恭ちゃんの昔の絵には、私をモデルにしたものがたくさんある。
それは私が幼いとき、何度も自分の絵を描いてとせがんだせいだった。
私がお願いをすると、恭ちゃんは何枚でも絵を描いてみせてくれた。
恭ちゃんの描く絵はいつも夢みたいに優しくて綺麗で、幼いながらに彼の創る世界をずっと隣で見ていたいと思ったほどだった。
私の恭ちゃんへの想いは、このころから何も変わっていない。
「おまたせー」
私と至くんが並んで絵を眺めていると、お茶を持った恭ちゃんが帰ってきた。
至くんが持ってきたお菓子と恭ちゃんが淹れてくれたお茶を楽しみながら、今度は三人で恭ちゃんの絵を鑑賞する。
描いた絵の話をしている最中、恭ちゃんはずっと照れくさそうな顔をしながらも浮かれていた。
そりゃあ至くんのように綺麗な人が自分のファンで、きらきらした目で話を聞くのだから、そうなってしまうのも当たり前だろう。
「そんなに気に入ってもらえたなら、我妻くんにあげようか? この絵」
「えっ……?」
会話の最中、恭ちゃんはふいに夢魔の絵を至くんに贈るという提案をした。
きっと至くんはそんなことが起こるなど想像していなかったのだろう。
私の隣で、彼は見たことがないほどに目を丸くさせている。
「いえ、そんなつもりでこちらに伺ったわけじゃないですから」
「君にもらってもらえるなら、俺もその絵も本望だよ」
「そうだよ! 遠慮しないでもらっちゃいなよ至くん!」
至くんの部屋にこの絵が飾られれば、あのがらんとした部屋もきっと華やぐだろう。
それにこの絵の美しい夢魔を見ていれば、至くんも夢魔である自分を好きになってくれるかもしれない。
予想外の話にたじろぐ至くんに、私と恭ちゃんはなかば強引に絵を受け取らせた。
恭ちゃんが言うとおり、夢魔の絵も至くんの元にあれば幸せなはずだ。
優しい彼は、きっとこの先もこの絵を大切に扱ってくれる。
「よかったね、至くん」
「ああ」
思いがけず手に入った憧れの絵を、至くんがきらきらとした瞳で見下ろす。
そんな様子に目を細めていると、廊下の方から何やら誰かの足音が聞こえた。
「恭太いる? ちょっと急に一件依頼が入っちゃって」
「百合」
アトリエの扉の向こうから響いたのは、聞き慣れない女性の声だった。
どうやらその女性は恭ちゃんの知り合いらしい。
彼が扉を開くと、女性は中にいた私と至くんの存在に気づき、ハッと気まずそうな顔をした。
「ごめんなさい。お客様がいらっしゃってたのね」
「大丈夫だよ。仕事じゃなくて、姪っ子とその彼氏が遊びにきてるだけだから」
現れたのは、すっきりとしたショートヘアが印象的な大人の女性だった。
年齢はたぶん、恭ちゃんと同い年くらいだろう。
並んだ二人はどこか雰囲気が似ていて、まるで恋人同士か夫婦のようだ。
そんな二人を見て、胸がちりと痛む。
私と恭ちゃんが並んでも、こんなふうに絵にはならない。
「紹介するよ。一緒に仕事をしてる高梨百合さん」
「初めまして、高梨です。姪っ子の結花ちゃんよね?」
「は、はい」
「ずっとあなたにお会いしたかったの。よく彼の絵に描かれていたから」
あからさまな嫉妬心に駆られていると、高梨さんは初めて会ったはずの私の名前を呼んでくれた。
どうやら恭ちゃんが彼女に私の話をしていたらしい。
私とベルの描かれた絵がとても好きだと言う高梨さんは、私の気持ちを知らずに純粋に喜んでくれている。
「……もしかして高梨さんって、恭ちゃんの彼女?」
どこか確信を持って恭ちゃんに尋ねると、彼はやはり照れ臭そうに頷いた。
「ああ。今年中には籍を入れようって話してるんだ」
「そう、なんだね」
籍を入れるって、つまり結婚をするということか。
幸せそうに笑う恭ちゃんの顔を見て、さすがに目の前が真っ暗になるというようなことはなかった。
けれど喉の奥が詰まったように引き攣って、上手く声が出せない。
動揺が顔に表れないように無理矢理に笑顔をつくる。
「おめでとう、恭ちゃん。高梨さん、よかったら私とも仲よくしてくださいね」
「ええ。こちらこそ」
顔を見合わせて、恭ちゃんと高梨さんが微笑み合う。
そんな二人を眺めていると、どんどんと体の芯が冷えていくような気がした。
私は今、きちんと笑えているだろうか。
体は震えていないだろうか。
口角が痙攣しはじめ、慌てて俯き口元を隠す。
そんなことをしていると、ふいに腕を後ろに引かれた。
「仕事があるみたいだから、邪魔にならないうちに行こうぜ」
私の腕を引いたのは、静かにそばにいてくれた至くんだった。
彼はわざとらしくない程度に、自分の影に私を隠してくれているようだった。
「悪いね。せっかく来てくれたのに気を使わせてしまって」
「いえ。このあと飯に行くつもりだったんで」
「なぁ」と同意を求められ、頷きだけで応える。
そんな約束はしていなかったけれど、至くんはとっさの嘘でこの場を切り上げてくれるようだった。
そんな冷静な至くんの態度に、少し心が落ち着く。
ひとつ息を吐いて彼の影から出ると、私はもう一度恭ちゃんに向かって笑顔をつくった。
「じゃあもう行くね」
「ああ。帰りも気をつけろよ」
「結花は俺が送っていくので心配しないでください」
「今日はありがとうございました」と言って、至くんは私の手を引きながら足早にアトリエを後にした。
彼が向かう先は最寄駅とは反対方向だ。
おそらく人気の少ない場所に向かおうとしてくれているのだろう。
3分ほど歩いて静かな公園へと辿り着くと、至くんはくるりと振り返って私を見下ろした。
その目にはこちらを窺うような気持ちが滲んでいて、私は心配をかけてしまったことを申し訳なく思った。
「至くん、ありがとう。あと1分でもあそこにいたら、たぶん泣いちゃってたと思う」
「別に」
「そんな気まずそうな顔しないでよ。大丈夫。いつかこんな日が来るって分かってたし、ずっと心の準備はしてたから」
私が恭ちゃんと結婚できることは絶対にない。
だからこの日が来る覚悟はしてたのだ。
「だけど覚悟してたとはいえ、やっぱり辛いな」
堪えられなくなった涙が頬を伝う。
初めはひとすじ流れただけだったそれは、次第に壊れた蛇口のように溢れ出し、私の顔をひどい有り様にさせた。
叶うことのない恋だと、痛いほどに分かっていたはずだ。
それなのに、どうしてこんなにも涙が出るのだろう。
まるで子供のようにしゃくり上げながら嗚咽していると、左頬に何か柔いものが当たった感触がした。
それが私の涙を吸い取った至くんの唇だと分かったのは、彼の顔が離れてからのことだった。
「至くん……?」
不思議に思って見上げた至くんは、眉を寄せて苦しげな表情をしていた。
その目は、あのぎらぎらとした金色に輝いている。
「悪い、こんなときに」
「ううん」
「甘いな」
ああ、そうか、涙も立派な体液なのか。
こんなにしょっぱいものを甘いと感じるだなんて、夢魔の味覚は本当に不思議だ。
「あんた、あの人のことが本当に好きだったんだな。でなきゃこんなに甘い涙は流せない」
「そうだよ。だって産まれてからずっと、恭ちゃんが好きだったんだから」
4人兄弟で一人だけ歳の離れた末っ子の恭ちゃんは、ずっと自分より年下の兄弟がほしかったらしい。
だから恭ちゃんの姉である私の母が私を産んだとき、彼はまるで自分の妹のようにかわいがってくれたのだ。
小さい子供の相手をするなんてとても大変だったはずなのに、恭ちゃんはどんなときでも私に構ってくれた。
けれど悪いことをするときちんと叱ってくれて、お母さんと喧嘩をしたときは一緒に謝ってくれた。
優しくてかっこよくて、私がリクエストをすると、何枚だって絵を書いてくれる。
夢みたいに綺麗で、恭ちゃんの創る世界をずっと隣で見ていたくて。
叔父と姪では結婚できないと知るまでは、本気で恭ちゃんのお嫁さんになれると信じていたのだ。
「きょうちゃん、絵ーかいて?」
「いいよ。なんの絵がいい?」
「ゆいかの絵!」
「分かった。ベルと一緒の絵を描こうか」
「うんっ!」
恭ちゃんの穏やかな笑顔が鮮やかに脳裏に浮かぶ。
好きだ。
大好きだ。
産まれたときから、今でもずっと。
私は、恭ちゃんだけが好きなのだ。
「覚悟をしてた」だなんてかっこつけたことを言っておきながら、結局私の涙はとどまるところを知らなかった。
恭ちゃんとの思い出が頭の中に溢れてきて、何かを思い出しては小さな子供のように泣きじゃくってしまう。
そんな私を公園のベンチに座らせてくれた至くんは、それからもずっと何も言わずに私の隣にいてくれた。
「こんなことに付き合わせちゃってごめんね」
「別に」
「至くんがいてくれてよかった。本当にありがとう」
ようやく私の気持ちが落ち着いたのは、アトリエを出てから小一時間が経ったころのことだった。
散々泣いたまぶたは熱を持ち、すでにまばたきが重くなるほどに腫れている。
きっとこれからもっと腫れ上がって無惨な顔になってしまうことだろう。
明日が日曜日でなかったら、学校を休まなければならないところだった。
「それにしてもかっこ悪いところを見せちゃったね。恥ずかしいな」
「かっこ悪いところなら、俺の方が見せてるだろ」
至くんの言葉に「ん?」と首を捻る。
私は別に、至くんのことをかっこ悪いと思ったことなどないのだけれど。
それでもきっと彼なりに思うところがあるのだろう。
そんなことを考えていると、至くんは真っ直ぐ前を向いたまま、ふいに「中2のときだった」と呟いた。
「えっ……?」
「中2の冬、俺は夢魔として目覚めたんだ」
「そう、だったんだ」
「目覚めてすぐに母親に連れられて夢魔の集いに行った。そこで初めて夢魔としての生き方を教わったんだ。事情を知る人間の女を紹介されて、そのとき初めて精気をもらった」
夢魔のことを嫌悪する至くんは、私に夢魔に関する基本的な情報以外を教えてくれることはなかった。
だからこそ、夢魔としての至くんの話を聞くのはほとんど初めてで、私は思わず驚いてしまっていた。
「ショックだったよ。自分が人間ではないという事実も、こうしなければ生きていけないということも。なにより人間の体液を貪って恍惚とした自分が恐ろしかった」
中学2年生という多感な時期にそんな出来事が起これば、ショックを受けるのも無理はないだろう。
想像するだけで胸が痛くなり、私はすぐそばにあった至くんの右手に自分の左手を重ねた。
「それからはずっと無理をして生きてた。夢魔の欲を抑えつけながら、誰にも正体を知られないように他人を遠ざけてたんだ」
至くんの人を圧倒するようなオーラは、彼が人間として生きていくために無理をしてまとっていたものだったのか。
初めて知るそんな事実に、またしても胸が締めつけられる。
けれど、至くんはどうして今そんなことを教えてくれる気になったのだろう。
不思議に思いながら彼の話を聞いていると、ずっと正面を見据えていた至くんは、突然隣に座る私に視線を移した。
「だけど結花だけは思い通りにならなかった」
「私?」
「周りが俺を遠巻きにするなかで、なぜかあんただけはこっちを興味深そうに見てただろ。席替えで隣になったときも嬉しそうにしてるし、ずっと変な女だと思ってたんだ」
そう言えば至くんは、私のことを“変な女”として認識してくれていたんだっけ。
たしかに他人を遠ざけようとしているのに、なぜか自分に興味を示してくる人間がいれば、変なやつだと思って当たり前だろう。
「そっか。私が鈍感なせいで、至くんをやきもきさせちゃってたんだね」
「初めはそうだったかもしれない。正体を隠すのにすごく厄介な存在がいるって思ってた。だけど――」
そこまで言って、至くんはわずかに微笑んだ。
「結花は俺が夢魔だと知っても、怯えるどころか友達になってほしいって言ってくれた。俺を信じると言って、精気を分け与えてくれた。上手く言えねーけど、俺は何度も結花に救われたんだよ」
思いもよらなかった至くんの言葉に、目を丸くしながら彼を見上げる。
そんな私の様子が面白かったのか、至くんは珍しく「ははっ」と声を出して笑った。
「このあいだ言ってたな。“俺と自分、どっちが悪魔なのか分からない”って」
「うん」
「結花は俺のどうにもできない人生を変えてくれた。そんなやつが悪魔なわけがない」
「至くん……」
「あんたはただ純粋に、人を好きになっただけだろ」
普段はぶっきらぼうな至くんの声が、とても柔らかく私の耳に届く。
その優しい響きに、またしても私の涙腺は決壊してしまった。
腕を伸ばし、自分と彼のどちらも慰めるように至くんに抱きつく。
誰にも本当のことを言えなかった。
おぞましく思えるような欲を抱えていた。
私たち二人は正反対のような存在に見えて、実はとてもよく似た境遇にいたのだ。
だからこそ、直感的に同じ匂いを感じ取った私は、ずっと至くんに近づきたかったのかもしれない。
涙で服が濡れてしまうというのに、至くんは構わず私を抱き寄せてくれる。
そして私の気が済むまで、彼は私の背を撫で続けてくれた。
「結花」
至くんの声が聞こえて、ハッと目を覚ました。
うっすらとまぶたを開けると、寝起きでぼんやりした視界の真ん中で、至くんが立ったまま私を見下ろしている。
「至くん? あれ、ここどこ?」
しかし起き上がってみると、辺りは見慣れない白い空間が広がっていた。
アトリエでの一件から二日が経ち、今日は月曜日。
登校したはいいものの、失恋の痛手を引きずってしまっていた私は、体調不良で保健室のベッドを使わせてもらっていたはずなのだけれど。
「ここは結花の夢の中だ」
「えっ!?」
「前に夢の中で話してみたいって言ってただろ?」
「叶えてくれたの!? すごい! 嬉しい!」
至くんは他人の夢には入らないと言い切っていたのに。
きっと失恋して落ち込んでいる私を励ますために、自分の信条を曲げてまで私が喜びそうなことを考えてくれたのだろう。
言葉少なな至くんの優しさに感激しながら、真っ白な空間を見渡す。
至くん曰く、夢魔は眠っている人間の体の一部に触れば、その人の夢の中に入れるのだそうだ。
「悪いが結花の左手に触らせてもらった」
「平気だよ。夢の中で会えて嬉しい」
そう言って笑うと、至くんもホッとしたように微笑んだ。
「ここが私の夢の中かぁ。なんだかものすごくシンプルなところだね」
「夢を操る力を持っていなければ、意図的に景色を変えることはできないからな」
「そうなんだ。至くんは自分の夢を操れるの?」
「俺は他人の夢に入ることしかできない」
「そっか。それでもすごいことだけどね」
至くんの正面に立ち、彼の右肩に触れる。
こんなにも確かな感触があるのに、ここが夢の中であるなんて本当に不思議だ。
ふと視線を上げると、何も言わずに私を見下ろしていた至くんの目が、あの金色に輝いていた。
「あれ。至くん、もしかしてお腹が減ってる?」
「ああ」
「分かった。精気をあげるからちょっと待って。今すぐ恭ちゃんのことを考えるから」
「いい。あの人のことは考えなくて」
「えっ? ああ、夢の中じゃ精気はあげられないのかな?」
「精気はいいから。俺の目を見ろ」
至くんに腕を引かれ、至近距離で彼の顔を覗き込む格好になる。
形のよい切れ長の目の中で輝く金色は、まるでディスプレイされた宝石のように眩い光を放っていた。
「その目、最初に見たときは少し怖いと思ったけど、本当はとても綺麗な色なんだね」
「こんな気味の悪い目を綺麗だなんて言うのはあんたくらいだ」
「そんなことないのに」
私はたぶんいつの間にか、至くんの金色の目を見るのが好きになっていたのだろう。
夢魔の欲望を人間の理性で押さえつけながらも、やはり本能的に精気を求めてしまう目。
きっと至くんは苦しくてたまらないはずなのに、彼が苦しむ分だけ、その目は切なく、色っぽくなるのだ。
そんな彼の目を見て満たされる私は、やっぱり悪魔なのではないかと思ってしまう。
今日もまたその金色に見惚れていると、至くんは少し怒ったように目を細めた。
「あんた、本当に変な女だよな。お人好しで能天気なのかと思えば妙に肝が据わってて、いつもへらへら笑ってるくせにあの人のことにだけ涙を流す」
至くんはそう言うと、今度は私の両肩を掴み、私を真っ白な床へと押し倒した。
突然の行為に驚いていると、彼の右手が私の頬に触れ、そのまま首筋から鎖骨へと下降していく。
指先が皮膚の薄い部分に触れ、私の感覚はすべてそこに集中した。
こそばゆくて、なんだか甘い刺激が走る。
いったい突然どうしたのだろう。
これではまるで、恋人同士が触れ合っているようだ。
「あの、至くん……」
「何?」
「いや、その、ちょっと手つきが……なんと言うか……」
「いかがわしい?」
「う、うん」
言いづらかったことをピタリと当てられて言葉を失う。
どうやら至くんは意図して性的に私に触れているらしい。
「俺に触られるのは嫌か?」
「嫌じゃないよ? 精気をあげるときだっていつも背中を触られてるし」
「ならいいだろ」
「でも、今日のはなんか恥ずかしいよ」
羞恥に耐えられずそっぽを向くと、頭上で至くんが笑った気配がした。
「夢魔が精気を貪る行為は、人間側も気持ちが伴えば快楽を得られる。嫌じゃないなら頭を空っぽにして浸っていたらいい。悪いようにはしない」
耳元で囁かれ、心臓が跳ねる。
確かに至くんに触られるのは嫌ではないし、むしろいつも心地いいと思っているけれど。
「いやっ、でも、その、あのっ……!」
さすがにこれは一線を越えているのでは。
そう思い、声にならないような声を出しながら狼狽えていると、金色の目に顔を覗かれた。
きっと真っ赤に染まっているであろう私の顔を見て、その目がニヤリと細められる。
「なんてな」
それから揶揄ったような至くんの声が響いたかと思うと、意識が急激にどこかへ引っ張られるような感覚がした。
それはまるで、ハッと夢から覚めるような感覚だった。
「わああああっ!?」
よく分からない事態に驚き、大声を出しながら飛び起きる。
そんな私の目の前に広がったのは、いつもの保健室の光景だった。
混乱しながら横を向けば、椅子に座って私の左手を握った至くんがこちらを見上げていた。
「どうした? やらしい夢でも見たみたいに顔が赤い」
まるでしてやったりとでもいうように、至くんがいじわるな笑みを浮かべる。
その言葉を聞いて、さらに熱が顔へと集中するのが分かったた。
「ああああれは! 至くんが見せた夢でしょう!?」
「ああそうだよ。悪くなかっただろ?」
「なっ、あっ……!」
「冗談だ、落ち着け。それにいくらリアルに感じられても、結局あれはただの夢だ。俺はあんたの左手にしか触ってない」
至くんの手がパッと離れていく。
けれど皮膚に残った彼の体温はなかなか冷めず、その熱になぜか胸がドキドキとした。
戸惑う私とは対照的に、ベッドに肘をついて頬杖をしている至くんは、実に飄々とした顔をしている。
「夢の中とはいえ、どうしてあんなことしたの?」
不可解な至くんの行動の理由を聞けば、彼は不機嫌な目で私を見据えた。
「松嶋さんのことばかり考えているあんたが気に食わなかったから、夢魔らしく誘惑でもしてみようかと思ってな」
「どういうこと……?」
「分からないか?」
至くんが私の座るベッドへと乗り上げる。
彼の綺麗な顔がすぐ近くまで迫って、私はその顔を直視しないように慌てて俯いた。
今日の至くんはどこか様子がおかしい。
まるで生粋の夢魔のように、私の気持ちを翻弄する。
「なぁ。本当に分からないのかよ」
「わっ、分かんないよ……!」
「じゃあ一回しか言わない」
俯く私の顔を、至くんが首を傾けて覗き込む。
形のよいその薄い唇が動くのが、なぜか私の目にはとてもゆっくりと映った。
「結花が好きだ」
至くんの唇からこぼれ落ちた声は、あっけなく響いて私の耳をすり抜けていった。
その意味を把握するのに時間がかかり、間抜けなまばたきを何度も繰り返す。
彼の真っ直ぐな目は、嘘や冗談を言っているようには見えない。
――至くんは、私のことが、好き。
言葉を噛み砕き、ようやく意味を理解する。
それと同時に広がったのは、ひび割れた心に甘く染み入るような悦びだった。
「いつか俺のことしか見えないようにするから、もうあの人を思って泣くな」
「……至くんがそんなことを言うなんて、まだ夢を見てるみたい」
「言ってろ」
ベッドを降りた至くんが、呆れたように私に背を向ける。
しかし真っ赤に染まった耳が隠しきれておらず、私は気づかれないように小さく笑った。
「ねぇ、至くん。もう一回だけ言ってよ」
彼の制服のシャツを引っ張る。
振り向いた至くんは、気恥ずかしそうにしながらも、とても優しく笑ってくれた。
「好きだ」