻される。
まるで誰にも懐かない狼を飼い慣らすことができたみたいだ。
そんな不思議な優越感を抱きながら、私は好きな人のことを考えるのを潔く諦め、それからゆっくりと目を閉じた。

静かな部屋の中で、規則正しい心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。
至くんから与えられる熱は、もはや背中だけではなく、私の全身をあたためるように溶け込んでいた。
心地よいぬくもりの中で、体が微睡みへと沈んでいく。

――――(きょう)ちゃん

私ね、素肌で人と抱き合うことが、こんなにもあたたかいものだとは知らなかったよ。
この熱を知る機会が、まさか私にもやってくるだなんてね。



「終わり……?」

「ああ。助かった」

背中の熱が離れていったのは、精気の受け渡しが始まってから20分が経ったころのことだった。
至くんが心配していたような体の不調も起こらず、むしろ私は本当に精気を渡すことができたのか疑わしいくらいに何も感じることがなかった。

「本当に喰べられたんだよね?」

「ああ。そっちこそ、本当になんともないんだな?」

「なんともなさすぎて拍子抜けしてるくらいだよ」

「そうか」

そもそも精気とは人間の生命活動の元になる力のようなもののことで、健康な人間は生きてさえいれば日々勝手に養われていくのだそうだ。
つまりは多少夢魔に分け与えたとしても特に問題はないらしい。
そして夢魔も獲物を殺すわけにはいかないため、人間を殺せるほどの精気を奪うことはできないのだという。
背中合わせになって制服を着込みながら、改めて夢魔や精気について教わっていると、私が一番上のブレザーを着終わったところで、至くんがくるりと振り向いてこちらに頭を下げた。

「至くん!? どうしたの、突然!?」

「いくら奪っても問題ないものだったとしても、精気は人間にとって必要不可欠で大切なものだ。だから俺みたいな夢魔に分け与えてくれて、本当にありがたいと思ってる」

「やめてよ。元々は私が言い出したことなんだから」

まったくこの人は悪魔だというのに、本当に律儀なのだから。
私だって100パーセントの善意ではなく、彼とお近づきになりたくてやったことなのに、ここまで感謝をされては居心地が悪くなってしまう。
そう思った私は「そんなことよりさ、今日は金曜日だけど、明日からの休みはどうするの?」と、あたふたとしながらも話題を変えた。

「土日くらい適当に飯食ってしのぐ」

「そっか。じゃあ休みの日も、暇なときがあったら会いにくるよ」

「さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないだろ」

「遠慮しなくてもいいのに」

こうして軽口を叩いていると、至くんとの距離がだんだんと縮まっていっているように思える。
きっと彼の方も、少しずつ私に心を開いてくれているのだろう。
その証拠のように、わずかに上がった彼の口角を見て、私は笑い声を上げた。
「な、何笑ってんだよ」

「ごめん。私ちょっと浮かれてるんだ」

「浮かれてる?」

「私ね、周りの女の子たちみたいに、恋人と触れ合うようなことなんて一生できないと思ってたから」

私がそう言うと、至くんは気まずそうに言葉を失った。

「もちろん私たちは付き合ってるわけじゃないけど、それでもちょっとドキドキするし楽しい。至くんってかっこいいし、なんだか少女漫画の主人公になったみたいだもん」

「ったく。ほんと能天気だな、あんた」

「もー。あんたじゃなくて、結花だってば」

「結花」

すると突然、至くんから下の名前で呼ばれて、今度は私が言葉に詰まってしまった。

結花と呼んでほしいとは言っていたけれど、彼の性格からして、それほど期待はできないと思っていたのに。

「名前を覚えていなかったって、あれは嘘だ。本当はちゃんと知ってた。初めから変な女だって思ってたから」

「え? ここにきて悪口?」

「ちげーよ」

否定はしてくれたものの、至くんはどうして私を変な女だと思っていたのかは教えてくれなかった。
初めからって、いったいいつから私のことを認識していたのだろう。
何をどうして、私みたいな平凡な人間を印象的に思ったというのか。

「ま、夢魔だとバレたのがあんたでよかったってことだ」

彼の心の底を覗き込めない悔しさを感じていると、してやったりと皮肉っぽく笑う至くんが、私の耳元で囁いた。
まるで私を堕とすかのように、低く甘い声で。
こんなふうに人の心を惑わすことができるだなんて、やっぱり彼はれっきとした夢魔であるらしい。



その日からというもの、私は朝と放課後の2回に分けて至くんに精気をあげるようになった。
定期的に人間の精気を摂取していれば、飢えたように空腹になることも、抑えきれない欲が出るようなこともなくなるらしい。
夢魔の性と戦う日々から解放され、精神的に落ち着いたせいか、目つきの悪さは変わらないものの、最近は彼本来の穏やかな性質が表に出るようになったと思う。
そして、変わったことといえばもうひとつ。

「そもそも公式を覚えてないってどういうことだよ。こんな問題、公式に当てはめるだけなんだから簡単だろ。さっさと覚えろ」

「だってその公式が全然頭に入ってこないんだもん! sinとかcosとか難しいよ! ♡とか⭐︎とか使って分かりやすくしてくれればいいのに!」

「アホみたいな文句言ってねーで、いいからとにかく頭に入れろ。おい、ここの公式はマイナスがつくから間違うなよ」

それは休み時間や放課後に、こうして二人で勉強会をするようになったということだった。
友達になるというだけでは精気をもらう対価には見合わないと思ったらしい至くんが、得意な勉強を私に教えてくれるようになったのだ。
ぶっきらぼうな口調でスパルタだけれど、彼は物覚えの悪い私に根気強く付き合ってくれる。
そして難しい問題が解けたら「やればできんじゃねーか」と言って褒めてくれる。
そんな飴と鞭のおかげか、このあいだの中間テストでは下から数えた方が早いくらいだった学年順位が、なんと20番台にまで上がったのだった。

「もうすぐ1年生も終わっちゃうね」

そんなことをして過ごすうちに、精気の受け渡しを始めてから早くも3ヶ月が経とうとしていた。
すでに至くんの前で制服を脱ぐことにも抵抗がなくなっていた私は、今日も今日とて慣れた手つきでボタンを外し、彼にむき出しの背中を向ける。
ややあって自分と違う体温が重なるのを感じながら、いつものように目を閉じた。