腹ペコ夢魔と片想いの私

どうせなら私も至くんに美味しく精気を喰べてほしいと思うけれど、とはいえこんな状態で彼以外の人のことを考えられるほどの精神的な余裕もなかった。
言われたとおりに好きな人のことを頭に思い浮かべようとするも、至くんの額がまるで甘えるように私の首筋に当たって、その感触に現実へと引き戻される。
まるで誰にも懐かない狼を飼い慣らすことができたみたいだ。
そんな不思議な優越感を抱きながら、私は好きな人のことを考えるのを潔く諦め、それからゆっくりと目を閉じた。

静かな部屋の中で、規則正しい心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。
至くんから与えられる熱は、もはや背中だけではなく、私の全身をあたためるように溶け込んでいた。
心地よいぬくもりの中で、体が微睡みへと沈んでいく。

――――(きょう)ちゃん

私ね、素肌で人と抱き合うことが、こんなにもあたたかいものだとは知らなかったよ。
この熱を知る機会が、まさか私にもやってくるだなんてね。



「終わり……?」

「ああ。助かった」

背中の熱が離れていったのは、精気の受け渡しが始まってから20分が経ったころのことだった。
至くんが心配していたような体の不調も起こらず、むしろ私は本当に精気を渡すことができたのか疑わしいくらいに何も感じることがなかった。

「本当に喰べられたんだよね?」

「ああ。そっちこそ、本当になんともないんだな?」

「なんともなさすぎて拍子抜けしてるくらいだよ」

「そうか」

そもそも精気とは人間の生命活動の元になる力のようなもののことで、健康な人間は生きてさえいれば日々勝手に養われていくのだそうだ。
つまりは多少夢魔に分け与えたとしても特に問題はないらしい。
そして夢魔も獲物を殺すわけにはいかないため、人間を殺せるほどの精気を奪うことはできないのだという。
背中合わせになって制服を着込みながら、改めて夢魔や精気について教わっていると、私が一番上のブレザーを着終わったところで、至くんがくるりと振り向いてこちらに頭を下げた。

「至くん!? どうしたの、突然!?」

「いくら奪っても問題ないものだったとしても、精気は人間にとって必要不可欠で大切なものだ。だから俺みたいな夢魔に分け与えてくれて、本当にありがたいと思ってる」

「やめてよ。元々は私が言い出したことなんだから」

まったくこの人は悪魔だというのに、本当に律儀なのだから。
私だって100パーセントの善意ではなく、彼とお近づきになりたくてやったことなのに、ここまで感謝をされては居心地が悪くなってしまう。
そう思った私は「そんなことよりさ、今日は金曜日だけど、明日からの休みはどうするの?」と、あたふたとしながらも話題を変えた。

「土日くらい適当に飯食ってしのぐ」

「そっか。じゃあ休みの日も、暇なときがあったら会いにくるよ」

「さすがにそこまでしてもらうわけにはいかないだろ」

「遠慮しなくてもいいのに」

こうして軽口を叩いていると、至くんとの距離がだんだんと縮まっていっているように思える。
きっと彼の方も、少しずつ私に心を開いてくれているのだろう。
その証拠のように、わずかに上がった彼の口角を見て、私は笑い声を上げた。
「な、何笑ってんだよ」

「ごめん。私ちょっと浮かれてるんだ」

「浮かれてる?」

「私ね、周りの女の子たちみたいに、恋人と触れ合うようなことなんて一生できないと思ってたから」

私がそう言うと、至くんは気まずそうに言葉を失った。

「もちろん私たちは付き合ってるわけじゃないけど、それでもちょっとドキドキするし楽しい。至くんってかっこいいし、なんだか少女漫画の主人公になったみたいだもん」

「ったく。ほんと能天気だな、あんた」

「もー。あんたじゃなくて、結花だってば」

「結花」

すると突然、至くんから下の名前で呼ばれて、今度は私が言葉に詰まってしまった。

結花と呼んでほしいとは言っていたけれど、彼の性格からして、それほど期待はできないと思っていたのに。

「名前を覚えていなかったって、あれは嘘だ。本当はちゃんと知ってた。初めから変な女だって思ってたから」

「え? ここにきて悪口?」

「ちげーよ」

否定はしてくれたものの、至くんはどうして私を変な女だと思っていたのかは教えてくれなかった。
初めからって、いったいいつから私のことを認識していたのだろう。
何をどうして、私みたいな平凡な人間を印象的に思ったというのか。

「ま、夢魔だとバレたのがあんたでよかったってことだ」

彼の心の底を覗き込めない悔しさを感じていると、してやったりと皮肉っぽく笑う至くんが、私の耳元で囁いた。
まるで私を堕とすかのように、低く甘い声で。
こんなふうに人の心を惑わすことができるだなんて、やっぱり彼はれっきとした夢魔であるらしい。



その日からというもの、私は朝と放課後の2回に分けて至くんに精気をあげるようになった。
定期的に人間の精気を摂取していれば、飢えたように空腹になることも、抑えきれない欲が出るようなこともなくなるらしい。
夢魔の性と戦う日々から解放され、精神的に落ち着いたせいか、目つきの悪さは変わらないものの、最近は彼本来の穏やかな性質が表に出るようになったと思う。
そして、変わったことといえばもうひとつ。

「そもそも公式を覚えてないってどういうことだよ。こんな問題、公式に当てはめるだけなんだから簡単だろ。さっさと覚えろ」

「だってその公式が全然頭に入ってこないんだもん! sinとかcosとか難しいよ! ♡とか⭐︎とか使って分かりやすくしてくれればいいのに!」

「アホみたいな文句言ってねーで、いいからとにかく頭に入れろ。おい、ここの公式はマイナスがつくから間違うなよ」

それは休み時間や放課後に、こうして二人で勉強会をするようになったということだった。
友達になるというだけでは精気をもらう対価には見合わないと思ったらしい至くんが、得意な勉強を私に教えてくれるようになったのだ。
ぶっきらぼうな口調でスパルタだけれど、彼は物覚えの悪い私に根気強く付き合ってくれる。
そして難しい問題が解けたら「やればできんじゃねーか」と言って褒めてくれる。
そんな飴と鞭のおかげか、このあいだの中間テストでは下から数えた方が早いくらいだった学年順位が、なんと20番台にまで上がったのだった。

「もうすぐ1年生も終わっちゃうね」

そんなことをして過ごすうちに、精気の受け渡しを始めてから早くも3ヶ月が経とうとしていた。
すでに至くんの前で制服を脱ぐことにも抵抗がなくなっていた私は、今日も今日とて慣れた手つきでボタンを外し、彼にむき出しの背中を向ける。
ややあって自分と違う体温が重なるのを感じながら、いつものように目を閉じた。
「文系科目までは面倒見れねーんだから、そっちは自分で頑張れよ」

「あー、そっかぁ。困ったなぁ」

私たちの学校は2年次から文理選択でクラスが分かれる。
つまり理系選択の至くんと文系選択の私は、4月から同じクラスになることがないのだ。

「至くんは私とクラスが離れて寂しくないの?」

「別に。どうせ朝と放課後は会うんだから、今までとそんなに変わらないだろ」

「ええー? 私はけっこう寂しいのに」

至くんがあっけらかんと答えるのに口を尖らせる。
けれどクラスが変わっても彼がこの秘密の関係を続けてくれるのだと知り、私は嬉しく思っていた。

しかしそれもいつまで続くかは分からない。
元々整った顔立ちをしている至くんは、ここにきて雰囲気が優しくなったせいか、みんなから遠巻きにされていたことが嘘のようにモテるようになったのだ。
4月からは新入生も入学してくるし、彼はきっと今以上に人気者になってしまうだろう。
だからこの先、もしも至くんに恋人ができたとしたら、この関係は解消しなければならなかった。
だって恋人でもない私が、こんなふうに彼に触れ続けるわけにはいかないのだから。

「ねぇ、至くん」

「どうした?」

少しだけ横を向いて、ギラギラと金色に光る目を見つめる。

「精気を喰べることには慣れた? もうあんまり気持ち悪いって思わない?」

「ああ」

「そっか、よかった」

至くんの言葉に安堵して微笑むと、彼の瞳がまるで溶け出すかのように和らいで見えた。

「持って生まれたものって、変えられないことの方が多いでしょ? それでも自分の中で折り合いをつけて、納得して生きられるのだとしたら、それってけっこう上等なことじゃない?」

「珍しく殊勝なことを言ってる」

「失礼な。私だってたまには真面目になったりするよ」

いったい私は彼の目にどれほど無鉄砲に映っているというのだろう。
あんまりな物言いに不貞腐れていると、打って変わって真剣な眼差しになった至くんに私は首を傾げた。

「至くん?」

「あんたも……」

「ん?」

「あんたも、何かに折り合いをつけて生きているのか」

それはまるで確信したような問い方だった。
彼の勘のよさに一瞬だけ呆気に取られてしまい、そんな動揺を隠すため、無理矢理に口角を上げる。

「そうかもしれないね」

曖昧な答え方をして口を閉ざすと、至くんはそれきり何も言うことはなかった。
こうすれば聡明な彼が踏み込んでくることはないと、ずるい私は分かっていたのだ。

――自分の中で折り合いをつけて、納得して生きられるのだとしたら、それってけっこう上等なことじゃない?

至くんを励ましたようでいて、本当はいつも自分自身に言い聞かせていた言葉を反芻する。

きっと人間は誰しもそう。
ままならない人生をなんとか送っていくために、たくさん考え、折れて、譲って、どうにかこうにか生きているのだ。
だから辛さも苦しさも全部、自分だけの感情ではない。
そう思えばこそ、生きていける。
いくら私が他人に言えない、おぞましい欲を抱えているのだとしても。
2年生になると至くんはもちろん、亜季ちゃんともクラスが離れてしまった私の周りは、以前よりも少しだけ静かになってしまった。
とはいえ新しく同じクラスになって仲よくなった子もいたりして、それはそれで楽しく平穏な日々を過ごしている。
しかしそんな私とは対照的に、至くんの周囲はなんだか騒がしいようだった。

「至くん、また告白されたんだってね」

「……なんでそんなこと知ってるんだよ」

「噂になってるもん。至くんがかわいくて有名な1年生から告白されたって」

私の精気を摂取してからというもの、依然としてモテ期が止まらない至くんは、新年度からまだ1ヶ月が経っていないというのに、なんと5人もの1年生から告白をされたらしい。
中でも昨日告白した子は地元誌の読者モデルをやっているという美人で、しかも性格もよく、気さくで優しいのだという。
噂によると、至くんはそんな素敵な子をにべもなく振ってしまったそうだ。

「すごくいい子だっていう話なのにもったいないなぁ。ねぇ、誰かと付き合ってみようかなって思ったことないの?」

「興味ねぇ」

興味津々で聞く私を尻目に見ながら、至くんが鬱陶しそうに一刀両断する。
そのままムスッと口を閉ざしてしまったので、私はそれ以上、彼にその手の話を振ることはできなくなってしまった。

おそらく至くんはまったく恋愛に興味のない人なのだろう。
そもそも恋愛に興味があれば私のような平凡な人間ではなく、もっと彼に似合う綺麗な人を誘惑して精気をもらっていたはずだ。
つまり至くんが恋愛に興味がないおかげで、私は彼と仲よくなることができたというわけだった。
なんとも言えないような申し訳なさと、現金にも嬉しく思ってしまう気持ちを認めながら、至くんの整った横顔を眺める。


それならまだもう少し、彼の一番近くにいさせてほしい。
いつか彼に大切な人ができるその日まで。

「じゃあそろそろ帰るね」

本日の精気の受け渡しも無事に終えていそいそと身支度をしていると、そんな私を見た至くんが無表情のまま立ち上がった。

「送ってく」

「まだ明るいから大丈夫だよ?」

「それでも送る」

「うん。ありがと」

季節は初夏に差しかかっている。
日も長くなったからまだ外は明るいというのに、至くんは毎回律儀に私を送ってくれるのだ。
彼の厚意に甘え、並んで歩きながらマンションを出る。
そしていつも通り駅へと向かっていると。

「結花?」

最寄駅の手前で、ふいに名前を呼ばれた。

「恭ちゃん!」

声のした方へ振り向けば、そこにはよく見知った人物が立っていた。
それは私の叔父――松嶋恭太(まつしまきょうた)だった。
私の姿を見つけて駆け寄ってきた恭ちゃんは、しかし隣に至くんがいたことに気づいたのか、とたんにバツの悪そうな顔をした。

「悪い。人と一緒だったんだな。もしかして彼氏か?」

「うん、そうだよ。この人は彼氏の我妻至くん」

恭ちゃんの間違いを訂正することなく頷き、おそるおそる至くんを見上げる。
彼氏と偽ったことに腹を立てるかと思ったものの、なぜか彼は気にした素振りもなく恭ちゃんに会釈をした。
「至くんにも紹介するね。私の叔父の松嶋恭太です」

「松嶋恭太って、画家の……?」

「至くん、恭ちゃんのこと知ってるの? 恭ちゃんぜんぜん売れっ子じゃないのに」

私の言葉を聞いた恭ちゃんが、「おいおい、ひどいな」と笑う。

至くんの言うとおり、恭ちゃんの職業は画家だった。
とはいえ画家としての仕事はほとんどなく、普段はデザイナー業や学校の講師をすることで食い繋いでいるようだけれど。

「2年くらい前にやってたグループ展で作品を見て、そのときに画集も買った」

「そうだったんだ! すごい偶然だね!」

「嬉しいな。君みたいな若い子に知ってもらえているなんて」

まさか至くんが恭ちゃんのことを知っていただなんて。
珍しく気持ちが高揚しているらしい至くんは、その後も「偶然見たグループ展の絵が印象的だった」だの「画集の中でも特にあの作品が好きだ」だの、普段の彼からは想像できないくらいの口数で語ってくれた。
そんな至くんを見て、ふといいアイデアを思いつく。

「至くん。今度恭ちゃんのアトリエに遊びに行かない?」

「え……」

「昔の絵とかもたくさんあるんだよ! ねぇ、いいよね恭ちゃん」

「もちろん、歓迎するよ」

私のおばあちゃんの家、つまり恭ちゃんの実家の車庫は10年前に改装され、今や彼のアトリエになっている。
そこには恭ちゃんの学生時代からの作品がたくさん残っているのだ。
あれらを見せたら、きっと至くんも喜んでくれるに違いない。
突然の提案に遠慮する至くんは、それでも私が強引に誘い続けると、やがておずおずと頷いてくれた。

「じゃあ恭ちゃん、次の土曜日に行くからよろしくね」

「ああ、分かった。待ってるよ」

「ありがとう!」

素敵な予定ができたと浮かれていると、恭ちゃんがわずかに目を細めたのが分かって、私は首を傾げた。

「どうかした?」

「いや、結花も彼氏ができるような歳になったんだなと思って。どおりで俺も老けるわけだ」

「何言ってるの、恭ちゃんは」

「ははっ。じゃあ俺は仕事だから、気をつけて帰れよ」

「うん、ばいばい」

去っていく恭ちゃんに手を振り、ふぅと息を吐く。
それから至くんを見上げると、彼はまだ遠ざかる恭ちゃんの背中を見つめていた。

「年齢は知らなかったけど、ずいぶん若いんだな。まだ20代半ばくらいか?」

「あはは、たしかに恭ちゃんって童顔だよね。あれでも今年33歳になるんだよ」

恭ちゃんは4人兄弟で一人だけ年の離れた末っ子だ。
兄弟の一番上である私のお母さんとはひと回り以上も離れていて、そのせいか今でも子供扱いをされているようだけれど、高校生の私から見ればじゅんぶんに大人だった。

「あんたが言ってた好きな人って、あの叔父のことだろ」

至くんの視線がようやく私へと向いたかと思うと、彼は確信したような瞳でそう言った。
「やっぱり分かっちゃった?」

「絶対に振り向いてくれないって言い切ってたから、何かしらの事情があるとは思ってた。なるほど、近親者か。そりゃあタブーだわな」

「うん。ごめんね、彼氏だなんて嘘ついて」

「別に。だけどなんであんな嘘を言ったんだよ」

至くんの言葉に苦笑いをする。

「ああ言ったら、恭ちゃんが安心してくれそうでしょ?」

「安心?」

「直接伝えたことはないけど、恭ちゃんは私の気持ちに気づいてるから」

私は物心がついたころからずっと恭ちゃんが好きだ。
そんな幼い恋心を、大人の彼が気づかないはずがない。

「でもそんなの困るだろうし、正直言って恭ちゃんも気持ち悪いはずでしょう?」

分別のつかない子供のころのことならまだしも、私はもうすっかりと成長した高校生だ。
そんな大きな姪っ子に今でも本気で恋をされているなんて、迷惑どころの話ではないだろう。
だから彼氏という存在がいれば、少しは安心してもらえると思ったのだ。

現実を言葉にすれば、改めて自分の醜悪さと直面させられる。
もはや作り笑顔で取り繕うことはできず、私は力なく視線を落とした。

「私だってね、ほかに好きな人をつくろうとしたこともあるんだよ。だけどダメだったの」

恭ちゃんを想い続けたところで、この恋が叶うことはない。
だから健全に、誰からも祝福されるような恋をしようと考えたことだってある。
中学生になったころから、身近な男の子たちと意識的に関わって、誰かを好きになれないかと頑張ってみた。
けれど優しくて大人な恭ちゃんより魅力的に映る男の子なんて、誰一人としていなかったのだ。

「それで気づいたんだ。私はきっと恭ちゃん以外の人を好きになることはないんだろうって」

生まれてからずっと、私は恭ちゃんが好きだ。
恭ちゃんだけ、恭ちゃんしか見えない。

「だから無理に諦めるのはやめたの」

その代わり、恭ちゃんにこの想いを伝えることは絶対にしない。
なるべく彼に安心してもらえるような振る舞いを心がける。
それがこの身勝手な恋心を消し去らない代わりに、私が自分自身に課したことだった。

「折り合いをつけている何かっていうのは、そのことだったのか」

ヤケになってぺらぺらと並べた私の話を、至くんはずっと静かに聞いていてくれた。
その瞳には否定も肯定も、同情も嫌悪もない。
ただひたすらに私の真意を見抜こうとしている。
そんな至くんの善良な心が、今の私には眩しすぎた。

「……私の精気、最近美味しくなったんじゃないかな」

脈絡のない私の言葉に、至くんが首をひねる。

「至くん、言ってたでしょ? 好きな人のことを考えてたら、精気が美味しくなるって」

最近になってようやく、至くんに抱きしめられていても恭ちゃんのことを考えていられるようになったのだ。
至くんに抱きしめられているあいだ、私はずっと想像している。
恭ちゃんとこんなふうにできたらいいのに、って。

「浅ましいでしょ」

品行方正な至くんと、近親者に恋をする私。

「どっちが本当の悪魔なのか分からないね」
至くんの善良さを引っ掻いてみたくて、八つ当たりでしかない言葉を吐く。
すると私が思ったとおり、至くんは痛ましそうに眉をわずかに歪ませた。



恭ちゃんと約束をした土曜日はすぐにやってきた。
至くんの家でいつものように精気の供給をし、それから二人で恭ちゃんのアトリエへと向かう。
いつもポーカーフェイスの至くんだけれど、今日はなんだか少しだけ浮かれているように見えた。
そんな彼の些細な変化に気づけるようになるくらいには、私たちが一緒に過ごした時間も長くなってきたのだろう。

「それにしても至くんが芸術好きだなんて知らなかったな」

「別に、芸術なんてまったく詳しくない」

「そうなの? ならなんで恭ちゃんのことを知ってたの?」

「グループ展に飾られてた松嶋さんの絵が、夢魔の絵だったんだ」

「ああ。恭ちゃんの絵、ファンタジー作品が多いもんね」

2年前、まだ中学生だった至くんは、駅前で配られていたグループ展のチラシを偶然受け取り、そこに載っていた恭ちゃんの絵に魅了されたらしい。
そしてその足でグループ展に向かい、画集まで買ったのだそうだ。

「あの人の描く夢魔があんまり綺麗で、俺もあんなふうだったらよかったのにって思った」

遠い目をしながら至くんが呟く。
彼は見た目も心も今のままで十分綺麗なのに、自分ではそうは思えないのだ。
そのことに、なんだか私まで寂しさを感じてしまう。

「恭ちゃんのアトリエまでもうすぐだよ。こっちこっち!」

「おい! 引っ張るな!」

そんな寂しさを振り払うように、私は至くんの服の裾を引っ張り、先を急いだ。

「おじゃましまーす!」

「おう。いらっしゃい」

アトリエに着くと、恭ちゃんはいつものように笑顔で迎えてくれた。
いつも少し散らかっている部屋の中は、至くんを招くためか、今日はきちんと整理整頓されている。

「お招きいただいてありがとうございます。これ、よければ召し上がってください」

すると私の横で珍しく緊張した様子の至くんが、手に持っていた紙袋を恭ちゃんに差し出した。
何か持っていると気になっていたけれど、どうやらそれは駅前にあるケーキ屋さんの紙袋だったらしい。
気軽に来てもらってよかったのに、手土産まで用意していたとは、やっぱり至くんは律儀な人だ。
中に入っていた焼き菓子の詰め合わせを見て、恭ちゃんも感心したように目を丸くした。

「ありがとう。せっかくだしみんなで食べようか。お茶でも淹れてこよう」

「私たちは先に見てるねー」

キッチンへと向かう恭ちゃんに声をかけ、いまだ遠慮気味な至くんの背中を押しながらアトリエへと足を踏み入れる。
たくさんのキャンバスが置かれている室内は、そう広くもないせいで、余計に絵に溢れた空間に見えた。

「だいたい時系列順で並んでるんだよ。こっちが学生時代に描いてたやつ」

「これ、昔の結花か?」

「そうだよ。小さいころの私と、おばあちゃんが飼ってたベルって子。目つきは鋭いけど、賢くていい子でね。ちょっと至くんに似てるでしよ?」

「誰がハスキーだよ」

「えー? けっこう似てると思うのに」
恭ちゃんの昔の絵には、私をモデルにしたものがたくさんある。
それは私が幼いとき、何度も自分の絵を描いてとせがんだせいだった。
私がお願いをすると、恭ちゃんは何枚でも絵を描いてみせてくれた。
恭ちゃんの描く絵はいつも夢みたいに優しくて綺麗で、幼いながらに彼の創る世界をずっと隣で見ていたいと思ったほどだった。
私の恭ちゃんへの想いは、このころから何も変わっていない。

「おまたせー」

私と至くんが並んで絵を眺めていると、お茶を持った恭ちゃんが帰ってきた。
至くんが持ってきたお菓子と恭ちゃんが淹れてくれたお茶を楽しみながら、今度は三人で恭ちゃんの絵を鑑賞する。
描いた絵の話をしている最中、恭ちゃんはずっと照れくさそうな顔をしながらも浮かれていた。
そりゃあ至くんのように綺麗な人が自分のファンで、きらきらした目で話を聞くのだから、そうなってしまうのも当たり前だろう。

「そんなに気に入ってもらえたなら、我妻くんにあげようか? この絵」

「えっ……?」

会話の最中、恭ちゃんはふいに夢魔の絵を至くんに贈るという提案をした。
きっと至くんはそんなことが起こるなど想像していなかったのだろう。
私の隣で、彼は見たことがないほどに目を丸くさせている。

「いえ、そんなつもりでこちらに伺ったわけじゃないですから」

「君にもらってもらえるなら、俺もその絵も本望だよ」

「そうだよ! 遠慮しないでもらっちゃいなよ至くん!」

至くんの部屋にこの絵が飾られれば、あのがらんとした部屋もきっと華やぐだろう。
それにこの絵の美しい夢魔を見ていれば、至くんも夢魔である自分を好きになってくれるかもしれない。
予想外の話にたじろぐ至くんに、私と恭ちゃんはなかば強引に絵を受け取らせた。
恭ちゃんが言うとおり、夢魔の絵も至くんの元にあれば幸せなはずだ。
優しい彼は、きっとこの先もこの絵を大切に扱ってくれる。

「よかったね、至くん」

「ああ」

思いがけず手に入った憧れの絵を、至くんがきらきらとした瞳で見下ろす。
そんな様子に目を細めていると、廊下の方から何やら誰かの足音が聞こえた。

「恭太いる? ちょっと急に一件依頼が入っちゃって」

百合(ゆり)

アトリエの扉の向こうから響いたのは、聞き慣れない女性の声だった。
どうやらその女性は恭ちゃんの知り合いらしい。
彼が扉を開くと、女性は中にいた私と至くんの存在に気づき、ハッと気まずそうな顔をした。

「ごめんなさい。お客様がいらっしゃってたのね」

「大丈夫だよ。仕事じゃなくて、姪っ子とその彼氏が遊びにきてるだけだから」

現れたのは、すっきりとしたショートヘアが印象的な大人の女性だった。
年齢はたぶん、恭ちゃんと同い年くらいだろう。
並んだ二人はどこか雰囲気が似ていて、まるで恋人同士か夫婦のようだ。

そんな二人を見て、胸がちりと痛む。
私と恭ちゃんが並んでも、こんなふうに絵にはならない。

「紹介するよ。一緒に仕事をしてる高梨(たかなし)百合さん」

「初めまして、高梨です。姪っ子の結花ちゃんよね?」

「は、はい」

「ずっとあなたにお会いしたかったの。よく彼の絵に描かれていたから」
あからさまな嫉妬心に駆られていると、高梨さんは初めて会ったはずの私の名前を呼んでくれた。
どうやら恭ちゃんが彼女に私の話をしていたらしい。
私とベルの描かれた絵がとても好きだと言う高梨さんは、私の気持ちを知らずに純粋に喜んでくれている。

「……もしかして高梨さんって、恭ちゃんの彼女?」

どこか確信を持って恭ちゃんに尋ねると、彼はやはり照れ臭そうに頷いた。

「ああ。今年中には籍を入れようって話してるんだ」

「そう、なんだね」

籍を入れるって、つまり結婚をするということか。
幸せそうに笑う恭ちゃんの顔を見て、さすがに目の前が真っ暗になるというようなことはなかった。
けれど喉の奥が詰まったように引き攣って、上手く声が出せない。
動揺が顔に表れないように無理矢理に笑顔をつくる。

「おめでとう、恭ちゃん。高梨さん、よかったら私とも仲よくしてくださいね」

「ええ。こちらこそ」

顔を見合わせて、恭ちゃんと高梨さんが微笑み合う。
そんな二人を眺めていると、どんどんと体の芯が冷えていくような気がした。

私は今、きちんと笑えているだろうか。
体は震えていないだろうか。
口角が痙攣しはじめ、慌てて俯き口元を隠す。
そんなことをしていると、ふいに腕を後ろに引かれた。

「仕事があるみたいだから、邪魔にならないうちに行こうぜ」

私の腕を引いたのは、静かにそばにいてくれた至くんだった。
彼はわざとらしくない程度に、自分の影に私を隠してくれているようだった。

「悪いね。せっかく来てくれたのに気を使わせてしまって」

「いえ。このあと飯に行くつもりだったんで」

「なぁ」と同意を求められ、頷きだけで応える。
そんな約束はしていなかったけれど、至くんはとっさの嘘でこの場を切り上げてくれるようだった。
そんな冷静な至くんの態度に、少し心が落ち着く。
ひとつ息を吐いて彼の影から出ると、私はもう一度恭ちゃんに向かって笑顔をつくった。

「じゃあもう行くね」

「ああ。帰りも気をつけろよ」

「結花は俺が送っていくので心配しないでください」

「今日はありがとうございました」と言って、至くんは私の手を引きながら足早にアトリエを後にした。
彼が向かう先は最寄駅とは反対方向だ。
おそらく人気の少ない場所に向かおうとしてくれているのだろう。
3分ほど歩いて静かな公園へと辿り着くと、至くんはくるりと振り返って私を見下ろした。
その目にはこちらを窺うような気持ちが滲んでいて、私は心配をかけてしまったことを申し訳なく思った。

「至くん、ありがとう。あと1分でもあそこにいたら、たぶん泣いちゃってたと思う」

「別に」

「そんな気まずそうな顔しないでよ。大丈夫。いつかこんな日が来るって分かってたし、ずっと心の準備はしてたから」

私が恭ちゃんと結婚できることは絶対にない。
だからこの日が来る覚悟はしてたのだ。

「だけど覚悟してたとはいえ、やっぱり辛いな」

堪えられなくなった涙が頬を伝う。
初めはひとすじ流れただけだったそれは、次第に壊れた蛇口のように溢れ出し、私の顔をひどい有り様にさせた。